集中認識とは?
今日の私の・私の今日の体験から、分かった事は以下です。
認識の集中は、目的意識的行為の結果の「ひとまとまり」。
目的意識の元に、集中して実行した事は、それは、「ひとまとまり」の感情化する。
以下が、その体験談である。
今日は、今年最後の燃えるゴミ「最終収集日」で、
朝起きて、「床の中での二分間の足上げ腹筋」・そのまま腕のストレッチ。
床から出て着替えて、カレンダに今日の気温・湿度(天気…今日は失念)。
愛猫マニャの二つの餌入れ・トイレの中の毎日の睡眠・トイレメモを持って一階へ、
そこでテレビを付けて石油ストーブに点火…
ここまでは徒然まま~今日出来事、それは、日によって少し変化するモノ。
さて、それからが、私の目的意識的な日々の習慣的な行為であり、今日の行動だった。
それは、今年・最終収集日の「ゴミ出し」。
その手順は以下。
先ず、一階の居間・食事部屋の屑籠の中のビニール袋を取り出し、それを持て二回へ
次の、二階では、息子の部屋の屑籠のゴミをビニール袋へ、
次に、その隣の私が寝起している畳部屋の屑籠のゴミをビニール袋へ、
二部屋の間の短い廊下に集められた「マニャの猫トイレの砂」を入れ、
また一階へ戻り、応接間の屑籠(二つある筈が今日は一つしか見つられず)のゴミビニール袋へ、
風呂場の脱衣所の屑籠のゴミ、最後に、居間・食事所のもう一つの屑箱を~
そして台所の屑籠、流しの排水溝と三角コーナーの水切りネットのゴミを全部集めたら、
最後に、それらを市指定の有料のゴミ袋へ入れて、
家の前の道路沿いに上からスーパーカゴを被せて置いて終了。
以上の記述は、「ゴミ出し」認識の集中の結果を言語表現したものである。
さてここから更に、
初めに、一階の台所の隣りの居間・食事所での「ゴミ入れ」認識の集中、
同様に、二階の息子部屋、畳部屋、その廊下…
そして、再度、一階の部屋・部屋…と外への「ゴミ出し」と続いて、完璧な「ゴミ出し」終了。
今、ここで私が、何を? 読者へ! 伝えたい!か?…は
tada氏分かって頂けるだろうと推測するが…
そう「ゴミ出し」認識が、全体的な「ひとまとまり」集中認識なら、
一階・二階の「ゴミ集め」認識は、部分的な「ひとまとまり」集中認識、
更に、二階の各部屋の「ゴミ集め」・「ひとまとまり」集中認識も部分集中認識。
ここの「ひとまとまり」の部分的な集中認識は、全体的な集中認識に「包括・包括」されているモノ。
私の「ゴミ出し」方法は、この元おやじ宅へ引っ越して以来、数年の自然成長的な「ゴミ集め・出し」の結果である。
元々の私のマンションでは、ゴミ集めも・出しも…もっともっとシンプルだった。
私は、オヤジ宅での、自然成長的な「ゴミ集め・出し」方法を確立して、
それらを「ひとまとまり」認識としている、のだろう~
そう~「全体的な集中認識」と「その部分としての集中認識」がとが、考えられる。
しかし、問題は、その全体も部分も、その当人が決めたモノ…
当人に目的意識的なの集中行為・行動の量質転化化した認識。
何を全体て、何を部分とするかは、
当人の目的意識の問題であり、非常に個性的な設定と言えよう。
これは、師範が御著書に書かれていた、
人類が、「森羅万象」から「万物」への概念創出・形成に数千年かかった…という言葉の想起。
もっとも…今まで、の私は、その理由・訳も分からずに「そうなんだ!」であったが…
また、空手技の「闘いから全体の部分的独立⇒個別技の誕生」も想起。
これは、人類が当初、現実界を「森羅」と「万象」に分け、
ここから対立物の統一として、「万物」と「ひとつにまとめ上げた?!
