まさか、ここで?というおはなしです。
いつもの歩きなれた城下町を少し外れて「搭西坂」(トウセイザカ)を下りて「西御旅所」へ。
「搭西坂通り」と言われているところを通り、西の端両側にはお寺です。
「飛来山浄蓮寺」(真宗大谷派)
「金傳寺」(真言宗豊山派)北側です
真っ直ぐ前にお地蔵様がいらっしゃるのですが、びしゃこ(ヒサカキ)でちょっと見えませんので
失礼しました…
この角から「搭西坂」です。
上野の台地を一気に下る坂で、石垣もあり、
下りて二つの通り(向島から来る道と西大手から下りる道)を比べると
かなりの急坂であることがわかります。その坂を小走りで下り、急角度で曲がるとすぐに階段。
目を凝らして読むと「祭神大彦命」(オオヒコノミコト)?でしょうか。
上り切って振り返ると
「搭西通り」がスッキリと見えます
(別の日に撮り直したので光り方が違います(笑))
私的に言いなれた名前が「西(の)御旅所」ですが、正式には【安部神社】(上野下幸坂町)です。
秋の「上野天神祭」の時に、神輿行列が休憩する所で、「菅原神社(天神さん)」の飛地境内社とのこと。
「鬼町」住人としては、どうしても「祭」を優先的に考えるので、
「神さんがお昼休憩をして英気を養い、午後の行列に出ていくところ」というイメージなんですね(笑)。
でも行く機会がほとんどないので、たまにはお邪魔しようと思い立ったわけです。
そこで、
上って右へ行くと「鍵屋の辻」って?
ワタシにとって謎の言葉、この上に上ると「鍵屋の辻」に出る??
地理的には何ら不思議はないのですが、さすがに60数年知らなかった場所です
境内をぐるっと見渡してみると随分古びてちょっと寂しい限りですが、
丁度地元の方でしょうか「ここに神社があるとは知らなかったので」と、
先に見学しておられ、ワタシと同じような人もいらっしゃるのだと少しホッとしました…
では境内の様子ですが、正面に【幸福寺地蔵堂】。
由緒書きによると
≪此処は江戸時代に栄え、明治に入って廃寺となった真言宗金龍山幸福寺の旧址で、
現存の建物は、その一部の地蔵堂の遺構である。
本尊は永禄三年(1560年)八月廿四日の室町時代末期の刻銘のある等身大の地蔵石仏で、
慶長年間伊予より入国後の藤堂高虎公の伊州巡視に際し、
墓の谷※の溝に架かりし石仏を駒止めの霊異によりて発掘し、当寺に安置したものといわれている≫
※墓の谷=現・廣禅寺のお墓の辺り
≪江戸時代を通じ、里人の地蔵信仰は篤く、そのためか顔面は磨滅し 、
顔のないお地蔵さんの名は、世々の里人の間に伝承されて来た。
女人泰産、衆病悉除、寿命長遠、聡明智恵、財宝盈溢、穀物成就など、
その功徳の深遠なる有難き延命地蔵尊として、広く伊州一円の尊崇を、得ていたのであるが、
時の流れはすべてを忘却の彼方へおしやり、現在では松籟(ショウライ)※の音もまばらに、
境内は閑寂の気につつまれている。 幸福寺地蔵保存会 ≫ 確かに…
※松籟の音=松の梢(コズエ)に吹く風。また、その音。松韻。
同じ境内、北側に目をやると【安部神社】
由緒書きと奥の「本殿」
≪祭神は大彦命で古代の伊賀の豪族と言われる。
大彦命の裔(=子孫)である阿閉氏(アベシ)が祖先を祀った神社≫とのこと。
安部神社側から境内全景
もひとつ不思議な説明板がありました…
「青面金剛文字庚申搭遺構」?
どこに「鍵屋の辻」へ行く道があるのかと探していると、
境内北側に巨木二本
その横に石段あり!
