明治と昭和の長野隧道を見てきてからずい分経ってしまいました…
(再掲)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1a/72/d9cb4044464e9446b5546be288defc66_s.jpg)
左)明治18年開通(伊勢側から)長野隧道(花崗岩製)
右)昭和14年開通した(伊勢側から)長野トンネル
同じ日(2/25)に行ったのに「芭蕉句碑」やら「平松宿」のことが今頃の報告で💦…
気になりつつ、覚書しておきます。
昔、伊賀國山田郡だった頃の絵図が残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6b/ad/a1aeadd48c564ac56b0e1269cab2b8b4_s.jpg)
正保(1644年頃)「伊賀國絵図」(三重県歴史情報より)
この伊賀國全体絵図の中の、真ん中よりやや左下あたりが「山田郡」を通る「伊賀街道」。
(大山田百選より)
大山田村史より「街道絵図」。
当時の面影というものは残っていませんが、
芭蕉さんがココを通った折のその風景やら心の内を詠んだであろうことは、
句碑などで想像することはできる、かもしれません。
その場の風景だったのか、後付けの景色なのかはわかりませんが、
この伊賀街道と芭蕉さんって、馴染めるんですよね。
長野峠を🚙で通る時、どこで折れたらここに辿り着くのか、
やっぱり一人ではなかなかわからなかったのですが…
下阿波須原の大橋を渡ったところ、自然石花崗岩の道標と共に
芭蕉句碑 『からかさに 押しわけみたる 柳かな』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/33/f6/5662c925bfdd1f25026154a9ce3a90eb_s.jpg)
冬枯れしているますがきっとこの木は「柳」だ、と確信しています。
そっと傘(=からかさ)で押して垣間見えた…その風景が、まさに古里伊賀だったのか。
江戸で詠んだ句とはいえ、深層心理としてやっぱり伊賀は恋しいところだったか。
「街道絵図」では【下阿波村/大橋茶屋】と書いてあるところです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/22/30/60e565eee879c52c8b3c09cb9ac1ecb0_s.jpg)
※読売新聞社編「街道いまむかし」(平成元年頃発行)より「旧大橋跡/心地よいせせらぎ」
富永、猿野(マシノ)を過ぎて「平松宿」は、左へ折れます…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/75/95/c7daf47e368cf5076d918bf97c84ab44_s.jpg)
ここにも大きな自然石花崗岩の『阿波大仏の道標』
平松宿に入る手前になります、この道を西に進めば「阿波の大仏さん」(新大仏寺)。
伊勢からの客人にはこの道が近道だったとか。
さて、この道標、なんと書いてある?(大山田百選という本を頼りにして)
『右 大佛 いはやふどう明王しゅんじょうぼう 道 かけぬけ本みちよりちかし』だそうな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/61/c3/18a7d457da43cbab0803cf1445950611_s.jpg)
「俊乗坊」という「東大寺」を再建された偉いお坊様がおられ、
その俊乗坊さんが開祖となって「東大寺別所/新大仏寺」を創られたとか。
「天下の嶮」ともいわれるあの長野峠の道を開削してくれた人でもあるそうで、
村人や旅人にとっては有難いお人だったわけです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/14/c4/a6df0811d77514faca16318c80584a3c_s.jpg)
※「街道いまむかし」より「大仏道標/新大仏寺への近道」
ここから「平松宿」が始まります、その沿革が街道筋に残されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/32/0b/196b3d41c0ac628862e09fdd9e8bad2f_s.jpg)
(大山田百選、大山田村史より)
※「街道いまむかし」より「平松宿/江戸時代 旅籠がずらり」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1a/5b/505f77fdfcf302893bb791111d1ff8ab_s.jpg)
(大山田村史より/平田宿と平松宿)
街道の真ん中あたりに「板屋(イタヤ)」という有名なお宿があったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1b/2a/58bc55ee5f81e1d3c58e03bc6e1aa75c_s.jpg)
今は名残りの「瓦」が残っているのみですが、このお宿がなかなか繁盛していたらしく…
(大山田百選より)
※「街道いまむかし」より「板屋/旅籠の面影今も残す」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1a/5b/505f77fdfcf302893bb791111d1ff8ab_s.jpg)
この「平松宿」に伺う前に「大山田郷土歴史博物館」で学習しておきましたので、
その「板屋」さんの『庇(ヒサシ)屋根の瓦』が残っていましたのでご覧ください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2b/1e/de85fd4d4f47d1dc79e13f0e6746704e_s.jpg)
掲示されていた写真を撮ったので見にくいですが「庇屋根の瓦」って、こんな風なものです。
目出度い「七福神」などでお客様をお迎えしていたとか、楽しそうな造作です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/4a/99/6a9b0953ddfe2a89e86667768c3631d8_s.jpg)
両端にあったであろう瓦、女中さん、鼠さんか?、亀に鯉。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/75/d9/a09db6e2b784737631add20e78c0075d_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/76/78/9412794f01ec709730f8b20d53355ab7_s.jpg)
「板屋」瓦、何故か「板に矢」。最後にこれも目出度い「鶴」さん?「鳳凰」か?
