巡るところは多く、長田「射手神社」→大野木「菅原大邊神社」、「中世城館」群→
「岩根の摩崖仏」、そして「岡八幡宮(白樫)」という行程(6/4)。
今回は、「このような歴史ある『神社』がここにあったのね、編」です。
いつもながら一日行っただけでは「へぇ~」で終わってしまいます。
場所の再確認も兼ねて、昨日(6/5)も朝から「復習」して参りました。
なので写真は2日分ゴチャゴチャ入り交じり状態かもしれません、あしからず。
駐車場は山裾に向かって細い道を行けばありました。

地図を見ると近くに「大池」という灌漑用の名前通りの大きな池があります。
私的チャレンジ研修なので、先ず「大池」の様子を…
池の周りを半周する感じで歩きますが、途中で「お地蔵さん」に出会えます。

ここで一番奥になります。戻り道で釣り人にすれ違う(笑)。
戻って、駐車場の傍にも「お地蔵さん」と「(梵字)と南阿弥陀・」の石碑があります。

幾度となく走り慣れた「長田⇔大内間のコリドール道」ですが、
今まではただ真っ直ぐ走っていただけなのに、ふっと西の方角をみれば「鳥居」が見える!
ということに気づきます、ここに「神社」があると教えていただいたおかげの「鳥居」なので、
この「第一の鳥居」からの参道を歩きたいと思いました。
多分、正式にはここから入るのだろうと…
遠くから見えた「鳥居」は目の前、アザミと共に。

振り返れば田園の中にこんもりとした「森」が三つほど、
大野木地区で今も残る「中世城館」で「土塁」も残る「館」かと思われます。
これはまたいづれ…

では、お参りさせていただきますが、「第一の鳥居」の手前に
石碑がたくさん、近くで見つかった石仏様など集められたのでしょうか、

「天満宮手水」、正面に「拝殿」。

神社から頂いた資料の転記になりますが、神様はたくさんいらっしゃいます。
間違いなく読めることを願って書き記しますが、
じっくり読んでみてください、舌をかまないように…
【菅原大邊神社】(スガワラオオベジンジャ)、鎮座地は大野木1052。
*ご祭神
・菅原道真公(スガワラミチザネコウ) =㊟この方は「管公(カンコウ)」とよばれています。
・八重事代主神(ヤエコトシロヌシノカミ)
・宇迦能御魂命(ウカノミタマノミコト)
・大物主神(オオモノヌシノカミ)
・大山祇神(オオヤマツミノカミ)
・正哉吾勝々速日天忍穂耳命(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)
・応神天皇(オウジン)
・安閑天皇(アンカン)
・底土命(ソコツチノミコト)
・赤土命(アカツチノミコト)
・盤土命(イワツチノミコト)の神々十一神。
*境内社祭神『多賀津島神社』※
・伊諾尊(イザナギノミコト)
・建速須佐男命(タケハヤスサノオノミコト)
・大山昨神(オオヤマクイノカミ)
・八衢比古神(ヤチマタヒコノカミ)
・八衢比賣神(ヤチマタヒコメノカミ)
・大日霊貴命(オオヒルメムチノミコト)
・市寸島賣神(イチキシマヒメノカミ)
・火産霊命(ホムスビノミコト)
・豊受比賣命(トヨウケヒメノミコト)
・八郎為朝(筆者注、上野天神祭鬼行列徳居町所有面のあの「鎮西(源)八郎為朝」?)
・須藤刑部丞經俊(山内首藤刑部丞経俊(ヤマノウチスドウギョウブジョウツネトシ)=当時の伊勢、伊賀の守護)
・(天王宮 事代主命(コトシロヌシノミコト))を奉斎。
*御由緒 「当社の創記については詳らかにし難いが」・・・
・惣国風土記准后伊賀記には大宝元年(701年)奈良平城宮と同じ時期に
『スサノオ命・少彦名命(スクナヒコナノミコト)・八重事代主神』等が祭られたよう。
・社伝及び近世以降の地誌によれば、
天正9年(1581)の天正伊賀の乱のおり社頭焼失。これまで事代主神を祭り、天王と称した。
文禄四年(1595) 社殿を再興した。
上棟文によれば以後菅公(菅原道真スガワラノミチザネの敬称)を奉祀したと伝えている。
寛永十五年(1638)上棟文・明暦四年(1658)上棟文によると夫々造り替が行われた事が判る。
宝物殿(元の社殿には)藤の花の下に振り返る馬の絵が描かれている。
明治四十年と四十一年に経て地区内三十社を合祀して菅原大邊神社と改称する。
まだまだ続く「御由緒」ですが、一旦境内の様子に移ります
阿吽の狛犬さん
ちょっと暗いけど、噛みしめの「吽さん」カッコイイです。

