自分の不幸を相対的に緩和するために、他人の幸福値を下げようとする行為 「かわいそう」の心理 その3

2023年06月30日 | ちょっとまじめな話
 前回の続き。
 
 高校文化祭において、「クラスのイケてる男女」中心のクラス行事に興味がなかった私は、とっととエスケープすることに。
 
 そこに、クラスの女子2人が「待ったをかけてきた。
 
 
 「なんか、そういうのって、かわいそうだね……」
 
 
 かわいそう
 
 はて、そこに悪気はないとはいえ、クラスの中心人物数人だけが楽しくて、あとは「モブキャラ」あつかいのイベント。
 
 これに出なくていいことを、「幸運なこと」と思いこそすれ、そこになんら「かわいそう」なる感情が入る余地は、ないと思うのだが、彼女らは続けて、
 
 
 「せっかくの文化祭で、みんなでひとつになって盛り上がろうって言ってるのに、そこに入っていこうとしないなんて、孤独だね。さみしいよね。そういうの、かわいそうだね」。
 
 
 これを聞いたときの正直な感想は、「出たよ、またか」というものだった。
 
 「知らんがな」とも。
 
 もちろんのこと、彼女らは本気でこちらを想って、あわれんでくれているわけではなく
 
 
 「この楽しくない状況を、あたかも《自分のほうが冷静に物事を見る余裕がある》ふりをすることによって、逆転しようとする試み」
 
 
 これに他ならない。
 
 クラス行事に参加したくなくても、の民族である日本人には、
 
 
 「クラスの中心人物だけが楽しくて、残りは勝手に雑用係にさせられてる。こんなのバランスを欠いていて、おかしいではないか」
 
 
 とは言いにくい。まあ、人気者たちも少々配慮が足りないだけで、悪い人ではないしね。
 
 なら、不参加を表明すればいいではないかと思うけど、これまた協調性を過度に重視する日本人には難しい。
 
 なので、しぶしぶながら、やらざるを得ないわけだ。
 
 部活の伝統、会社の飲み会、町内のつきあい、商店街のイベント
 
 どこの世界でも、山のようにある話である。
 
 そうなるとおもしろくないのは、他者の目を気にせず「やらないよ」とか、気軽に言ってしまう私のような存在である。
 
 なにおまえだけ、回避してんだよ、と。
 
 でも、だからといって、私が不参加をうったえることの、足をひっぱろうとするのは、つまるところ、
 
 
 「自分の不幸緩和するために、だれかの別の者の幸福値を下げることに血道をあげる」
 
 
 ということであって、あまり健全な行為でもないし、私自身その標的にされるのは、まっぴらごめんだ。
 
 それが、この「かわいそう」という表現に表れている。
 
 
 「わたしたちは、あなたのすることに、なんとも思ってない。怒りも羨望もない。むしろ、こんな行事に参加して、《一体感》を味わおうとしないあなたを、かわいそうだと思って、あわれんでいる。見よ、この心の余裕を! どうよ、この立場逆転!」
 
 
 ということなのである。
 
 でも、そもそも「そんなの入りたくない。つまんないもーん」という人が、「かわいそう」とか言われても……。
 
 これはおそらく、多くの「自らの意志で同調圧力に乗らない」人が、一度はかまされたことのあるアップだと思うけど、なんかもう、言われるとガックリきます。
 
 「せまい学園生活で、そんなことできない」ことはわかってるけど、やっぱり言いたくなる。
 
 「やりたくないなら、やらなきゃいいじゃん」
 
 イヤなら、サボればいい。つまんなきゃ、企画した人にうったえればいい。
 
 通らないなら、もう自分バンド組むなり脚本書くなり、なにかをやればいい。
 
 そんだけのことだと、思うんだ。
 
 私が日本人的同調圧力や、強制参加が嫌いなのは、自分がイヤなだけでなく、こうして、
 
 
 「自分が強制された嫌なことを、他者強要することによって《自分のやっていることはムダではない》と心をなぐさめる」
 
 
 という欺瞞が「悪しき伝統」として続くからだ。
 
 部活のしごき、子供の虐待、セクハラを我慢することやサービス残業
 
 などなど、すべてこういった心理の働きである。
 
 強制されたことを、あたかも「自分で選んだ」かのようにふるまい、そこから、
 
 
 「振り返ってみれば、やってよかった。いろいろ鍛えてもらった」
 
 「あのころがあったから、今の自分がある」
 
 「苦しかったことも、今となってはいい思い出」
 
 
 ホントかよ
 
 いや、本当にそうだって人もいるんだろうけど(だとしたら、それは素晴らしいことだと思う)、なんか嘘くさい人も聞いてて多いし、なによりそういう人のを見ても、「自分もやろう」ってならないのだ。
 
 見た感じ、楽しそうじゃないから。
 
 そしてまた、その空気が伝わるものだから、彼ら彼女らはそのウソが「本当である」ということを「証明」するため、それを他者に強要する。
 
 
 「ほら、キミたちもやってごらん。ボクは(アタシは)こんなすばらしい体験をしたから、こうしてススメることができる。もしホントにイヤだったら、人にやれなんていわないでしょ? だから、本当に【やってよかった】って思ってるんだ!」
 
 
 メチャクチャ余計なお世話だよ!
 
 そのときの女子2人もそうだけど、「やってよかった」「あのころがあるから今が」とか言う人って、もう目がね雄弁に語ってるんですよ。
 
 
 「テメーだけ、逃がさねえぞ」
 
 
 本当に「やってよかった」「かわいそうだと思う」なら、こんな負の圧かけないって! 絶対、今が楽しくないから言うてますやん!
 
 もう一度言うけど、そんなのやりたくないなら、やらなきゃいいのだ。
 
 エスケープでも、反乱でも、独立でも、自分で考えて、やってみればいいんです。
 
 本当は思ってもいない
 
 
 「《一体感》を味わえるクラス行事に参加しないなんて、かわいそう」
 
 
 なんておためごかしで、こんな、どうでもいい男子のマウント取らなくてもさ。
 
 そりゃ、大人になって社会に出れば、それが通じないケースが多々ではある。そこを立ち向かえとは、別に言わない。
 
 でもなんか、フワッと、それこそこの2人の女子みたいに「なんとなく」拒否できないのなら、思い切って飛び出してみても、いいんじゃないか。
 
 西原理恵子さんによる、ステキなタイトルのマンガ
 
 
 『はれた日は学校をやすんで』
 
 
 こんな気分になって。
 
 
 (続く
 
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