忍者回廊巡り、真っ最中! その5(上忍の砦:百地砦)

2020-06-27 00:39:28 | 伊賀忍者回廊巡り
さて、道案内通りに進んで行くと迷うことなく「砦」に着くのですが、
(ワタシはおそらく普通の探検コースの逆を行っているかもしれない…と、ここで気付く

この道の先に
 階段
登ると、土塁に囲まれてはいますが、視界が広がります、
おっ、まさに昔 連れて来てもらった「砦跡」だ!!
(ワタシの経験値からすると、「連れられて来る!」のと、
「自ら行く!」のでは学習能力が違うのではないかと…最近思います(笑))

 百地丹波守砦由来記


百地城跡周辺案内図
(ここで悩ましいのが、2種類の呼び名がある!ということ。統一はムリかな!?)

【百地砦跡】(ご朱印には全く関係ありません!が、「忍者三大上忍」の一人ですから大切な人です)
≪百地丹波守(三太夫のこと)は戦国時代には北伊賀地域の有力な土豪として知られており、
この城跡は丘陵の尾根を利用してつくられたもので、最も山寄りの郭(くるわ)から
現在の青雲禅寺まで含めると長さ250m、幅は最も広い所で60mで市内でも有数の規模≫とのこと。
≪この砦近くには式部塚と百地家菩提寺の青雲禅寺、そして永保寺があります≫。
と、観光協会の説明にはあるのに(予習してるつもりでもダメなワタシ)、やっぱり逆コースだ!、、、
まっ、そんなことはどうでも良くて、この土塁や虎口と言われる要塞の数々

北東虎口、真ん中の奥の方に喰代の田園が垣間見える


南虎口、階段で登ってきたところが右端に見えます


土塁の一部

視点を変えるとこの景色です

おっ、いきなり現在に戻る…わけではなく、「昔、ここに砦があった!」という証(あかし)の場所です。
現在!というのは、ちゃんと案内板が用意されているということで

「砦」の説明
さて、クイズ


答:

昔、確かに ここに城(=砦)があった!

資料によりますと
≪土塀で囲まれたこの城の広さは約300坪(990㎡)あり、この中に三太夫の館、忍者の集会所、家人の住居が建てられていた≫
≪織田信長が伊賀を攻略した天正9年(1581年)の天正伊賀の乱の際に焼失し、当時を偲ぶものは土塁の残骸のみ≫とのこと。

さて、この砦から50mほど離れたところに
「南部女官式部之塚」と刻まれた塚がある!のをご存知でしょうか??
コメント
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