「そういや、藤井聡太って、大番狂わせっていうのがないよな」
先日、ラーメン横綱で昼飯を食ているとき、そんなことを言ったのは友人キュウホウジ君であった。
藤井聡太五冠がケタ違いに強いのは、もはや周知の事実であるが、感心するのは取りこぼしというのが、ほとんどないこと。
特に全盛期ほどの力がなくなった印象のある中堅ベテランに、しっかりと勝てるのが地味にすごくて、かつてのトップ棋士でも痛いところで「熟練のワザ」にかかってしまうことがあった。
たとえば若手時代の森内俊之九段は、B級2組順位戦で、開幕から8連勝しながら、56歳のベテラン佐伯昌優八段に完敗を喫したことがあった。
1993年、第51期B級2組順位戦の9回戦。佐伯昌優八段と、森内俊之六段の一戦。
中盤戦、先手の佐伯が▲65歩、△同歩に▲64歩とタラしたのが機敏な手で、後手の2枚の銀が動きを封じられてしまった。
以下も佐伯の指し手が冴えまくり、まさかの圧勝劇を見せる。
しかも佐伯はここまで8連敗。
とっくに降級が決まっていたその一方、森内はあの藤井聡太五冠でも破れなかった順位戦26連勝という記録を継続中だった。
今考えても、森内に負ける理由がまったくない戦いであり、まさにこれ以上ない「死に馬」に蹴られたことになる。
これで森内は、なんと順位わずか1枚の差で村山聖六段に、9勝1敗の頭ハネを喰らってしまう。
森内の黒星が、何度見ても意味不明の表。
「ま、ここは問題ないっしょ」
という相手にやられた記憶はあまりなく、そこが感心する。
そこで前回は羽生善治九段が、かつて「島研」でしのぎを削った島朗九段との熱戦を紹介したが今回は、かつて相当に話題となった、ある番狂わせを紹介したい。
舞台はといえば、もちろん順位戦になるのが、昭和の将棋というものだった。
1988年の第47期C級1組順位戦。
剱持松二七段と、羽生善治五段の一戦。
前期、2期目でC級2組をクリアした18歳の「天才」羽生は、当然このC1でも昇級候補の筆頭だった。
その期待に応え、まずは開幕2連勝と快調にすべり出すも、第3戦で佐藤義則七段に敗れて大きく後退。
佐藤はかつて、棋聖戦の挑戦者決定戦にも出たことのある実力者だが、数年前にB2から落ち、このときも40歳と盛りは過ぎていたため、かなり意外な結果だった。
早くも昇級に黄信号がともったが、そこから泉正樹五段、浦野真彦五段という、全勝で走る競争相手をたたいたのはさすがで、4勝1敗で前半戦を折り返す。
続く6回戦の相手は、54歳のベテラン剱持。
順位が悪いので、残り全勝するしかない羽生だが、まずここは大丈夫だろうと思われたところから、これが思わぬ波乱を呼ぶ一戦となるのだ。
先手になった剱持の四間飛車に、羽生は左美濃から、銀を繰り出して仕掛けていく。
中盤の、この局面。
まだ互角のわかれだろうが、ここでは▲73歩成や▲55角。
また現代風に、左美濃の急所をねらって▲27飛と回るなど手が広く、振り飛車がまずまずに見える。
どの手も有力そうだが、河口俊彦八段の『対局日誌』によると、剱持は61分じっくりと想を練って、▲73歩成とする。
後手は△76歩と止めるが、そこで手に乗って▲27飛とするのが好調子。
△69飛成に▲63と、と捨てて、△同金に▲72角と打つ。△53金に▲81角成。
△89竜と後手も駒を補充するが、そこで▲59歩としっかり固めておく。
金底の歩つきの美濃囲いが固く、▲27の地点に設置された波動砲も後手玉に強烈な圧をかけており、やはりまだ微差ながら、一目は振り飛車がさばけているような局面だ。
羽生は1回、△22玉とバックステップで大砲の威力を緩和し、▲91馬に△66角と、こちらも高射砲を設置。
▲45桂、△52金引、▲64馬の活用に△44桂と、美濃の急所であるコビンをねらいにする。
かなり、せまられている形だが、ここでまず、先手に大きなチャンスがおとずれている。
ここでは1回▲37銀と受けておいて、△57歩成に▲25歩と攻め合えばよかったと。
先手玉は、最後△49と、から△39角成と来られても、▲18玉と逃げた形が、▲27にある飛車の守備力が絶大で、どうやっても詰みはなく、ハッキリ1手勝ちだったのだ。
ところが、剱持は単に▲25歩と突く。
これで勝ちなら話は早いが、△同歩と取られたことろで、手が止まってしまう。
なにか錯覚があったようで、50分の長考で▲24歩とたらすが、ここで羽生の目がキラリと光る。
すかさず△36桂と急所のダイブを決めて、▲18玉に、△26銀とかぶせて、先手玉はにわかに危険な形におちいった。
控室の検討では「逆転だ!」と、色めきだったそうだが、剱持の▲37銀打が力を見せた手で、踏みとどまっている。
△27銀成、▲同銀、△87竜に、▲36銀直と桂をはずして、先手玉は相当安全になったが、そこで△63歩が、いかにも羽生らしい実に悩ましい手。
馬を逃げる場所がむずかしく、いきおい先手はここでラッシュをかけることになるが、それは羽生の待ち受けるところ。
こういうアヤシイ打診で相手のあせりをさそうのは、羽生にとって得意中の得意という展開だ。
(続く)