訪問日:2020年7月19日(日)、伊賀では33.8度の今夏(といっても梅雨もまだ明けていないのに…)最高気温
こんな日に外へ出て行ってはいけません、午後3時以降の散策がよかろうと、、、一人合点してみる。
今まで『百地砦』・『千賀地城跡』・『比自山城跡』・『柏原城跡』など忍者の痕跡が残る場所を訪ねてきて、
いろいろ資料を読んでいるちに「信長を手引きした者がいる※」ということを知りました、、、
(今頃気付いたん??とは言わないでくださいね(笑)、
過去、伊賀のNINJAを如何に盛り上げるか!ということばかりに気がいってたもんで、、、)
そこで、この城跡の名前が出てきたわけです
【福地城跡(芭蕉公園)】
「天正伊賀の乱ざっとあらすじ」
≪天正6年(1578)伊勢の国司北畠信雄(織田信長の二男 織田信雄が北畠の養子になり家督を継承)は
丸山城を基点に伊賀攻略を企てますが、伊賀衆の攻撃にあって撤退します。
天正7年(1579)仕切りなおして北畠信雄が伊賀に攻め込みますが、
伊賀衆の抵抗にあって敗退します。(第一次天正伊賀の乱)
これを聞いた織田信長は激怒し、自ら出馬を決意し、天正9年(1581)5万の大軍を率いて
伊賀に進軍、伊賀全土を焼き払い大人子どもに関わらず殺戮を繰り返しました。
伊賀衆は最後まで抵抗を続けましたが、和議が成立し、降伏しました。
伊賀地域が歴史上唯一壊滅的な打撃を受けた乱で、800年の歴史を持つ伊賀地域の荘園制度が終焉し、
忍者は諸国に離散しました。(第二次天正伊賀の乱)≫(伊賀流忍者博物館HPより)
伏線として、
※≪天正9年(1581年)4月、上柘植の福地伊予守宗隆、河合村の耳須弥次郎具明の2人が安土城の信長の所を訪れ、
伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た。≫(Wikipediaより)という話が出てきました。
≪菊岡如幻著・伊賀国『伊乱記』では、9月27日に6か所(伊勢地口から信雄、津田信澄、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、玉滝口から蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光が攻撃したと記述されている)同月6日より戦闘が開始された。≫
(映画「天正伊賀の乱」より)
さて、名阪国道上柘植ICを降り、163号線へ、国道を東へ数分走ると(普段は点滅信号)この案内
右折して少し走ると すぐです
『萬寿寺』というお寺を通り過ぎて行くようですが、はて?この光景、いつか見た、いやいつか来たことある…
そんな微かな記憶を呼び戻す場所でした(過去、お仕事で🚌何度か来ていた(笑))。その当時は何も知らなかったということです
(やっぱりね、ワタシってなにも知らずに伊賀人してたんだぁ…)
左の道は「萬寿寺」駐車場へ、ここに車を止めさせていただく
右の道が「福地城跡」へ行く道
「萬寿寺」の前を通り抜けて(お寺は帰りに寄せていただくとする)、田園地帯の中の緩やかな坂道を進むと
福地城跡の立派な石碑と芭蕉句碑とその解説
「蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな」
≪元禄7年9月、松尾芭蕉が51歳の時に、伊勢から芭蕉を訪ねて来た弟子を迎え、
新蕎麦でもてなしたいところだったが、伊賀はまだ蕎麦の花の季節だった為、
この白くて美しい花を堪能下さいという句で、当時の伊賀には広い蕎麦畑が広がっていた≫とのことです。
恒例の案内板とクイズ
答:
石段を登ります
3mほどの立派な石垣(石塁)が残っています。
その先に行くとすり鉢状のような広場で、周りは土塁とうっそうとした樹木に囲まれています。
その場所が「芭蕉公園」。
芭蕉生誕360周年事業(2004年)の折に整備されたのでしょうか? ちょっと古びてきましたがそれもまた風情かな…
生い茂った苔が絨毯のようにふかふかと足元にやさしかったです。
芭蕉翁生誕の碑
話はまた少し「伊賀乱」に戻りますが、この戦乱によって伊賀國は壊滅状態となりましたが、
1年後の「本能寺の変」で信長が倒れると、福地一族は再結集した伊賀の国人衆によって追放されることとなったそうです。
土塁に登って見渡すと
柘植の里
反対側は
名阪国道です(真ん中の道路は側道)
柘植地区の皆様のお世話のお陰で芭蕉さんが大切にされているということです。
と、ここで福地城と芭蕉の関係は??