万神様から自然神、そして仏が神…
そうそう~多神教から一神教…
以上で~す♪♪♪また、続きを書く・書きたいかな…
今日の私の・私の今日の体験から、分かった事は以下です。
認識の集中は、目的意識的行為の結果の「ひとまとまり」。
目的意識の元に、集中して実行した事は、それは、「ひとまとまり」の感情化する。
以下が、その体験談である。
今日は、今年最後の燃えるゴミ「最終収集日」で、
朝起きて、「床の中での二分間の足上げ腹筋」・そのまま腕のストレッチ。
床から出て着替えて、カレンダに今日の気温・湿度(天気…今日は失念)。
愛猫マニャの二つの餌入れ・トイレの中の毎日の睡眠・トイレメモを持って一階へ、
そこでテレビを付けて石油ストーブに点火…
ここまでは徒然まま~今日出来事、それは、日によって少し変化するモノ。
さて、それからが、私の目的意識的な日々の習慣的な行為であり、今日の行動だった。
それは、今年・最終収集日の「ゴミ出し」。
その手順は以下。
先ず、一階の居間・食事部屋の屑籠の中のビニール袋を取り出し、それを持て二回へ
次の、二階では、息子の部屋の屑籠のゴミをビニール袋へ、
次に、その隣の私が寝起している畳部屋の屑籠のゴミをビニール袋へ、
二部屋の間の短い廊下に集められた「マニャの猫トイレの砂」を入れ、
また一階へ戻り、応接間の屑籠(二つある筈が今日は一つしか見つられず)のゴミビニール袋へ、
風呂場の脱衣所の屑籠のゴミ、最後に、居間・食事所のもう一つの屑箱を~
そして台所の屑籠、流しの排水溝と三角コーナーの水切りネットのゴミを全部集めたら、
最後に、それらを市指定の有料のゴミ袋へ入れて、
家の前の道路沿いに上からスーパーカゴを被せて置いて終了。
以上の記述は、「ゴミ出し」認識の集中の結果を言語表現したものである。
さてここから更に、
初めに、一階の台所の隣りの居間・食事所での「ゴミ入れ」認識の集中、
同様に、二階の息子部屋、畳部屋、その廊下…
そして、再度、一階の部屋・部屋…と外への「ゴミ出し」と続いて、完璧な「ゴミ出し」終了。
今、ここで私が、何を? 読者へ! 伝えたい!か?…は
tada氏分かって頂けるだろうと推測するが…
そう「ゴミ出し」認識が、全体的な「ひとまとまり」集中認識なら、
一階・二階の「ゴミ集め」認識は、部分的な「ひとまとまり」集中認識、
更に、二階の各部屋の「ゴミ集め」・「ひとまとまり」集中認識も部分集中認識。
ここの「ひとまとまり」の部分的な集中認識は、全体的な集中認識に「包括・包括」されているモノ。
私の「ゴミ出し」方法は、この元おやじ宅へ引っ越して以来、数年の自然成長的な「ゴミ集め・出し」の結果である。
元々の私のマンションでは、ゴミ集めも・出しも…もっともっとシンプルだった。
私は、オヤジ宅での、自然成長的な「ゴミ集め・出し」方法を確立して、
それらを「ひとまとまり」認識としている、のだろう~
そう~「全体的な集中認識」と「その部分としての集中認識」がとが、考えられる。
しかし、問題は、その全体も部分も、その当人が決めたモノ…
当人に目的意識的なの集中行為・行動の量質転化化した認識。
何を全体て、何を部分とするかは、
当人の目的意識の問題であり、非常に個性的な設定と言えよう。
これは、師範が御著書に書かれていた、
人類が、「森羅万象」から「万物」への概念創出・形成に数千年かかった…という言葉の想起。
もっとも…今まで、の私は、その理由・訳も分からずに「そうなんだ!」であったが…
また、空手技の「闘いから全体の部分的独立⇒個別技の誕生」も想起。
これは、人類が当初、現実界を「森羅」と「万象」に分け、
ここから対立物の統一として、「万物」と「ひとつにまとめ上げた?!
万神様から自然神、そして仏が神…
そうそう~多神教から一神教…
以上で~す♪♪♪また、続きを書く・書きたいかな…