さぁ、この先どうなっているのか…
続きます、ではまた
いつもの歩きなれた城下町を少し外れて「搭西坂」(トウセイザカ)を下りて「西御旅所」へ。
「搭西坂通り」と言われているところを通り、西の端両側にはお寺です。
「飛来山浄蓮寺」(真宗大谷派)
「金傳寺」(真言宗豊山派)北側です
真っ直ぐ前にお地蔵様がいらっしゃるのですが、びしゃこ(ヒサカキ)でちょっと見えませんので
失礼しました…
この角から「搭西坂」です。
上野の台地を一気に下る坂で、石垣もあり、
下りて二つの通り(向島から来る道と西大手から下りる道)を比べると
かなりの急坂であることがわかります。その坂を小走りで下り、急角度で曲がるとすぐに階段。
目を凝らして読むと「祭神大彦命」(オオヒコノミコト)?でしょうか。
上り切って振り返ると
「搭西通り」がスッキリと見えます
(別の日に撮り直したので光り方が違います(笑))
私的に言いなれた名前が「西(の)御旅所」ですが、正式には【安部神社】(上野下幸坂町)です。
秋の「上野天神祭」の時に、神輿行列が休憩する所で、「菅原神社(天神さん)」の飛地境内社とのこと。
「鬼町」住人としては、どうしても「祭」を優先的に考えるので、
「神さんがお昼休憩をして英気を養い、午後の行列に出ていくところ」というイメージなんですね(笑)。
でも行く機会がほとんどないので、たまにはお邪魔しようと思い立ったわけです。
そこで、
上って右へ行くと「鍵屋の辻」って?
ワタシにとって謎の言葉、この上に上ると「鍵屋の辻」に出る??
地理的には何ら不思議はないのですが、さすがに60数年知らなかった場所です
境内をぐるっと見渡してみると随分古びてちょっと寂しい限りですが、
丁度地元の方でしょうか「ここに神社があるとは知らなかったので」と、
先に見学しておられ、ワタシと同じような人もいらっしゃるのだと少しホッとしました…
では境内の様子ですが、正面に【幸福寺地蔵堂】。
由緒書きによると
≪此処は江戸時代に栄え、明治に入って廃寺となった真言宗金龍山幸福寺の旧址で、
現存の建物は、その一部の地蔵堂の遺構である。
本尊は永禄三年(1560年)八月廿四日の室町時代末期の刻銘のある等身大の地蔵石仏で、
慶長年間伊予より入国後の藤堂高虎公の伊州巡視に際し、
墓の谷※の溝に架かりし石仏を駒止めの霊異によりて発掘し、当寺に安置したものといわれている≫
※墓の谷=現・廣禅寺のお墓の辺り
≪江戸時代を通じ、里人の地蔵信仰は篤く、そのためか顔面は磨滅し 、
顔のないお地蔵さんの名は、世々の里人の間に伝承されて来た。
女人泰産、衆病悉除、寿命長遠、聡明智恵、財宝盈溢、穀物成就など、
その功徳の深遠なる有難き延命地蔵尊として、広く伊州一円の尊崇を、得ていたのであるが、
時の流れはすべてを忘却の彼方へおしやり、現在では松籟(ショウライ)※の音もまばらに、
境内は閑寂の気につつまれている。 幸福寺地蔵保存会 ≫ 確かに…
※松籟の音=松の梢(コズエ)に吹く風。また、その音。松韻。
同じ境内、北側に目をやると【安部神社】
由緒書きと奥の「本殿」
≪祭神は大彦命で古代の伊賀の豪族と言われる。
大彦命の裔(=子孫)である阿閉氏(アベシ)が祖先を祀った神社≫とのこと。
安部神社側から境内全景
もひとつ不思議な説明板がありました…
「青面金剛文字庚申搭遺構」?
どこに「鍵屋の辻」へ行く道があるのかと探していると、
境内北側に巨木二本
その横に石段あり!
さぁ、この先どうなっているのか…
続きます、ではまた
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