正式には、
「三重県指定有形文化財 (建造物) 旧三重県第三中学校校舎
(三重県立上野高等学校旧管理棟 「明治校舎」) 耐震改修工事現場公開」です。
これは、今後ワタシが生きているうちに絶対に見ることが出来ないはず!
という気合がこもる「見学会」だと思ったので、申し込みました…
長い名前には、それなりの歴史が籠っているわけで、
明治32年(1899)に「三重県第三中学校」として開校しており、
この時点の校舎(教室)は『旧藤堂藩武器庫(伊賀市指定文化財)』だったそう。
そういえば、「現・図書館」の横に倉庫か?講堂か?という古い建物があった微かな記憶…
思えば、今年の2月23日に「上野高校」の前を散歩していて、
「上高がガンダム化してるよ!」と同級生(東京在住の仲間含めて)たちにLineしました。

早速返信があり、
「工事期間がけっこう長いんだね」とか
「思い出の詰まった校舎の今の姿を見れて良かった」とか、
反応はすこぶる良かった記憶。
これは、伊賀に残っている者として何か伝える義務があるんじゃないかと…
今回、工事現場に潜入できるというチャンスに巡りあえて(抽選に当たったお陰で)、
懐かしの(正門は撤去中ですが)第一グラウンド内で受付、
工事現場管理棟へ案内されました。
そこで、(略して)「明治校舎」が「三重県指定有形文化財」として、
どんな立ち位置にあるのかの再確認。(これは卒業生として何より心地良い響きでもある)
*「明治校舎」は、学問・文化の象徴として、 同窓生や地域の人のみならず広く県民に親し まれている。
また、当初の建築地にいまも残る明治建築 (明治33年竣工) として貴重な歴史的遺産であり、
この地域における歴史的景観の中心的存在となっている。
*耐震改修工事を行うことにより、地震時における人的被害の発生防止および建物の被害軽減を図る。
同時に、可能な限り、 劣化損傷部位において保存修理を行うことにより、
文化財にふさわしい保存・活用を図る。
*工期 令和3年11月4日~令和4年12月28日 ( 420日間)
さて、工事現場なので準備された「軍手」「ヘルメット」着用でいざ潜入!
その前に、本日これを書いていて思い立ちました、
「旧藤堂藩武器庫」って、ほんまにあるんやろか?って気になり出して、
これは自分の目で確かめておかないと、という嫌な懐疑心が邪魔をするので…
すみませんが、工事見学の様子アップの前に探しに行きます。
旧藩校崇廣堂横の道から、いわゆる「上高西門」を入る、すぐに見えました、

奥へ進みます
「旧藤堂藩武器庫」案内
説明版から
『同窓会館 旧藤堂藩の武器庫の一部である。
1899年(明治32年)、三重県第三尋常中学校が発足したとき、
明治校舎が 完成するまでの間、教室として使用された。
以後、倉庫などとして使用されてきた。
1959年(昭和34年)、創立六十周年記念事業として、
卒業生からの浄財により、同窓会記念館として改修し
使用されてきたが、百周年記念を機に、
同窓会館として再改修された。
揮毫者 同窓会長 関田 庄司(上中三十五回) 』
その奥へ行って、高校生に戻った気分で「堀」でも見ようかと…
そこにはなぜか「古墳」?

↑ 「奥城寺一号古墳」、もちろん移築。
1973年のことだそうです、知ってた??
↓ 懐かしい風景「堀」と、「武器庫裏」、

表に戻り、「武器庫」前から図書館横へ、
その通路に何故か「石仏さま」(合掌)…そして「堀」

校舎裏側ではどこからでも「堀と石垣」が見えます、
思えば歴史と共に歩んできたはずなのに、
み~んな忘却の彼方にすっ飛んでいってました。
とても贅沢な空間で学んでいたのに、なんてもったいない時間を過ごしていたのかと、
卒業して半世紀が経って、やっとそんな大切なことに気が付いた次第。
せっかくなので、校舎の裏から「上野公園」に繋がる「石垣」をどうぞ~~
(これはね、日曜日だから見学できたと思います、普段は✖かと)

