川合の「引接寺」(インジョウジ)の横を通り、
「石立寺」(セキリュウジ)というお寺がその先にある…
そこには「摩崖仏」があると教えられました。
初めて聞くお寺の名前ばかりで、漢字だけ見ていたらさっぱり読めません。
今回の勉強会で覚えました、もう忘れません!記録に残したので…
書いたからといって忘れないわけではないけれど、頭の中の引き出しに入れておきます(笑)。
少し山道(参道かな)を上ります、急坂だなぁ と思う間もなく到着。
「石立寺」参道脇の大岩に、六地蔵はじめ十五体の磨崖仏。
覆屋(オオイヤ)があって大切に残されている様子がわかります。
最初から十五体が彫られていたわけではなく、
六地蔵さんをを中心に次から次へ彫られたのでしょうか?
できれば、もう一度訪れてじっくりと拝ませて頂こうと思いました。
『阿山町指定文化財 石立寺磨崖佛
石立寺の参道わきにあり、六地蔵菩薩を中央上部に刻み、
その左右と中央部にも、仏及び地蔵菩薩が刻まれている。』
この「摩崖仏」から斜め右、すぐそこに「石立寺」。
現在は廃寺と思われますが、
謂れのある「仏像」があるようです、説明版から
『木造夜叉明王坐像 (モクゾウヤシャミョウオウ)
石立寺(セキリュウジ) 伊賀市指定文化財
木造、朱塗り、像高57㎝雨乞いの神事を掌る仏像 (神像)として信仰されてきた。
馬場の陽夫多神社、春祭りに行われている掲鼓踊り※は
この地にあった火明(ホアカシ)神社の踊りで、
合祀以前は旧暦六月十四日、この境内で行われていた。
伊賀市教育委員会』
※「大江の鞨鼓踊り」として披露される踊りですが、
2年続けてコロナ禍で中止、2022年度からは「担い手不足」により中止、と伺いました。
『阿山町指定文化財
火明神社羯鼓踊(ホアカシジンジャカッコオドリ)
無形文化財 約三百年前寛永年間から伝わり毎年氏神火明神社夏祭に
奉納し、旱ばつの時 雨乞踊として〇〇られていた
現在は陽夫多神社に合祀されている。』
「石立寺本堂」に向かって右側の空き地になっている所に、
「火明神社」は建てられていたそうです、今はご覧の通り…
一人ではなかなか探せなかったかもしれない場所、
グループ行動と導いてくださる方のおかげさま。
さて、この日最後の訪問地、
「柏野城跡」(新堂と佐那具の間、住所:柏野字宮ノ前)へ
🚙は「柏野公民館」をお借りします、
案内図とクイズ(答付き)
「天正の役」では、福地氏が織田方を手引きして柘植口から
丹羽・滝川ら1万2千の兵、福地城(過去ログご参考に)に陣を引き、柘植口を焼き払う。
伊賀勢「柏野城」へ籠るが、「霊山」に陣を構えた丹羽・滝川が攻撃。
多勢に無勢でたちまちのうち「柏野城落城」、無念の極み。
「轉輪寺」北西の裏山に築かれていたそうです。
右に「柏野公民館」、左奥に見えるのが「轉輪寺」。
民家の間を進みます、静かに歩きましょう~
そして、「獣害対策用」の柵もあります、開けたら閉める!
「柏野城跡案内板とクイズ」
≪伊賀市指定史跡
柏野城跡(カシワノジョウアト)
柏野城跡は、東西約100m、南北約70mの規模で、
東・西・南の三方に土塁が巡ります。
主郭の西側には堀切を設けて尾根を遮断し、東側に郭を設けて防御を固めています。
また、南側は郭への進入路を屈曲させるなど、防御の工夫が凝らされています。
この城跡は、天正伊賀の乱で近在の土豪が立て籠った城としても知られていて、
市の史跡に指定されています。≫
城跡まで190mほど、約数分で着きます。
途中に「祠」、ほぼ「全景」と「柏野城跡碑」
今出入り口の「堀切」と別の場所の「堀切」
「芭蕉句碑」と中央部に山桜、かなり背が高い、見上げればポツポツ咲き出していました、
(訪問日は4/2だったので、今頃はきっと咲いていると思います)
句碑
≪木啄も 庵は破らず 夏木立
「寺をつつきこわす鳥とされている木啄(きつつき)も、この庵(いおり)だけは破らなかったのだ。
今、夏木立に囲まれて、昔のままの別天地のような感じのする場所であるよ。」≫
最後に
里の桜と激戦が行われた山
「伊賀の中世城館」より「柏野城跡」
では、「轉輪寺」へ…改めてご報告します。
2022/4/09修正、「引接寺」の読み方間違えていました、すみません。
インジョウジ です
「石立寺」(セキリュウジ)というお寺がその先にある…
そこには「摩崖仏」があると教えられました。
初めて聞くお寺の名前ばかりで、漢字だけ見ていたらさっぱり読めません。
今回の勉強会で覚えました、もう忘れません!記録に残したので…
書いたからといって忘れないわけではないけれど、頭の中の引き出しに入れておきます(笑)。
少し山道(参道かな)を上ります、急坂だなぁ と思う間もなく到着。
「石立寺」参道脇の大岩に、六地蔵はじめ十五体の磨崖仏。
覆屋(オオイヤ)があって大切に残されている様子がわかります。
最初から十五体が彫られていたわけではなく、
六地蔵さんをを中心に次から次へ彫られたのでしょうか?