「割拝殿」」風に見えるここで神主さんから説明を受けます。
その「拝殿」右側には入り口があり、
横から「本殿」を垣間見て、その隣には「摂社:多賀津島神社※」
その奥には、「山神」さんや「石仏」さんなどお祀りされています。

この神社では「7月3日」に例祭があり、(スミマセン祭りの名前を聞き忘れ)

左に見える「弓」で、この「注連飾り?に鰯を付け、その鰯を射る」行事があるとか…
節分の行事ではなく、夏の行事として行われているようです、
最後にその「鰯」は焼かれて振る舞われるとか、
何か唱える言葉は? しいて言うなら「イワシテマエ!」だとか(笑)。
では最後にもう一度「境内全景」

真ん中の「ご神木杉」、斜めに本殿やご神体の山に向かっていますが、
上部はしっかり真っ直ぐになっています、

おそらく何百年もかかってここまできたのかと、
神々しささえ感じる「ご神木」です。
霊気というか霊木を受ける神聖な場所だと思いました。
心穏やかに参拝されてはいかがでしょうか、
たくさんの神様がいらっしゃるので、どんな願いも聞いていただけそう、
叶う叶わないは、アナタの心次第…
実は、まだ続くんですが、
「大邊の宮」には『伊賀発祥開発の神説」があるとか、
「源頼朝」の良き家来がいたとか、タイムリーな話をいろいろ聞き及び、
頭の中は大混乱中なり。
ではまた
「岩根の摩崖仏」、そして「岡八幡宮(白樫)」という行程(6/4)。
今回は、「このような歴史ある『神社』がここにあったのね、編」です。
いつもながら一日行っただけでは「へぇ~」で終わってしまいます。
場所の再確認も兼ねて、昨日(6/5)も朝から「復習」して参りました。
なので写真は2日分ゴチャゴチャ入り交じり状態かもしれません、あしからず。
駐車場は山裾に向かって細い道を行けばありました。

地図を見ると近くに「大池」という灌漑用の名前通りの大きな池があります。
私的チャレンジ研修なので、先ず「大池」の様子を…
池の周りを半周する感じで歩きますが、途中で「お地蔵さん」に出会えます。




ここで一番奥になります。戻り道で釣り人にすれ違う(笑)。
戻って、駐車場の傍にも「お地蔵さん」と「(梵字)と南阿弥陀・」の石碑があります。



幾度となく走り慣れた「長田⇔大内間のコリドール道」ですが、
今まではただ真っ直ぐ走っていただけなのに、ふっと西の方角をみれば「鳥居」が見える!
ということに気づきます、ここに「神社」があると教えていただいたおかげの「鳥居」なので、
この「第一の鳥居」からの参道を歩きたいと思いました。
多分、正式にはここから入るのだろうと…
遠くから見えた「鳥居」は目の前、アザミと共に。


