大名人の最後の勝負術には、シビれるものがある。
偉大なチャンピオンというのは、その全盛期に圧倒的な力を見せることもさることながら、それを失った晩年にも、執念と呼べるふんばりを発揮することがある。
「常勝将軍」木村義雄は、おとろえの出たキャリア最終盤に、この男だけは名人にさせまいと、「筋違い角」の奇襲でもって指し盛りの升田幸三を退けた。
また中原誠十六世名人は1992年の第50期名人戦で、高橋道雄八段に1勝3敗と追い詰められるも、そこから秘術を尽くしてひっくり返した(そのシリーズについては→こちら)。
そんな数ある伝説に加えて、やはり大名人の晩年といえば、この人を忘れてはいけないだろう。
そう、大山康晴十五世名人だ。
大山康晴。
通算1433勝。名人18期をふくむ、タイトル獲得80期。
棋戦優勝44回。永世名人、永世十段、永世王位、永世棋聖、永世王将の称号も持つ大棋士だが、その偉大さを語るにおいては、全盛期よりも、むしろキャリア晩年を取り上げられることが多い。
河口俊彦八段の『大山康晴の晩節』をはじめ、「名人18期」の無敵時代よりも、年齢とともに力がおとろえ、
「A級から落ちたら引退する」
と公言する中、その座を最後まで守り続けた、その勝負強さと精神力、人間くささ、これこそが感動を呼ぶのだと、主張する人は多いのだ。
その気持ちがわかる気がするのは、大山がはじめて名人になってからの20年近い無敵時代というのは、調べてみるとあまりにも強すぎて、語るところが、そんなに見当たらない。
しかも本人がまた、その性格やキャラクターから、棋士たちやファンから好かれなかった。
そのこともまた、「憎らしいほど強い」と周囲の負の感情をかきたてたのか、良くも悪くも、
「退屈なチャンピオン」
という、あつかいになってしまうのだ。
それとくらべると、キャリア晩年の戦いぶりは、これは恐ろしいほどにドラマチックで、スリリング、かつ魅力的。ファンにも大いに愛された。
私は強かったころの大山は知らないが、晩年の降級(引退)のピンチがおとずれるごとに、おそるべき勝負強さを発揮し、何度も絶体絶命の状況をしのいできたころの「伝説」。
これはリアルタイムで体感できたので、前回は谷川浩司の受けの妙技を紹介したが(→こちら)、今回は大山晩年の「フィーバー」を語ってみたい。
大山康晴が「本当に降級するのでは」と言われ始めたのは、1985年ころだと言われている。
1982年の2月にガンが発見され、手術によって1984年からの第43期順位戦で1年の休場を余儀なくされる。
術後、復帰こそ果たしたものの、年齢も60代をむかえたとあっては、体調面もふくめ
「いよいよ危ないのではないか」
と心配されたが、なんとその不安もなんのそので、大山は降級どころか名人戦の挑戦者になってしまう。
「大雪の決戦」で米長邦雄十段・棋聖を、強手一発で倒してしまった迫力は見事なもので、「大山健在」をアピール(→こちら)。
続く第45期順位戦も、前半を5勝2敗とまたもや挑戦権争いにからみ、後半失速したものの勝ち越しで締めくくった。
こう見ると、やはりその存在感は圧倒的で、私が将棋を知ったのがこの年だったけど(「羽生善治四段」デビュー時だからおぼえているのだ)、落ちるなんて、まだリアリティーがなかったものだ。
だが、そのスーパーレジェンドも、60代を半ばにするころから、さすがにおとろえは隠せず、次第に「下を見る」戦いを余儀なくされていく。
1987年の第46期A級順位戦では、前半こそ2勝2敗とまずまずの出だしだったが、そこから3連敗を喫してピンチにおちいる。
このときは直接対決で森雞二九段に圧勝し(その将棋は→こちら)、なんとか切り抜けた。
続く、第47期順位戦こそ、6勝3敗で挑戦権争いにくわわったものの、続く48期順位戦ではまたもやピンチに立たされる。
1勝4敗とスタートダッシュに失敗し、さすがの大山も相当な危機感を感じたそうだ。
そこから力を発揮し、内藤國雄九段と高橋道雄八段を破って浮上。
あとひとつ勝てば残留が確定する、というところまでこぎつけ、次が大一番になるというのが、8回戦の青野照市八段戦。
37歳の青野も星が伸びず、2勝5敗と下から2番目の降級圏内に留め置きを食らっている。
この大山戦に負けると、9分9厘落ちるという崖っぷちだが、勝てば「お仲間」をひとり連れてこれると同時に、最終戦で3勝4敗の田中寅彦八段との直接対決を残すため、助かる目が出てくる。
この勝負、端から見れば大山が有利なはずである。
青野はA級通算5期目ではあるが、その壁はなかなか厚く、まだ1度しか勝ち越したことがない。
そして今期もここまで、まだ2勝と、名人挑戦をねらうどころか、降級争いの立場。
一方の大山は、言うまでもない大名人。くぐり抜けた修羅場の数でも圧倒的。
しかもこの少し前の将棋で、飛ぶ鳥落とす勢いの羽生善治六段に快勝している。
1989年、12月の棋王戦。
勝者組の決勝という大一番だが、なんとこれが投了図で、羽生の「早すぎる投了」として話題になった。
感想戦で「まだ投げなくていいだろ」と羽生側を持った米長と大山が、張り合うように手を示しあい、一種の「疑似対局」が見られた。その様子は羽生曰く、
「感想戦でもガチンコ勝負という感じでかなり怖かった」
鈴木宏彦さんの「イメージと読みの将棋観」によると、郷田真隆九段をはじめ、トップ棋士たちのほぼ全員が「先手苦しい」というが、「でも、まだ投げるほどではない。自分なら指し続けます」と衆目一致で、やはり謎は残ったまま。
これで勢いに乗った大山は、挑戦者決定戦で田丸昇八段を一蹴し、なんと66歳(!)でタイトル戦の挑戦者に。
単純な数字だけで言えば、これはもう大山ノリであろうと。
ただ、簡単にそうとも、言い切れないところもあった。
その理由は、青野の持つ独特の「勝負強さ」だ。
(続く→こちら)