はれた日は学校をやすんで 「かわいそう」の心理 その4

2023年07月06日 | ちょっとまじめな話
 先日の話題の続き
 
 
 「《かわいそうだね》というマウントの取り方には、いつも疑問をおぼえる」
 
 
 というテーマで、高校時代の思い出など何回か紹介しながら話していたが、私がこの言葉に反応してしまうのは、自分がいわれたことがあるからと同時に、そこにある「欺瞞」と「傲慢」を感じてしまうから。
 
 たしか大学生のころ、北村薫先生の本を読んでいて、この言葉ができてきたことがあった。
 
 文化祭が舞台だったから、たぶん『夜の蝉』だと思うけど、クラスの出し物の看板を作っている女子が、それに参加せず帰ってしまう生徒のことをこう評すのだ。
 
 

 「なんか、かわいそうだね」

 
 
 ここを読んだとき、ほとほとグッタリするような脱力感を味わったものだった。
 
 北村先生、あなたもか、と。
 
 北村先生はミステリファンならご存じの通り、元学校の先生である。
 
 なので、ここにおける「かわいそう」は、先日語った「マウントを取る」行為でなく、教師として心からの心配だと思われるが、それでもやっぱり素直に首肯はできない。
 
 大ファンである先生に、こんなことを言うのは本当に心苦しいけど、それでも言わせてください。
 
 
 「だからあ、そこで彼が(彼女が)『かわいそう』だと、なんで勝手に判断しちゃうんですか?」
 
 
 世間やみんなが思う「楽しさ」や「充実」が、他者にもまた同じくらい価値があるとは限らない
 
 自分にとっての宝物が、他人にとってはただの石ころにしか過ぎないかもしれず、だとすればもまた、そうであるかもしれない。
 
 という当たり前の上にも当たり前のことを、なぜ人は時にあまりに軽視した言動を取ってしまうのか。
 
 それを「かわいそう」と言われたら、やはりこう言わざるを得ないのだ。
 
 
 「そうかもしれないね。でも、そうとは限らないかもしれないとも思わない?」
 
 
 そしてそこに、親切心配の名をかぶせた
 
 
 「お前だけ、逃さねえぞ」
 
 
 という欺瞞はないのか?
 
 私は文化祭のクラス行事に参加しなかった。
 
 でも、本番では部活の出し物で舞台に立ち、充実した2日間を過ごした。
 
 これは断言できるけど、もし私が部活をやらず、ただなんとなくクラス行事に参加していたら、間違いなくあの2日間は、その後の人生で、まったく語られることはなかったろう。
 
 これは私だけではない。
 
 体育祭をサボってバンドの練習をしていた子や、嫌いな教師の授業をボイコットして図書館でずっとSFを読んでいたヤツもいた。
 
 お仕着せのイベントなどに目もくれず、恋人と会ったり、アルバイトにはげんだり、プログラムを組んだり、マンガを描いたり。
 
 彼ら彼女らが「かわいそう」なのかといえば、私は絶対にそうは思わない
 
 なぜなら皆、
 
 
 「今一番、自分がなにをしたいのか」
 
 
 これを、わかっている連中だったからだ。
 
 「」に参加しなかった人は、端から見ると「こんなステキなものに、なんで?」と感じるかもしれない。
 
 でも、そのステキはもしかしたら、あなたをふくめた一部だけのものかもしれない。
 
 私やバンドマンやSF野郎のように、
 
 
 「他にやりたいこと、やるべきこと」
 
 
 を知っていて、そっちの方が、はるかに楽しいかもしれない。
 
 もしかしたら、あなたのにいる人も、あなたに合わせてくれているだけで、本当は「そうでもないな」と内心思ってるかもしれない。
 
 「多数派の祭」にいない人は、入りたいのに入れないのではなく、「自らの意志」でいないのかもしれない。
 
 「祭」に出なかった生徒は、もしかしたらその時間を、ただラジオを聴くことに費やしていたかもしれない。
 
 でも、「祭で一体感を味わうこと」ことが、「ラジオを聴くこと」より良きことかどうかを判断するのは、「祭に参加した側」の人間ではない
 
 「かわいそう」な彼や彼女は、もしかしたら今、愛する恋人と永遠に忘れられない夜を過ごしているのかもしれない。
 
 いや、仮に何もなくただダラダラしていても、つまんなくてもいい。
 
 「自分で選んだ無為の一日」は、「やらされている退屈なこと」よりも、ずっといいかもしれない。
 
 それは本人しかわからないのだから。
 
 だから、自分がかわいそうかどうかは自分で決めるよ。だって、あなたには判断材料なんかないんだから。
 
 もちろん私も、自分の大切なものや、参加した祭に見向きもしない人がいても、あわれみもバカにもしない。
 
 そのことを決めつけるだけの根拠など、こちらにはないのだから。
 
 嗚呼、なんだろう。この件に関しては、ライムスター宇多丸さんが、「日本語はヒップホップに合わない」と言われたときに立ち上がるような「義憤」を感じてしまう。
 
 それはわかんないじゃん。わかんないことを、勝手に決めつけられても、どうなの?
 
 もしくは、キミもやればいいじゃん。今がつまらないなら。
 
 「多数派の輪に入らない不安」が重苦しいのはわかるけど、それにとらわれず、自分で選んだ道を歩く楽しさは、そんな暗雲など軽やかに飛び越えていく。
 
 これは本当にそう。
 
 だから、ぜひやってみて。
 
 一応つけくわえておくが、私は北村先生や先生の作品自体にケチをつけているわけではありません。
 
 その中の1フレーズに勝手に反応して、なかばヤカラを入れているだけです。念のため。
 
 なんだか大層な話になってしまったが、とにもかくにも、だれかの言う「かわいそう」がマウントを取りに来ているなら、
 
 
 「余計なお世話」
 
 
 北村先生のように親身になってくれているなら、こう言いたいのだ
 
 
 「そうでもないから、気にしないで」
 
 
 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 佐藤康光×大山康晴×羽生善治... | トップ | 80ヤード独走 佐藤康光vs... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。