前回の続き。
1988年、第47期C級1組順位戦。
剱持松二七段と、羽生善治五段の一戦は中盤のねじり合いに突入。
この△63歩という手が、いかにも羽生らしい実に悩ましい打診。
馬を逃げる場所がむずかしく、いきおい先手はここでラッシュをかけることになるが、それは羽生の待ち受けるところ。
相手があせって前のめりになり、体の軸がぶれた瞬間にタックルを決め、そのまま一気に持って行ってしまうのだ。
……というはずだったが、なんとここで羽生にミスが出る。
剱持は▲23香と、露骨に打ちこんでいくが、△13玉とかわしたのが疑問で、ここは堂々△23同銀と取るべきだった。
△13玉に▲21香成、△64歩と馬を取ったところで▲37桂打が好手で、またも剱持がリードを奪う。
△24玉、▲11成香、△23玉にも、あせらずに、じっと▲64歩と取っておく。
歩切れを解消しながら、後手玉が左辺に逃げ出したとき、うっすらと拠点にもなっている。
なにより、ここで攻め急がない姿勢が見事で、河口俊彦八段も、
「力をためて味わい深い」
私も子供のころ並べて、
「強い人は、こういう手が指せるんやな」
深い意味が、わかっていたわけではないが、その「大人の手」とでもいうべき落ち着きに、シビれたものだった。
ここまでくれば、ハッキリと羽生が苦しいのがわかってきた。
▲64歩に△11角と取るが、▲25銀と上部から圧をかけて、ここで完全にまわしをつかんだ。
以下、△24歩に(少し長いので飛ばしてください)▲14銀、△同玉、▲15香、△23玉、▲12銀、△22玉、▲11銀不成、△31玉、▲54桂、△44角、▲13角、△21玉。
剱持に気持ちのいい手順が続いて、羽生は絶体絶命。
とはいえ、こういう崖っぷちから、信じられない勝負手や妙手を繰り出して、ありえない逆転勝ちを数多つかんできたのが、若手時代の羽生だった。
まだわからんぞの期待もあったが、次の手が冷静な勝ち方だった。
▲23歩とタラすのが、「羽生マジック」を回避する落ち着いた手。
ここは▲33歩と打っても勝ちだが、河口八段によると、△11玉、▲32歩成、△同金。
ここで詰んだとばかりに、▲12銀、△同玉、▲31角成とすると、△13歩で「アッ!」となる。
▲同馬は△21玉。
▲同香不成は△23玉で、どちらも詰まない。
▲13同香成は、△11玉で打ち歩詰め。
実際は△13歩には▲同香成、△11玉に▲32馬で先手玉は詰まないから、先手の勝ちは動かないのだが、もしこれで自陣が詰めろとかになっていたら、たしかにあせりまくるところだ。
実際、△13歩の局面で▲13同香成を入れず単に▲32馬と取ると、いきなり△17飛と打ちこむ手がある。
▲同桂、△同角成、▲同玉、△25桂、▲同桂、△26銀、▲同玉、△37銀、▲17玉、△28銀打、▲18玉、△17香まで、計ったようにピッタリと詰んでしまうのだ!
こういうのを見ると、強い人に二枚落ちとか四枚落ちで、なかなか勝てない理由がわかる。
将棋の終盤戦は、本当に最後の最後まで罠だらけなのだ。
その点、▲23歩なら△同銀に▲22銀成として、△同角、▲同角成と△44にいる角を排除できるのが自慢。
後手は△44の角が、攻防に効いているのが最後の望み。
先手が寄せをグズれば、駒をたくわえた後、上記のように△17から打ちこんで一気にトン死筋へ持っていくねらいもあったが、それも消されてしまった。
以下、△同玉に▲11角できれいな寄り形。
△44の角がいなくなって、先手玉はもう怖いところがない。
△31玉、▲13香成、△32金に▲33歩とたたいて、とうとう受けがなくなった。
途中、▲13香成がまた、相手玉にせまりながら、▲15への逃走ルートも作った一石二鳥の手。
将棋の終盤戦は1度勝ちになると、確変のように次から次へと良い手が連鎖して生まれるもので、それすなわち「勝ち将棋、鬼のごとし」。
絶望的な形勢だが、羽生はさらにそこから、投げずに指し続けた。無念だったのだろう。
この日は羽生が敗れたから、というわけではないだろうが、他のカードも星が伸びない棋士が全員勝ち、大内延介九段がしみじみと、
「劇的なことって、あるもんだねえ」
そういうイレギュラーなことが、まま起こるのが、順位戦というものなのである。
(羽生のB級2組での戦い編に続く)
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