2024/6/2(日)の午後、こんなイベントのお誘いを受けて、山中行軍してきました。
すでに遠い過去のようなお話です。新聞紙上にも掲載されたりしてたので
詳しくは省きますが、でもねそれがなかなか…
史実は誰も見ていないし、タイムトンネルもないので諸説いろいろあるのは承知のことですが、
西柘植地区主催で、講師に甲賀市の甲賀リアル忍者研究所の谷さんの案内で、
「多分、こうだったんじゃないか、きっとこの峠道を行軍したんじゃないか?」体験です。
雨の心配もあったこの日ですが、なんと集まった方々を見ていると雨雲も逃げそうな…気がしてきました(笑)。
愛知県は三河からお越しの方もおられ、家康さながら「エイエイオー」の掛け声もあり、
先達を務めてくださった谷さんのお話やお世話役の川村さんのリードで、
「古道」といわれるところをハラハラドキドキしながらも楽しく歩いてきました。
そんな道中記になります。
・2024/6/2 13時に柘植地区市民センター集合。
集合場所でメンバーを見渡すと、あの方この方大先輩に後輩に、
なんとも頼もしい仲間ばかりで、
しかし途中で根を上げるわけにはいかないなと覚悟を決めました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/69/1e/8e80a023e2c78f20f81bfdf8296932f6_s.jpg)
「徳永寺」にて、
ここまでは諸説ある「神君伊賀・甲賀越え」ではあるが、ここは確かに休憩された。
甲賀~伊賀の山道はどんなに困難な道であるかはここに住む我々も十分承知。
しかも車もないあの時代ですから、盗賊・山賊なんぞはゴロゴロいたはず。
どのルートであれ「神君は徳永寺」には絶対に来ています。
問題はココからどのようなルートで「白子の浜」へ行き、「三河」までたどり着いたのか。
もう一度市民センターに戻り、今度は柘植から関までの間の「加太峠」辺りを目指そうと。
獣道とはいうもののこの峠道は「古道」として昔の人が通っていたであろう道を見つけた、と谷先生はおっしゃいます。
ここからは数台の車に参加した21人は分乗して、JR関西線の加太トンネル北側に位置する「大杣湖」のほとりに移動することに。
大杣湖はあの辺り…
その道中「岡鼻の勧請縄」を通過、その先の「大神宮と石燈籠」見学。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/22/51/2367a814523bb70003dcacc965cff418_s.jpg)
この山の中にも「古道」が確認されたという場所を紹介していただきますが、
どの道をどう通って行ったのか??ですが、風景は撮りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1f/5c/c1e09307afd483376c132aac72588b5e_s.jpg)
谷さんの指す方向の杉林の中を歩きますが、石垣があったり、確かに砦でも?
この先の「古道」らしき道を早く歩きたいばかりに先生の話が飛んでますが、
戦国時代以前、古代より作られた古道があり、
そこは兵士や馬も通れたのではないか、などなど
神君も決して走って逃げていたわけではなく馬も使い護衛の者たちも100人はいたのでは…と。
どんな道があるのでしょうか、行軍開始。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5e/db/14e16b1ddf34dd894ce653932592574e_s.jpg)
確かに上る道が見え、古道その1、記者さんモデルに高低差がわかるでしょうか?
