上高「からたちの垣根」、続編

2021-10-19 10:40:28 | 花や風景など
2021/10/1のblog「秋の風景、早すぎない?が、
ちょっと中途半端だったのが気になってました…
≪「からたち」は、お城に向かう「南北の道」に面してだけあった気がします、
表通り「東西の歩道」は…(ごめん、あまり通らないので忘れました )。≫なんて、
いい加減なことを書いてしまったなぁと反省。
散歩をするなら、ちゃんと見ておかなくちゃ…と、仕切り直し。

この季節、気になるあの木、
  旧桃青中の坂道の銀杏並木。
「ギンナンの実」は落ちて、なんと香しいことか!?
歩くのもはばかられるので、写真だけ撮って、次。
「上野公園への近道」という階段を上ります、
  そして「俳聖殿」前通過。

  自衛隊さんにお世話になって
ずいぶんと見易くなりました、自慢の「お堀」です。
この歳になって、改めて良かったなぁ「城下町」の人間で…と思います。
こんな立派な堀を造ってもらえてたことに感謝です、
そこを当たり前のように歩いているけど、「城郭巡り」を始めてみると、
それぞれの場所に合うように工夫された戦国武将の思いが垣間見れる気がします。
そして、改めて「伊賀っていいなぁ…」と。

 ここは、「旧崇廣堂」と「上高」の角です
観光案内板と「からたち」、いっぱいの実&トゲトゲ だらけ。

ここを歩いたのは10月14日、なんとか宣言も解除されて
伊賀の城下町を歩く観光客に、時折出会うようになりました。
(からたちの写真を撮る人はいませんけどね(笑))
ワタシも観光客気分で歩いてみたわけです…
  「横光利一碑
≪横光利一 (1898~1947)
大正末期に発表した『日輪』や『頭ならびに腹』 などによって川端康成らと共に「新感覚派」と よばれた。
その後、『機械』、『上海』、『紋章』、『家族会議』などを発表して昭和初期の文壇を
代表する作家となったが長編『旅愁』が未完の まま病没した。
1911(明治4)年、当時の三重県第三中学校 (現・上野高等学校)に入学し、
卒業までの五年間 この校舎で学んだ。
その青春の思い出や初恋の体験を小説『雪解』(昭和八年・二十年)に描いている。
幼年時代、大分県出身で鉄道技師の父について転居を重ね、
小学校時代の大半を母の郷里の柘植 (現・伊賀町)で過ごした。
中学時代と合わせて 約十年間過ごした伊賀について「私の故郷である」と書いている。
揮毫は岸宏子氏。上野市在住の作家で 『若き日の芭蕉』など作品多数。
父が横光の従兄弟であり、「ふるさと伊賀上野の横光利一」 などで少年利一の横顔を伝えている。≫

 
上野高校白亜の校舎」と正門前(体育館辺り)の「からたち」。

 
第三尋常中学校校舎付正門碑(県指定有形文化財)
≪この建物は1900年(明治33年) 十月六日に竣工した木造洋風建築で、
県の営繕技術者の清水義八・信田悦蔵らの設計による。
同じ意匠で同時に建設された二中(四日市)・四中(宇治山田) の校舎は
戦災や火災で焼失し、三中(上野) の本校舎(明治校舎とよんでいる)のみ現存する。
1989年(平成元年)に三重県有形文化財に指定された。
揮毫者 学校長 池田純之 ≫

今回は、あくまでも「からたちの実&トゲ」が主人公です、あしからず。
有刺鉄線並みの強力垣根ですね、スゴっ。
*****
卒業して早や半世紀経とうとしています、
同窓会しよう!って話はポシャったまま、
ワタシたち、もうすぐ「古希」になっちゃうよ…
今日は、たまたま同窓生から連絡が入ったので、
私的な締めくくりになっちゃいました(笑)。

ではまた

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