この先、先ほどの「土橋」を渡ると「子延(ネノビ)」方面へ行くのですが、その手前に…
なんと「神社」がありましたので、次回はそちらのご紹介を
では、また
(再掲)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/40/8b/da68b91b8f411ed19727f012e3664ba8_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1a/72/d9cb4044464e9446b5546be288defc66_s.jpg)
左)明治18年開通(伊勢側から)長野隧道(花崗岩製)
右)昭和14年開通した(伊勢側から)長野トンネル
同じ日(2/25)に行ったのに「芭蕉句碑」やら「平松宿」のことが今頃の報告で💦…
気になりつつ、覚書しておきます。
昔、伊賀國山田郡だった頃の絵図が残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6b/ad/a1aeadd48c564ac56b0e1269cab2b8b4_s.jpg)
正保(1644年頃)「伊賀國絵図」(三重県歴史情報より)
この伊賀國全体絵図の中の、真ん中よりやや左下あたりが「山田郡」を通る「伊賀街道」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/47/0b/dfc6ff5134a559765f213626c993b992_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/78/35/45767f41cbd67f7a5467712c8ee0a5a5_s.jpg)
当時の面影というものは残っていませんが、
芭蕉さんがココを通った折のその風景やら心の内を詠んだであろうことは、
句碑などで想像することはできる、かもしれません。
その場の風景だったのか、後付けの景色なのかはわかりませんが、
この伊賀街道と芭蕉さんって、馴染めるんですよね。
長野峠を🚙で通る時、どこで折れたらここに辿り着くのか、
やっぱり一人ではなかなかわからなかったのですが…
下阿波須原の大橋を渡ったところ、自然石花崗岩の道標と共に
芭蕉句碑 『からかさに 押しわけみたる 柳かな』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/38/d2/dcd69a4b7f66c6a9b8eafb8bbdda49a8_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/67/55/cdd2b71ca55bc755356d87fac008569f_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7d/a5/898ea567f5600b5188e38e75749b6ba4_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/33/f6/5662c925bfdd1f25026154a9ce3a90eb_s.jpg)
冬枯れしているますがきっとこの木は「柳」だ、と確信しています。
そっと傘(=からかさ)で押して垣間見えた…その風景が、まさに古里伊賀だったのか。
江戸で詠んだ句とはいえ、深層心理としてやっぱり伊賀は恋しいところだったか。
「街道絵図」では【下阿波村/大橋茶屋】と書いてあるところです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/22/30/60e565eee879c52c8b3c09cb9ac1ecb0_s.jpg)
※読売新聞社編「街道いまむかし」(平成元年頃発行)より「旧大橋跡/心地よいせせらぎ」
富永、猿野(マシノ)を過ぎて「平松宿」は、左へ折れます…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/08/56/d941a82e4e350e221aa82cd1d671c816_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/75/95/c7daf47e368cf5076d918bf97c84ab44_s.jpg)
ここにも大きな自然石花崗岩の『阿波大仏の道標』
平松宿に入る手前になります、この道を西に進めば「阿波の大仏さん」(新大仏寺)。
伊勢からの客人にはこの道が近道だったとか。
さて、この道標、なんと書いてある?(大山田百選という本を頼りにして)
『右 大佛 いはやふどう明王しゅんじょうぼう 道 かけぬけ本みちよりちかし』だそうな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/61/c3/18a7d457da43cbab0803cf1445950611_s.jpg)
「俊乗坊」という「東大寺」を再建された偉いお坊様がおられ、
その俊乗坊さんが開祖となって「東大寺別所/新大仏寺」を創られたとか。
「天下の嶮」ともいわれるあの長野峠の道を開削してくれた人でもあるそうで、
村人や旅人にとっては有難いお人だったわけです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/14/c4/a6df0811d77514faca16318c80584a3c_s.jpg)
※「街道いまむかし」より「大仏道標/新大仏寺への近道」
ここから「平松宿」が始まります、その沿革が街道筋に残されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3a/ab/8be968ca2f347315e91bf0bf6deae8e5_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/50/16/9664a594feb5a19880df7151bcedaefd_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/32/0b/196b3d41c0ac628862e09fdd9e8bad2f_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1b/2f/bca5c6e6e52ed1bc89fb4f3a3c110d37_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/32/ec/c0a928d0276dbce88d33047c979a198a_s.jpg)