そうそう、確か≪城主は福地宗隆で福地家は平宗清を祖先に持ち松尾芭蕉の松尾家は分家でした。≫と、、、
柘植の方々の思いが詰まった公園になったわけです。(福地城跡=芭蕉公園なので ちと説明がややこしいのです )
戻って「曹洞宗萬寿寺」の境内へ
芭蕉さんの墓碑になります
≪「観音堂」は、長福寺(萬壽寺の前身)と共に鎌倉時代に建造され、伊賀管内では最古の建物≫とのことです。
「忍者回廊巡り 真っ最中!」(ご朱印いただけるところ)として残るは2か所。
寺田・「大光寺」と滝之原・「赤岩尾神社」は、天候次第、暑さ次第…秋になるかもというところ。
番外として「伊賀上野城」・「伊賀流忍術博物館」、ここはいつでも行けるところ(笑)。
ではまた
こんな日に外へ出て行ってはいけません、午後3時以降の散策がよかろうと、、、一人合点してみる。
今まで『百地砦』・『千賀地城跡』・『比自山城跡』・『柏原城跡』など忍者の痕跡が残る場所を訪ねてきて、
いろいろ資料を読んでいるちに「信長を手引きした者がいる※」ということを知りました、、、
(今頃気付いたん??とは言わないでくださいね(笑)、
過去、伊賀のNINJAを如何に盛り上げるか!ということばかりに気がいってたもんで、、、)
そこで、この城跡の名前が出てきたわけです
【福地城跡(芭蕉公園)】
「天正伊賀の乱ざっとあらすじ」
≪天正6年(1578)伊勢の国司北畠信雄(織田信長の二男 織田信雄が北畠の養子になり家督を継承)は
丸山城を基点に伊賀攻略を企てますが、伊賀衆の攻撃にあって撤退します。
天正7年(1579)仕切りなおして北畠信雄が伊賀に攻め込みますが、
伊賀衆の抵抗にあって敗退します。(第一次天正伊賀の乱)
これを聞いた織田信長は激怒し、自ら出馬を決意し、天正9年(1581)5万の大軍を率いて
伊賀に進軍、伊賀全土を焼き払い大人子どもに関わらず殺戮を繰り返しました。
伊賀衆は最後まで抵抗を続けましたが、和議が成立し、降伏しました。
伊賀地域が歴史上唯一壊滅的な打撃を受けた乱で、800年の歴史を持つ伊賀地域の荘園制度が終焉し、
忍者は諸国に離散しました。(第二次天正伊賀の乱)≫(伊賀流忍者博物館HPより)
伏線として、
※≪天正9年(1581年)4月、上柘植の福地伊予守宗隆、河合村の耳須弥次郎具明の2人が安土城の信長の所を訪れ、
伊賀攻略の際は道案内をすると申し出た。≫(Wikipediaより)という話が出てきました。
≪菊岡如幻著・伊賀国『伊乱記』では、9月27日に6か所(伊勢地口から信雄、津田信澄、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、玉滝口から蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光が攻撃したと記述されている)同月6日より戦闘が開始された。≫
(映画「天正伊賀の乱」より)
さて、名阪国道上柘植ICを降り、163号線へ、国道を東へ数分走ると(普段は点滅信号)この案内
右折して少し走ると すぐです
『萬寿寺』というお寺を通り過ぎて行くようですが、はて?この光景、いつか見た、いやいつか来たことある…
そんな微かな記憶を呼び戻す場所でした(過去、お仕事で🚌何度か来ていた(笑))。その当時は何も知らなかったということです
(やっぱりね、ワタシってなにも知らずに伊賀人してたんだぁ…)
左の道は「萬寿寺」駐車場へ、ここに車を止めさせていただく
右の道が「福地城跡」へ行く道
「萬寿寺」の前を通り抜けて(お寺は帰りに寄せていただくとする)、田園地帯の中の緩やかな坂道を進むと
福地城跡の立派な石碑と芭蕉句碑とその解説
「蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな」
≪元禄7年9月、松尾芭蕉が51歳の時に、伊勢から芭蕉を訪ねて来た弟子を迎え、
新蕎麦でもてなしたいところだったが、伊賀はまだ蕎麦の花の季節だった為、
この白くて美しい花を堪能下さいという句で、当時の伊賀には広い蕎麦畑が広がっていた≫とのことです。
恒例の案内板とクイズ
答:
石段を登ります
3mほどの立派な石垣(石塁)が残っています。
その先に行くとすり鉢状のような広場で、周りは土塁とうっそうとした樹木に囲まれています。
その場所が「芭蕉公園」。
芭蕉生誕360周年事業(2004年)の折に整備されたのでしょうか? ちょっと古びてきましたがそれもまた風情かな…
生い茂った苔が絨毯のようにふかふかと足元にやさしかったです。
芭蕉翁生誕の碑
話はまた少し「伊賀乱」に戻りますが、この戦乱によって伊賀國は壊滅状態となりましたが、
1年後の「本能寺の変」で信長が倒れると、福地一族は再結集した伊賀の国人衆によって追放されることとなったそうです。
土塁に登って見渡すと
柘植の里
反対側は
名阪国道です(真ん中の道路は側道)
柘植地区の皆様のお世話のお陰で芭蕉さんが大切にされているということです。
と、ここで福地城と芭蕉の関係は??
そうそう、確か≪城主は福地宗隆で福地家は平宗清を祖先に持ち松尾芭蕉の松尾家は分家でした。≫と、、、
柘植の方々の思いが詰まった公園になったわけです。(福地城跡=芭蕉公園なので ちと説明がややこしいのです )
戻って「曹洞宗萬寿寺」の境内へ
芭蕉さんの墓碑になります
≪「観音堂」は、長福寺(萬壽寺の前身)と共に鎌倉時代に建造され、伊賀管内では最古の建物≫とのことです。
「忍者回廊巡り 真っ最中!」(ご朱印いただけるところ)として残るは2か所。
寺田・「大光寺」と滝之原・「赤岩尾神社」は、天候次第、暑さ次第…秋になるかもというところ。
番外として「伊賀上野城」・「伊賀流忍術博物館」、ここはいつでも行けるところ(笑)。
ではまた
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