「菅原大邊神社」から一路、大野木の田園地帯に向かいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/33/89/385b5538557b1f14e3e908b70c4c007d_s.jpg)
大昔と違って、すっきりと整備されている田園地帯を行きます、
その一角に、小さな「杜」らしき…中には「石碑」が、
北の山並みとマッチング!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/31/25/beb09b7ddcdba4e070415b5f3163d54d_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/03/91/155289c7ba78249dab628cec8946b0f8_s.jpg)
裏に回ると「昭和4年…清水氏子」と彫られています、
これはシミズではなく「ショウズ」と読みます。
南方面から見ると右に「国道25号線=波多野街道」、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1b/5d/4a457b509de09a5d9381e2b1dff453be_s.jpg)
この先に見えるのは「中世城館」が残る景色、その先の西方面の山裾に「菅原大邊神社」。
「菅原大邊神社」の境内社のご祭神の一柱に『山内首藤 経俊(ヤマノウチスドウ ツネトシ)』がおられます。
≪平家滅亡以後、元久の頃(1204~1206)、須藤刑部丞經俊(1137-1225)=山内首藤 経俊、
(⇒2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第10回で源頼朝に乳母兄弟であるとして命乞い、助かる。
以後頼朝の家臣となる。
その後『伊勢、伊賀の守護』となり鎌倉より来て、
『清水の郷に館を建てて居住す』≫との言い伝えあり。
その山内氏の「館」がここにあったのではないかという「証」の石碑かもしれない。
歴史と現世の狭間を垣間見た次第。
ではまた
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/36/12/cc26b5d198ca9457688a54bc04794180_s.jpg)
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大昔と違って、すっきりと整備されている田園地帯を行きます、
その一角に、小さな「杜」らしき…中には「石碑」が、
北の山並みとマッチング!
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裏に回ると「昭和4年…清水氏子」と彫られています、
これはシミズではなく「ショウズ」と読みます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/22/4b/c34beff09af7b95d82ee5d47dd483ed4_s.jpg)
南方面から見ると右に「国道25号線=波多野街道」、
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この先に見えるのは「中世城館」が残る景色、その先の西方面の山裾に「菅原大邊神社」。
「菅原大邊神社」の境内社のご祭神の一柱に『山内首藤 経俊(ヤマノウチスドウ ツネトシ)』がおられます。
≪平家滅亡以後、元久の頃(1204~1206)、須藤刑部丞經俊(1137-1225)=山内首藤 経俊、
(⇒2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第10回で源頼朝に乳母兄弟であるとして命乞い、助かる。
以後頼朝の家臣となる。
その後『伊勢、伊賀の守護』となり鎌倉より来て、
『清水の郷に館を建てて居住す』≫との言い伝えあり。
その山内氏の「館」がここにあったのではないかという「証」の石碑かもしれない。
歴史と現世の狭間を垣間見た次第。
ではまた
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