前回(→こちら)の続き。
トルコ第3の都市イズミルで、「持ち帰り」というトルコ語の単語がわからず、ケバブ屋で立ち往生した私。
海外では、意外と英語が通じないところも多く、イズミルのケバブ屋は地元民用の店ということで、「to go」(「持ち帰り」の意)という簡単なものすら通じない。
私はトルコ語はできないし、身振り手振りでも果ては日本語も無理とあっては打つ手なしだが、コックのトルコおじさんは妙にやる気であって、
「絶対、おまえの想いを受け取ってみせる。だから、もっと打ってこいよ!」
ファイティングポーズをくずさない。
中身はただ「サンドイッチを持ち帰りたい」だけなのだが、そこまで松岡修造さんのように燃える目でかまえられては、こちらも胸を打たれる。
さあ、こうなると延長戦だ。私はありったけの情熱でもって、ボディーランゲージをカマす。
トルコおじさんはそれを、カリスマ新興宗教の教祖サマをあがめる信者のごとく熱心に拝聴する。
だが通じない。
この熱い戦い(?)はどうにも人目を引いたようで、まずトルコおじさんの奥さんが、厨房から出てきて見物しはじめた。
それどころか、このバトルに参加しだしたのだ。こちらもまた、サッカーにおける核弾頭フォワードのごとく、
「アタイにパスを出しな。一発でキメてみせるよ!」
鋭い目で、こちらを見すえている。
ふと見ると、それまでダルそうにしゃべっていた、客であるトルコヤングカップルが、今では好奇心丸出しの目でのぞきこんでいる。
言葉はわからないけど、
「あの外人、オレたちになにを伝えたがってるんだろうな」
「きっと、すごく大事なことなのよ」
「そうか。こうなったら、知らずには帰れねえぜ!」
「そうね! 死んでも解読してみせるわ!」
もう大盛り上がりに、盛り上がっているようなのだ。
とどめには、店の外で遊んでいた子供たちが「おい、おもろいことになってるみたいやぞ」と仲間を引き連れて、我々を囲んでくる。
皆が皆、もう身を乗り出さんばかりにして、
「異国から来た旅人が、こんなに必死になって、いったいなにを伝えたいのか」
この想いで、ひとつになっている。
なんという団結力。世界は今一つになった。オリンピックやワールドカップですら、これだけの熱意と一体感は演出できまい。
ただ問題なのは、そのどうしても伝えたい想いというのが、
「サンドイッチ、持ち帰らせて」
という、きわめて散文的なものであるということだけだ。
あれこれと格闘すること20分ほど経過したか。ついに万策つきた私は「もういいです」といいかけたが、その雰囲気を察したのか、取り囲んでいるトルコギャラリーからは、
「どうした、それで終わりかジャポンヤ(日本人)」
「いけるよ、もう一回やってみようよ!」
「そうだよ。ウチらはまだ戦える」
「あきらめんなよ! あきらめたら、そこで試合終了だろ!」
などといった、意味は分からないけど、おそらくはそういった内容のはげましの言葉をかけてくる。
たかが注文の一言を、そないに知りたいかとトルコ人はヒマ……もとい旅人に手厚い国民だなあと、感動の涙が流れそうになったところで、妙案を思いついた。
そうだ、ガイドブックがあったではないか。
今までたいていカタコト英語と現地語、ボディーランゲージ、あとは日本語でなんとか旅行できたから、あまり気にしたことなかったけど、たしか後ろのほうに「旅の外国語」みたいなページがあったような。
リュックから取り出して確認すると、あったあったありました。「指さし会話帳 トラベル・トルコ語」のコーナー。
「レストランで」という項目を見ると、おお!
「持ち帰りでお願いします」
あった、あった、ありました!
この一文を示すと、その瞬間まさに店内全体、パッと花が咲いたような笑顔で満ち溢れることとなった。
続いて、怒涛のような「おおー」の声。総勢10人以上が同時に納得したのだ。
「これか!」と。
トルコおばさんが、うれしそうに拍手をはじめた。大きくうなずきながら、サンドイッチを渡してくれる。その際、つけ合わせのポテトを、気持ち大盛にしてくれた。
見るとトルコカップルが、感無量といったように見つめあっていた。きっと幸せになるだろうな。
子供たちがはしゃいでいる。やったやったと、私の周りで踊り狂っている。「ジャポン、トゥルキエ、ジャポン、トゥルキエ」。日本、トルコを連呼だ。
そういえば、トルコは台湾やパラオと並ぶ世界有数の親日国であった。なんだか、かの名画『カサブランカ』のラストシーンを思い浮かべてしまった。トルコよ、これが美しい友情のはじまりだ。
おお、ありがとう。ここに私は、ようやく男の本懐を成しとげたのであった。
長い道のりだったが、くじけずがんばれば、努力はかならず報われる。この喜びと充実感を忘れず、次の東京でもかならず金メダルを獲得することを約束します。
こうして艱難辛苦の末、「持ち帰りでお願いします」という偉大なる想いをトルコの未来に伝えた私は、バザールをひやかしながら、おいしくケバブをいただいたのである。
この事件から読み取れることは、海外旅行のコミュニケーションについては、「英語を勉強すべし」とか「いやいや現地語を学んで行こう」などといった意見はあるが、私としてはそんなめんどくさいことより、魔法のように一撃で通じた
「旅の指さし会話帳最強説」
これを採用したいところだ。今ならスマホ使えたら、なんとでもなる気がするなあ。