振り返れば田園の中にこんもりとした「森」が三つほど、
大野木地区で今も残る「中世城館」で「土塁」も残る「館」かと思われます。
これはまたいづれ…


では、お参りさせていただきますが、「第一の鳥居」の手前に
石碑がたくさん、近くで見つかった石仏様など集められたのでしょうか、



「天満宮手水」、正面に「拝殿」。


神社から頂いた資料の転記になりますが、神様はたくさんいらっしゃいます。
間違いなく読めることを願って書き記しますが、
じっくり読んでみてください、舌をかまないように…
【菅原大邊神社】(スガワラオオベジンジャ)、鎮座地は大野木1052。
*ご祭神
・菅原道真公(スガワラミチザネコウ) =㊟この方は「管公(カンコウ)」とよばれています。
・八重事代主神(ヤエコトシロヌシノカミ)
・宇迦能御魂命(ウカノミタマノミコト)
・大物主神(オオモノヌシノカミ)
・大山祇神(オオヤマツミノカミ)
・正哉吾勝々速日天忍穂耳命(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)
・応神天皇(オウジン)
・安閑天皇(アンカン)
・底土命(ソコツチノミコト)
・赤土命(アカツチノミコト)
・盤土命(イワツチノミコト)の神々十一神。
*境内社祭神『多賀津島神社』※
・伊諾尊(イザナギノミコト)
・建速須佐男命(タケハヤスサノオノミコト)
・大山昨神(オオヤマクイノカミ)
・八衢比古神(ヤチマタヒコノカミ)
・八衢比賣神(ヤチマタヒコメノカミ)
・大日霊貴命(オオヒルメムチノミコト)
・市寸島賣神(イチキシマヒメノカミ)
・火産霊命(ホムスビノミコト)
・豊受比賣命(トヨウケヒメノミコト)
・八郎為朝(筆者注、上野天神祭鬼行列徳居町所有面のあの「鎮西(源)八郎為朝」?)
・須藤刑部丞經俊(山内首藤刑部丞経俊(ヤマノウチスドウギョウブジョウツネトシ)=当時の伊勢、伊賀の守護)
・(天王宮 事代主命(コトシロヌシノミコト))を奉斎。
*御由緒 「当社の創記については詳らかにし難いが」・・・
・惣国風土記准后伊賀記には大宝元年(701年)奈良平城宮と同じ時期に
『スサノオ命・少彦名命(スクナヒコナノミコト)・八重事代主神』等が祭られたよう。
・社伝及び近世以降の地誌によれば、
天正9年(1581)の天正伊賀の乱のおり社頭焼失。これまで事代主神を祭り、天王と称した。
文禄四年(1595) 社殿を再興した。
上棟文によれば以後菅公(菅原道真スガワラノミチザネの敬称)を奉祀したと伝えている。
寛永十五年(1638)上棟文・明暦四年(1658)上棟文によると夫々造り替が行われた事が判る。
宝物殿(元の社殿には)藤の花の下に振り返る馬の絵が描かれている。
明治四十年と四十一年に経て地区内三十社を合祀して菅原大邊神社と改称する。
まだまだ続く「御由緒」ですが、一旦境内の様子に移ります


ちょっと暗いけど、噛みしめの「吽さん」カッコイイです。



「割拝殿」」風に見えるここで神主さんから説明を受けます。
その「拝殿」右側には入り口があり、


横から「本殿」を垣間見て、その隣には「摂社:多賀津島神社※」
その奥には、「山神」さんや「石仏」さんなどお祀りされています。


この神社では「7月3日」に例祭があり、(スミマセン祭りの名前を聞き忘れ)


左に見える「弓」で、この「注連飾り?に鰯を付け、その鰯を射る」行事があるとか…
節分の行事ではなく、夏の行事として行われているようです、
最後にその「鰯」は焼かれて振る舞われるとか、
何か唱える言葉は? しいて言うなら「イワシテマエ!」だとか(笑)。
では最後にもう一度「境内全景」


真ん中の「ご神木杉」、斜めに本殿やご神体の山に向かっていますが、
上部はしっかり真っ直ぐになっています、

おそらく何百年もかかってここまできたのかと、
神々しささえ感じる「ご神木」です。
霊気というか霊木を受ける神聖な場所だと思いました。
心穏やかに参拝されてはいかがでしょうか、
たくさんの神様がいらっしゃるので、どんな願いも聞いていただけそう、
叶う叶わないは、アナタの心次第…
実は、まだ続くんですが、
「大邊の宮」には『伊賀発祥開発の神説」があるとか、
「源頼朝」の良き家来がいたとか、タイムリーな話をいろいろ聞き及び、
頭の中は大混乱中なり。
ではまた
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