「高石垣」の上から「旧藤堂藩武器庫」の屋根(だけ)と
駐車場から垣間見る…

最後に、
「高石垣と上高第2グラウンド」そしてお斎峠のある高旗の山並み

では、明日はいよいよ「工事現場潜入ルポ!」になるかどうか

※「伊賀市の文化財」から抜粋
『藤堂藩旧武庫
指定年月日 昭和33年11月22日
所在地 上野丸之内107 (上野高等学校)
木造、平家建、土蔵造 瓦葺の白壁塗の建造物です。
藤堂藩旧武器庫の一部で、元禄年間の絵図にも御武具蔵との記載があり、
廃藩置県後には阿拝山田郡役所として使用されていました。
現在の上野高校敷地内に3つ所在した蔵の中で、現在も唯一残存するもの』でした。
「元禄年間絵図」
「三重県指定有形文化財 (建造物) 旧三重県第三中学校校舎
(三重県立上野高等学校旧管理棟 「明治校舎」) 耐震改修工事現場公開」です。
これは、今後ワタシが生きているうちに絶対に見ることが出来ないはず!
という気合がこもる「見学会」だと思ったので、申し込みました…
長い名前には、それなりの歴史が籠っているわけで、
明治32年(1899)に「三重県第三中学校」として開校しており、
この時点の校舎(教室)は『旧藤堂藩武器庫(伊賀市指定文化財)』だったそう。
そういえば、「現・図書館」の横に倉庫か?講堂か?という古い建物があった微かな記憶…
思えば、今年の2月23日に「上野高校」の前を散歩していて、
「上高がガンダム化してるよ!」と同級生(東京在住の仲間含めて)たちにLineしました。




早速返信があり、
「工事期間がけっこう長いんだね」とか
「思い出の詰まった校舎の今の姿を見れて良かった」とか、
反応はすこぶる良かった記憶。
これは、伊賀に残っている者として何か伝える義務があるんじゃないかと…
今回、工事現場に潜入できるというチャンスに巡りあえて(抽選に当たったお陰で)、
懐かしの(正門は撤去中ですが)第一グラウンド内で受付、
工事現場管理棟へ案内されました。
そこで、(略して)「明治校舎」が「三重県指定有形文化財」として、
どんな立ち位置にあるのかの再確認。(これは卒業生として何より心地良い響きでもある)
*「明治校舎」は、学問・文化の象徴として、 同窓生や地域の人のみならず広く県民に親し まれている。
また、当初の建築地にいまも残る明治建築 (明治33年竣工) として貴重な歴史的遺産であり、
この地域における歴史的景観の中心的存在となっている。
*耐震改修工事を行うことにより、地震時における人的被害の発生防止および建物の被害軽減を図る。
同時に、可能な限り、 劣化損傷部位において保存修理を行うことにより、
文化財にふさわしい保存・活用を図る。
*工期 令和3年11月4日~令和4年12月28日 ( 420日間)
さて、工事現場なので準備された「軍手」「ヘルメット」着用でいざ潜入!
その前に、本日これを書いていて思い立ちました、
「旧藤堂藩武器庫」って、ほんまにあるんやろか?って気になり出して、
これは自分の目で確かめておかないと、という嫌な懐疑心が邪魔をするので…
すみませんが、工事見学の様子アップの前に探しに行きます。
旧藩校崇廣堂横の道から、いわゆる「上高西門」を入る、すぐに見えました、




奥へ進みます

説明版から
『同窓会館 旧藤堂藩の武器庫の一部である。
1899年(明治32年)、三重県第三尋常中学校が発足したとき、
明治校舎が 完成するまでの間、教室として使用された。
以後、倉庫などとして使用されてきた。
1959年(昭和34年)、創立六十周年記念事業として、
卒業生からの浄財により、同窓会記念館として改修し
使用されてきたが、百周年記念を機に、
同窓会館として再改修された。
揮毫者 同窓会長 関田 庄司(上中三十五回) 』
その奥へ行って、高校生に戻った気分で「堀」でも見ようかと…
そこにはなぜか「古墳」?



↑ 「奥城寺一号古墳」、もちろん移築。
1973年のことだそうです、知ってた??
↓ 懐かしい風景「堀」と、「武器庫裏」、


表に戻り、「武器庫」前から図書館横へ、
その通路に何故か「石仏さま」(合掌)…そして「堀」





校舎裏側ではどこからでも「堀と石垣」が見えます、
思えば歴史と共に歩んできたはずなのに、
み~んな忘却の彼方にすっ飛んでいってました。
とても贅沢な空間で学んでいたのに、なんてもったいない時間を過ごしていたのかと、
卒業して半世紀が経って、やっとそんな大切なことに気が付いた次第。
せっかくなので、校舎の裏から「上野公園」に繋がる「石垣」をどうぞ~~
(これはね、日曜日だから見学できたと思います、普段は✖かと)





「高石垣」の上から「旧藤堂藩武器庫」の屋根(だけ)と
駐車場から垣間見る…


最後に、
「高石垣と上高第2グラウンド」そしてお斎峠のある高旗の山並み

では、明日はいよいよ「工事現場潜入ルポ!」になるかどうか


※「伊賀市の文化財」から抜粋
『藤堂藩旧武庫
指定年月日 昭和33年11月22日
所在地 上野丸之内107 (上野高等学校)
木造、平家建、土蔵造 瓦葺の白壁塗の建造物です。
藤堂藩旧武器庫の一部で、元禄年間の絵図にも御武具蔵との記載があり、
廃藩置県後には阿拝山田郡役所として使用されていました。
現在の上野高校敷地内に3つ所在した蔵の中で、現在も唯一残存するもの』でした。

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