下って、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/42/d5/02cd9c44aef5c6e9bd02008ca11a2331_s.jpg)
澤筋には立派な石垣跡も見えます。
こんな山の中に?と驚きの景色です。
次に、二番目の「古道」目指して大杣湖に向かいます。
おそらくこんな行程だったのでは?というおぼろげな記憶です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2e/75/3f67c2d162dd1a718568f76c8707bf7f_s.jpg)
大杣湖到着、この時点で14:50。出発して約2時間。
まだ大して疲れてはいませんが、これから進むであろう道は一体・・・
だんだん「神君家康公の気分になってきた」のは事実。
谷さんの説明を聞いているうちに、ともかく無事に三河に帰ることが大命題。
さて、どんな古道を進むことになるのか…
参考:当日(2024/6/2)いただいた資料と募集チラシ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/01/97/4246ebac3c5acc1d033a6bfb167dad7f_s.jpg)
では、もう少し続きます。
すでに遠い過去のようなお話です。新聞紙上にも掲載されたりしてたので
詳しくは省きますが、でもねそれがなかなか…
史実は誰も見ていないし、タイムトンネルもないので諸説いろいろあるのは承知のことですが、
西柘植地区主催で、講師に甲賀市の甲賀リアル忍者研究所の谷さんの案内で、
「多分、こうだったんじゃないか、きっとこの峠道を行軍したんじゃないか?」体験です。
雨の心配もあったこの日ですが、なんと集まった方々を見ていると雨雲も逃げそうな…気がしてきました(笑)。
愛知県は三河からお越しの方もおられ、家康さながら「エイエイオー」の掛け声もあり、
先達を務めてくださった谷さんのお話やお世話役の川村さんのリードで、
「古道」といわれるところをハラハラドキドキしながらも楽しく歩いてきました。
そんな道中記になります。
・2024/6/2 13時に柘植地区市民センター集合。
集合場所でメンバーを見渡すと、あの方この方大先輩に後輩に、
なんとも頼もしい仲間ばかりで、
しかし途中で根を上げるわけにはいかないなと覚悟を決めました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/59/f2/65743fc0e50ad639b452a72424010b82_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/07/77/c42e50feb476f94848ea8e801723c026_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6e/35/2d331dfc2b77d92790b6a792a42eb7c8_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/13/42/42fa3d32ba73233f6f624e4ee6133600_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/19/4d/449848eb2194a7d802a1f9f7aa126049_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/69/1e/8e80a023e2c78f20f81bfdf8296932f6_s.jpg)
「徳永寺」にて、
ここまでは諸説ある「神君伊賀・甲賀越え」ではあるが、ここは確かに休憩された。
甲賀~伊賀の山道はどんなに困難な道であるかはここに住む我々も十分承知。
しかも車もないあの時代ですから、盗賊・山賊なんぞはゴロゴロいたはず。
どのルートであれ「神君は徳永寺」には絶対に来ています。
問題はココからどのようなルートで「白子の浜」へ行き、「三河」までたどり着いたのか。
もう一度市民センターに戻り、今度は柘植から関までの間の「加太峠」辺りを目指そうと。
獣道とはいうもののこの峠道は「古道」として昔の人が通っていたであろう道を見つけた、と谷先生はおっしゃいます。
ここからは数台の車に参加した21人は分乗して、JR関西線の加太トンネル北側に位置する「大杣湖」のほとりに移動することに。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/68/1d/693e39157c43fa516677c1abaae673cc_s.jpg)
その道中「岡鼻の勧請縄」を通過、その先の「大神宮と石燈籠」見学。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/04/36/b4bcef0d0b642f6d369690f45abf1184_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0d/b9/78082784a3a09c7c1abe0ffa0c2ee77b_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/22/51/2367a814523bb70003dcacc965cff418_s.jpg)
この山の中にも「古道」が確認されたという場所を紹介していただきますが、
どの道をどう通って行ったのか??ですが、風景は撮りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1f/77/72904b4f07f1ba2fba8ae4afa841c026_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3c/6a/ee4cb4f693fc5794e7871070fbd61f1d_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1f/5c/c1e09307afd483376c132aac72588b5e_s.jpg)
谷さんの指す方向の杉林の中を歩きますが、石垣があったり、確かに砦でも?
