前回の続き。
「彼が強いとは、どうしても思えないんです」
屋敷伸之九段のことを、かつてそう評したのは、若手時代の森下卓九段であった。
こういうとき、将棋にかぎらず勝負というのはハッキリしていて、
「はあ? じゃあ、負かして証明してみろや!」
温厚な屋敷は口にこそ出さないが、まあ内心は似たようなことを感じていたことだろう。
これに対して、森下は棋聖戦の予選で完敗してしまい、
「史上最年少タイトルホルダー」
という記録のアシストをする形になってしまう。
これを受けて、少しばかり評価も変わったようだが、話はまだ終わってないとばかり、今度は自らがその棋聖への挑戦者に名乗り出ることに。
今度こそ本場所での決戦だが、言われた屋敷のみならず、森下の方も「強くない」と言った相手に番勝負で負かされては、「ヤカラ」とさげすまれても仕方がなくなる。
「吐いたツバ、飲まんとけよ」
まさに双方、プライドにかけて負けられないシリーズは、その通り熱戦あり、終盤のドラマありという、実に激しいこととなったのだ。
1990年後期、第57期棋聖戦5番勝負。
まずは開幕局。
後手番になった屋敷が四間飛車に振ると、森下は得意中の得意としていた左美濃へ。
このころの森下がくり出す左美濃の強さは鬼神のごとしで、高橋道雄や南芳一といった面々もふくめて猛威を振るい、一時期は
「振り飛車全滅の危機」
にさらされたほどの破壊力だった。
その通り、森下はここで「らしさ」全開の指し回しを見せることになる。
序盤をリードしたのは屋敷だった。
角交換から、その角を△64の好所に設置し、△33桂と
「振り飛車の命」
と呼ばれる右桂も活用していく。
森下は敵の銀をわざわざ引き寄せて、きわどく受け止めようとするが、屋敷は手に乗って桂をさばき、駒得にも成功。
後手の飛車と角が窮屈なのを見越して、接近戦に持ちこんで押し返そうという腹である。
むかえた、この局面。
先手が▲56金と手厚く打って、角を△73に逃げたところ。
先手は飛車角の働きが悪いが、5筋と6筋の厚みが大きく、持駒の香も威力を発揮しそうで、いい勝負に見える。
一目は▲45金と取りたいが、ソッポに行くし、将来△65飛とさばいてきたときに当たりになるのも気になる。
そこで代わりに放ったのが、筋中の筋という手だ。
▲64歩が、いかにも感触のよさそうな軽妙手。
△同飛も△同角も、6筋に香を打てば田楽刺しの一丁上がり。
じっと▲46歩も良さそうだが、手の流れとしては歩を突きたくなるところだ。
こういう手の気持ちよさがわかって、自分でも指せるようになると、将棋のおもしろさはさらに2倍、3倍になるのだ。
困ったのか、ここで屋敷は△57桂成と派手な手を見せるが、これがイマイチだったよう。
▲同金に△65桂と両取りに打って、▲67金、△77桂成、▲同桂。
そこで△68歩が、期待のスルドイ手裏剣。
この手を見越しての桂捨てで、▲同金上は△79銀が怖いし、▲同金引は上部が薄くなって指しきれない。
そこで▲79金とよろけるが、そこで△64飛(!)が勝負手。
▲65香の田楽刺しが見えるが、それにはかまわず△44飛から△49飛成と成りこめば、△68歩の利かしが目一杯生きてくると。
森下は誘いに乗らず、△64飛にじっと▲22馬と蟄居している馬を活用。
△62飛に▲33馬で手を渡しておく。この落ち着きが森下流である。
なんとかあばれたい屋敷は、今度こそ6筋の香打ちがきびしいから△69歩成と成り捨ててから、△95歩と端から手をつけるが、このあたりでは流れは森下ペースだろう。
しっかりと腰を据えて、あせって突撃してくるのを受け止めて完封するのは、得意中の得意という展開なのだから。
だが屋敷も、そこはタダではやられない。
なんといっても、18歳ですでに天下の棋聖である。ここで勝負手をくり出して喰いついていく。
図は強引に飛車を成りこんだ屋敷に対して、ガツンと香の補強を入れたところ。
竜を逃げるようでは、▲66香とか▲94歩とか、▲66馬とか▲65(85)桂打とかとか攻めは選り取り見取りだが、「忍者流」屋敷がここで魅せるのだ。
△76竜と捨てるが、渾身の勝負手。
▲同玉の一手に、△75金と押さえ、▲87玉に△64角と、懸命に駒をさばいていく。
▲66香に△76金打、▲88玉、△66金と香を取り返す。
一気に先手陣も危なくなってきたが、森下はくずれない。
▲66同馬、△同金に▲87金と埋めるのが、森下流の手厚い指し回しで、これで後手が攻め切れない。
先手の馬は消えたが局面がサッパリして、こうなると、いかにも後手の攻めが細く見える。
以下、△75香から、ふたたびラッシュをかけるも▲89桂から、しっかりと受け止める。
最終盤も落ち着いたものだった。
次の手が、おそらく決め手にするべく、ずっといいタイミングで指したかった手だ。
▲35歩と突くのが、ぜひとも見習いたい感覚。
飛車取りを防ぎながら、同時にこれまでまったく働いていなかった飛車が、その横利きで先手玉上部を見事にカバーしている。
強い人というのは、この▲26にいる飛車のような遊んでいる駒は、いいところで働かせたいと常にねらっているものだが、こうもドンピシャに決まっては気持ちよすぎるではないか。
こんなさわやかな手を喰らっては、さしもの「おばけ屋敷」(化け物のように強いことからついた当時のニックネーム)もまいった。
△67金から最後の勝負をかけるが、この将棋の森下は終始ブレなかった。
▲78銀から、すべてを受け止めて先手勝ち。
才気あふれる屋敷のフットワークを大人の手厚い将棋で封じこめたところが、まさに森下将棋であり、気の早い私など
「強い! さすがは谷川浩司、羽生善治に続くナンバー3やで。こりゃ、森下棋聖で決まりやな」
ひとりで決め打ちしていたが、なかなかどうして。
戦いが進むにつて、この好局は波乱のシリーズにおける、口当たりのいいオードブルのようなものだったと、徐々に思い知ることになるのである。
(続く)