前回(→こちら)の続き。
1996年ウィンブルドン準決勝、トッド・マーチン対マラビーヤ・ワシントン戦。
ファイナルセット、マーチンが5-1リード。
勝利まであと数ポイントというところでマーチンの放った弾丸サーブは、大きくフォルトした。
初のウィンブルドン決勝を目前に、緊張しているのであろう。
気を取り直してセカンドサーブ。これもフォルト。
ここからトッド・マーチンの歯車が、大きく狂いだす。
普通に考えれば、5-1といえば完全にセーフティーリードである。
ましてや、ここは球速の速い芝のウィンブルドンで、サーバーが圧倒的に有利。
しかもトッド・マーチンはビッグサーブでならす選手なのだ。
あとは落ち着いてプレーすれば、万が一にも負けることはない状況である。
ところが、ここからマーチンが乱れだす。
ファーストサービスが入らない。セカンドサービスも入らない。
ネットプレーの精度が少しずつ落ちていき、徐々に雰囲気が怪しくなる。
もはや失うものはないワシントンと対照的に、マーチンがはっきりと「フルえて」いるのがわかった。
表情は硬くなり、プレーにさえもキレもなくなる。
特にそれはサービスに顕著で、風もないのにトスがまともに上げられないような状態。
ふつうプロのサービスはフォルトでも、せいぜいボール1個程度の誤差だが、このときのマーチンは露骨なほどボックスを外していた。
野球でいえば、キャッチャーが飛び上がらなければならないような、ほとんど暴投と紙一重のボール球みたいなもの。
それくらいに入っていない。もう、見ていてかわいそうになるくらいに正常ではないのだ。
ウィンブルドンで「フルえた」といえば、1993年の女子決勝。
シュテフィ・グラフ相手にファイナルセット4-1とリードしながら、そこから崩れて大魚を逸したヤナ・ノボトナがいたが、このときのマーチンはそれと双璧だったろう。
完全に自分を見失ったマーチンは、何度もおとずれるマッチポイントをあたら無駄にし、積み上げていたリードはあっという間に霧散した。
逆にそれに勇気づけられたか、ワシントンの方は冷静に試合を進め、静かに追い上げていく。
皮肉なことに、スコアが競るとマーチンもいつもの彼に戻り、鋭いサービスを決めてくるが、マッチポイントが近づくともういけない。
まるでハンドルの取れた車のように制御不能になって乱れまくったトッドは、ついに最後まで自分を取り戻せなかった。
ファイナル8-10のスコアで、初のウィンブルドン決勝という晴れ舞台を十中八九手にしながらに敗れ去ったのだ。
それもこれも、土壇場での「全身のイップス」を、どうしても押さえきれなかったせいだ。
一度乱れが出ると、たった1ゲームが、こんなにも取れない。
いつものマーチンならサービスエースを連発し、2分程度で取れてしまうはずのものが、ここまで遠いのだ。
この敗戦は「トッド・マーチンのメンタルが弱い」せいだろうか。
まあ、それもあるかもしれない。解説者が言うように、
「ウィンブルドンの伝統を前にプレッシャーで」
みたいなことも、それはそれで正しいのだろう。
だが私はそういった意見については、わりとどうでもよかった。
そりゃ、だれだってあと1ポイントでウィンブルドンの決勝となれば、正常ではいられまい。
それよりも、自分の意志ではどうしようもない「イップス」というものの怖ろしさに戦慄した。
あのときのマーチンの様子は、そんな「ビビッた」といったような、わかりやすい理由だけでは語れないものがある。
たぶんそれは「なぜそうなったか、だれも、本人すらわからない」という意味では、
「いつどこで、理由もなく、だれにしも起こるかもしれない病気や自然災害や、テロの被害」
というようなもの。
その無差別性の恐怖の正体をまざまざと見せつけられ、まさにそのことで薄ら寒くなったのが忘れられないのだ。
☆おまけ 大逆転のマーチン対ワシントン戦は→こちら