この先の「古道」らしき道を早く歩きたいばかりに先生の話が飛んでますが、
戦国時代以前、古代より作られた古道があり、
そこは兵士や馬も通れたのではないか、などなど
神君も決して走って逃げていたわけではなく馬も使い護衛の者たちも100人はいたのでは…と。
どんな道があるのでしょうか、行軍開始。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/42/be/9ed4715dfba7cac87ae80c94eba0f8bd_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/57/94/3559d30d6ad7a5285e07a5b1d18906ac_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0e/86/9ddfbf71f8d0b5589b71ebb483408f5f_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5e/db/14e16b1ddf34dd894ce653932592574e_s.jpg)
確かに上る道が見え、古道その1、記者さんモデルに高低差がわかるでしょうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/35/94/0bb4c6abbbd50a452ca4be3e4c1cb22a_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/77/01/eae049d209d806f940e1f7c0b10c5faf_s.jpg)
下って、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7d/c4/c94d45370651f16b6e8ee66c98e7ad2c_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/42/d5/02cd9c44aef5c6e9bd02008ca11a2331_s.jpg)
澤筋には立派な石垣跡も見えます。
こんな山の中に?と驚きの景色です。
次に、二番目の「古道」目指して大杣湖に向かいます。
おそらくこんな行程だったのでは?というおぼろげな記憶です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/52/4b/a17f90b3aef96d15d27613ac252b40ee_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2e/75/3f67c2d162dd1a718568f76c8707bf7f_s.jpg)
大杣湖到着、この時点で14:50。出発して約2時間。
まだ大して疲れてはいませんが、これから進むであろう道は一体・・・
だんだん「神君家康公の気分になってきた」のは事実。
谷さんの説明を聞いているうちに、ともかく無事に三河に帰ることが大命題。
さて、どんな古道を進むことになるのか…
参考:当日(2024/6/2)いただいた資料と募集チラシ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1a/4c/977d6608ae72b4595e5bbbc7671add21_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5c/cd/5cd4097c08ff194645347484199fd8d4_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/17/be/aba5edfc82e77288ac8a9447a15c64ae_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/01/97/4246ebac3c5acc1d033a6bfb167dad7f_s.jpg)
では、もう少し続きます。
関西本線の加太越えは、あまりにも超有名で北在家の大築堤の撮影ポイントに、SLファンが鈴なりになって張り付いていたのを覚えていて、写真にも撮ってあってブログで公開済みです。道路の加太越えは、名阪の南在家ICに南側から入る道だと聞いたことがあり、その昔360の軽四で走りに行ったような気もするのですが、定かではありません。
伊賀越にせよ、ルートが明確に解明されないからこそ逃避行に成功したのでしょうし、当の家康一行もどこを通っているのか、GPSが無かった(^^;)当時、正確には分からなかった筈です。加太越えは、本能寺の変の旧暦天正10年6月2日の翌々日の6月4日で、西暦のユリウス暦では1582年6月21日、新暦の現在の西暦のグレゴリオ暦では1582年7月3日に換算されるそうで、今年の7月3日は梅雨の真っ只中になります。
誤 ×西暦のユリウス暦では1582年6月21日、
ユリウス暦とグレゴリオ暦の関係や、和暦にも京暦があってややこしいそうですが、
wikiでは本能寺の変は、天正10年6月2日(ユリウス暦1582年6月21日)と記載されています。
ここでいつも思うのは、なんで天正10年やねん!
その前年の天正9年に、伊賀は信長に殲滅されてます。その翌年に信長は・・・と思うと、光秀よくぞやってくれた、という声があちこちに残っているとか。
考えようによっては「殲滅」した伊賀、よくぞ復活したなと思います。
神君家康公がどこを通ったにせよ3日という短期間で三河迄帰り着いてくれたおかげさま、
生き延びてくれたおかげ、高虎さまを伊賀にひっぱってくれたおかげと考えています。
moni5187様のおっしゃる通り梅雨真っ最中の山ン中の逃避行、さぞ大変だったろうな、と歩いて体験してみたかった人ばかりが集まったと…
好奇心がなければ絶対に行かないな、という道、
思い出すだけでゾクゾクします。
後編をお楽しみに(写真で報告するしか術はないのですが(笑))
moni5187様、詳しい日付をお教えいただきありがとうございます。
いや、今の人間にはできない逃避行ですが、やっぱり神がかり的な行動だったのでしょうかね💦
実際にほんの一部を歩いただけの、感想ですが。