できれば、もう一度訪れてじっくりと拝ませて頂こうと思いました。
『阿山町指定文化財 石立寺磨崖佛
石立寺の参道わきにあり、六地蔵菩薩を中央上部に刻み、
その左右と中央部にも、仏及び地蔵菩薩が刻まれている。』
この「摩崖仏」から斜め右、すぐそこに「石立寺」。
現在は廃寺と思われますが、
謂れのある「仏像」があるようです、説明版から
『木造夜叉明王坐像 (モクゾウヤシャミョウオウ)
石立寺(セキリュウジ) 伊賀市指定文化財
木造、朱塗り、像高57㎝雨乞いの神事を掌る仏像 (神像)として信仰されてきた。
馬場の陽夫多神社、春祭りに行われている掲鼓踊り※は
この地にあった火明(ホアカシ)神社の踊りで、
合祀以前は旧暦六月十四日、この境内で行われていた。
伊賀市教育委員会』
※「大江の鞨鼓踊り」として披露される踊りですが、
2年続けてコロナ禍で中止、2022年度からは「担い手不足」により中止、と伺いました。
『阿山町指定文化財
火明神社羯鼓踊(ホアカシジンジャカッコオドリ)
無形文化財 約三百年前寛永年間から伝わり毎年氏神火明神社夏祭に
奉納し、旱ばつの時 雨乞踊として〇〇られていた
現在は陽夫多神社に合祀されている。』
「石立寺本堂」に向かって右側の空き地になっている所に、
「火明神社」は建てられていたそうです、今はご覧の通り…
一人ではなかなか探せなかったかもしれない場所、
グループ行動と導いてくださる方のおかげさま。
さて、この日最後の訪問地、
「柏野城跡」(新堂と佐那具の間、住所:柏野字宮ノ前)へ
🚙は「柏野公民館」をお借りします、
案内図とクイズ(答付き)
「天正の役」では、福地氏が織田方を手引きして柘植口から
丹羽・滝川ら1万2千の兵、福地城(過去ログご参考に)に陣を引き、柘植口を焼き払う。
伊賀勢「柏野城」へ籠るが、「霊山」に陣を構えた丹羽・滝川が攻撃。
多勢に無勢でたちまちのうち「柏野城落城」、無念の極み。
「轉輪寺」北西の裏山に築かれていたそうです。
右に「柏野公民館」、左奥に見えるのが「轉輪寺」。
民家の間を進みます、静かに歩きましょう~
そして、「獣害対策用」の柵もあります、開けたら閉める!
「柏野城跡案内板とクイズ」
≪伊賀市指定史跡
柏野城跡(カシワノジョウアト)
柏野城跡は、東西約100m、南北約70mの規模で、
東・西・南の三方に土塁が巡ります。
主郭の西側には堀切を設けて尾根を遮断し、東側に郭を設けて防御を固めています。
また、南側は郭への進入路を屈曲させるなど、防御の工夫が凝らされています。
この城跡は、天正伊賀の乱で近在の土豪が立て籠った城としても知られていて、
市の史跡に指定されています。≫
城跡まで190mほど、約数分で着きます。
途中に「祠」、ほぼ「全景」と「柏野城跡碑」
今出入り口の「堀切」と別の場所の「堀切」
「芭蕉句碑」と中央部に山桜、かなり背が高い、見上げればポツポツ咲き出していました、
(訪問日は4/2だったので、今頃はきっと咲いていると思います)
句碑
≪木啄も 庵は破らず 夏木立
「寺をつつきこわす鳥とされている木啄(きつつき)も、この庵(いおり)だけは破らなかったのだ。
今、夏木立に囲まれて、昔のままの別天地のような感じのする場所であるよ。」≫
最後に
里の桜と激戦が行われた山
「伊賀の中世城館」より「柏野城跡」
では、「轉輪寺」へ…改めてご報告します。
2022/4/09修正、「引接寺」の読み方間違えていました、すみません。
インジョウジ です
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