※「街道いまむかし」より「平松宿/江戸時代 旅籠がずらり」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1a/5b/505f77fdfcf302893bb791111d1ff8ab_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/01/e5/a34688e8fb7cc561e4bedc722ed2ab9d_s.jpg)
街道の真ん中あたりに「板屋(イタヤ)」という有名なお宿があったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/33/e6/f667e765acfbd74f5d465ba611067bd7_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1b/2a/58bc55ee5f81e1d3c58e03bc6e1aa75c_s.jpg)
今は名残りの「瓦」が残っているのみですが、このお宿がなかなか繁盛していたらしく…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/45/b4/40df850caa32c924094280a6ed8bb693_s.jpg)
※「街道いまむかし」より「板屋/旅籠の面影今も残す」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1a/5b/505f77fdfcf302893bb791111d1ff8ab_s.jpg)
この「平松宿」に伺う前に「大山田郷土歴史博物館」で学習しておきましたので、
その「板屋」さんの『庇(ヒサシ)屋根の瓦』が残っていましたのでご覧ください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2b/1e/de85fd4d4f47d1dc79e13f0e6746704e_s.jpg)
掲示されていた写真を撮ったので見にくいですが「庇屋根の瓦」って、こんな風なものです。
目出度い「七福神」などでお客様をお迎えしていたとか、楽しそうな造作です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/4e/39/3b98a9a90144d86ddd6d48d433db2ebc_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7f/fb/85637a35e7426ed839cb4633df708440_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/55/37/54e0e1be14a3f7df940a53932e879794_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/29/ba/49b9a7fa9c1f94d3b9d6a491c7c7f921_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/4a/99/6a9b0953ddfe2a89e86667768c3631d8_s.jpg)
両端にあったであろう瓦、女中さん、鼠さんか?、亀に鯉。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/29/f7/6def1d5a4ececbec914441c0aa0c9741_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3f/b1/57fcd51ec21ff86865546b21079ea8af_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/75/d9/a09db6e2b784737631add20e78c0075d_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/4e/af/225876a32af1e4d1ee4e28ee32d9ebc2_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/76/78/9412794f01ec709730f8b20d53355ab7_s.jpg)
「板屋」瓦、何故か「板に矢」。最後にこれも目出度い「鶴」さん?「鳳凰」か?
この先、先ほどの「土橋」を渡ると「子延(ネノビ)」方面へ行くのですが、その手前に…
なんと「神社」がありましたので、次回はそちらのご紹介を
では、また
当時の貴重な走行シーンを撮られた方がいらして、YouTubeで公開されていました。
「三重交通 上野営業所」で、動画検索すると以下以外にも色々と拝見できます。
8mmビデオで甦る/乗り物チャンネル 様
三重交通 上野営業所③ 菅原神社の前を走るバス 1992(平成4)年11月8日
https://www.youtube.com/watch?v=VkN3C97CQfE
伊賀街道が津までの163号になる前年で、農人町交差から東のバイパスや小田高架橋が未開通の頃で、
163号沿の商業施設は県内発祥のホームセンターが出来ていたくらいで、白鳳通りも出来る前になります。
つまり本町通りが最盛期で25号だったころで、バスの外看板も必見ですね😭。
三重交通 上野営業所② 夜の上野市駅他(奈良交通映像あり)
https://www.youtube.com/watch?v=QnYY1eAUVtY
蓑虫庵前を走る菅生行バス、上野センターのネオンの輝きや、とくに名阪特急バスは感激ものです😭。
当方がバスにこだわるのは、実は父親が鹿🦌マークの奈良交通の名阪特急バス🚌に乗務していたからで、
この動画の撮影終了時間から、天理へもう一往復ぐらいした時間にいつも帰宅していました。
もしやと思いますが、流石に確認できずです。
正 ○上野産業会館発
駅前のタクシーの多さにも今更ながらビックリです、需要と供給のバランスが取れてた時代ですかね…
今は止まってて2台くらいやろか💦
タクシーを必要とする高齢者など増えてきたのにこれでええんかなぁと少々心配になってきます。
moni5187様、ほんとに懐かしい映像を探していただき感謝します、奈良交通の鹿さんもバッチリ見ました。