「羽生さんばかりが勝って、ちょっと他の棋士がだらしないんとちゃうの?」
というのは、将棋ファンでない人に、たまに訊かれることである。
タイトル通算99期、棋戦優勝回数45回。
前人未到の七冠同時制覇にくわえて、その七冠のすべてで、永世称号も獲得。
数字だけ見れば、そう思ってしまう人もいるかもしれないが、それに関してはこう断言できる。
「他の棋士たちがだらしないとか、それは断じてありえません」
羽生善治のすごさというのは、単に勝ち続けただけでなく、
「この時代に、これだけの戦績を残した」
というところにもある。
なんといっても、彼が相手にしていたのに、まず谷川浩司という男がいた。
羽生が「史上最強」とはいえ、この谷川もまた、将棋史においては五指に入る天才だ。
さらには少し上に森下卓がいて、同世代に森内俊之、佐藤康光、郷田真隆、丸山忠久、藤井猛、さらには前回紹介した(→こちら)「史上最年少タイトルホルダー」屋敷伸之。
これら、世が世なら彼らこそが、圧倒的強さで棋界に君臨していたかもしれない棋士たち。
そんなバケモノ集団の中で、頭ひとつ抜け出たことこそが、羽生の真の恐ろしさなのである。
そこで今回は「最強の時代」を生きたライバルが、宿敵羽生善治を破った棋譜を紹介したい。
1990年、今はなくなってしまったオールスター勝ち抜き戦の、羽生善治と佐藤康光の一戦。
この将棋、まず棋譜の対局者名を見ると目を引かれるのが、二人の肩書で「羽生善治竜王」と「佐藤康光五段」。
同世代で、しのぎをけずっていたはずが、むこうはタイトルホルダーで自分は「五段」。
佐藤康光からすれば、当然おもしろくはあるまいと、周囲も想像するところで、事実この一局は、期待にたがわぬ熱戦となるのである。
戦型は佐藤が先手で、角換わり腰掛銀に。
先手が、9筋の端を突きこした形で仕掛けたのがうまくいき、リードを奪えそうな流れに。
角は取られているが、と金で飛角両取りがかかって、どちらか取り返せる形になっている。
飛車を取られると、▲23歩のタタキがきびしいので、△62飛と逃げたいが、▲84と、と取られた形が、と金の威力が絶大すぎて後手が勝てない。
まともな手では苦しそうに見えたが、ここで羽生はアッとおどろく奇手をくり出す。
△95角と、ここにのぞくのが、いかにも「ひねり出した」という手。
▲同香なら、そこで△62飛と逃げておいて、次に△59角と打つのが、飛車と香の両取りになる。
単に飛車を逃げるより、と金を▲83の地点に留め置いたうえに、香もうわずらせている。
将来、△96桂のようなねらいもでき、こっちのほうが圧倒的に得であるのだ。
それは相手の思うつぼということで、佐藤は▲92と、と飛車のほうを取るが、そこで後手も△59角成と、お荷物になりそうだった角を、見事なポール回しで成りこんで、これで勝負形。
以下、▲18飛、△75歩、▲85銀、△73桂、▲74銀、△54歩、▲23歩、△同玉、▲61飛、△55歩、▲47銀、△45銀、▲21飛成、△22角と進んで、これはどう見ても激戦である。
そこからも、双方力を出し合ったねじり合いが続き、むかえたこの最終盤。
先手玉に受けはなく、勝つには後手玉を詰ますしかない。
果たして詰みはあるのか。あっても、佐藤康光は発見できるのか。
実戦詰将棋で、腕自慢の方は考えてみてください。
初手は▲24歩しかないが、△13玉とよろけて、そこからがまずすごい。
▲24歩、△13玉、▲23歩成、△同玉、▲24歩、△13玉、▲23歩成、△同玉、▲24歩、△13玉、▲23歩成、△同玉、▲27香。
なんと佐藤は
「▲24歩、△13玉、▲23歩成、△同玉、▲24歩」
という、歩の成り捨てを連発したのだ。
ただ歩を損しているだけに見えるが、これが一歩を犠牲に時間をかせぐテクニック。
これで、相手がノータイムで応じたとしても、数分は考えられることになる。
こういう行為を嫌う人も多いし、当然佐藤も不本意だったろうが、だからこそ、なりふりかまっていられないという気迫も感じられる。
歯を食いしばり、目を血走らせながら読みふける対局者たちの様子が、目に浮かぶようではないか。
以下、△24歩に▲同香と取って、△同玉に▲25歩とたたく。
△同玉に▲37桂、△36玉、▲47銀打、△35玉、▲46角、△44玉、▲36桂、△33玉、▲45桂、△23玉、▲28飛、△27歩、▲同飛、△24歩、▲同飛、△12玉。
長手数進めてしまったが、変化としては一直線なので、ぜひ追ってみてほしい。
パッと見、詰みはありそうだが、カナ駒がないため、まだハッキリととどめを刺す形が見えない。
最初の王手からすでに30手以上が経過しており、ここまでたどり着くのもかなりの長旅だったのだが、まだむずかしいというのだから、なんともすさまじい戦いだ。
そしてついに、佐藤は勝ち筋を発見した。
そう、後手玉には詰みがあるのだ。
この手順が実にかっこいいので、皆様も考えてみてください。
アレもアレも、豪快に切りとばしていけば……。
▲22飛成、△同金、▲13角成が、熱戦の収束にふさわしい、あざやかな捨駒。
△同金には▲21角、△23玉、▲33桂成。
△同玉に、▲31竜で、詰将棋のようにピッタリ詰み。
本譜の△13同玉にも▲11竜と取って、△12飛の合駒に▲24角、△23玉、▲33桂成、△同金、▲12竜、△同玉、▲13飛。
ここで羽生は投了。
▲11竜に△12金打としても、▲24角から▲22竜と、こっちの金を取って詰み。
いかがであろうか、この佐藤康光の寄せ。
当時すでに竜王だった羽生相手に、まさに一歩もゆずらないド迫力ではないか。
こういう将棋を見せられると、やはりこの想いを新たにするわけだ。
「羽生さん以外の棋士がだらしないとか、そんなことは断じてあり得ません」
(羽生と佐藤の竜王戦編に続く→こちら)