ミドリ色の屋根は永遠に~René Simardに首ったけ~

ルネ・ファンのルネ・ファンによるルネ・ファンのためのルネ・ブログ シマ姉のルネ・データ・バンク

60 ans et déjà 50 ans de carrière⑭

2023年07月29日 | ルネの活動記録

 明日土用の丑の日です。

 食いしん坊のシマ姉家は、もちろん夕食にウナギをいただきます(^^♪ 毎日猛暑続きですので、お昼にはランチを兼ねてかき氷を食べに行きます たまには主婦の休日も必要です(笑) ルネ友のみなさまに於かれましてはいかがお過ごしでしょうか?

 

 昨年に続き、今年もLa Fabuleuse Histoire d'un Royaume(王国の素晴らしい歴史)の広報担当に任命されたRené Simardは、7 月26 日(水)の公演中に、Théâtre du Palais municipal パレ市立劇場の舞台に 𝗰𝗼𝗺𝗲́𝗱𝗶𝗲𝗻 𝗱'𝘂𝗻 𝗷𝗼𝘂𝗿 (一日俳優)として出席し、主催者たちに敬意を表しました。 なんて素敵なサプライズでしょう 舞台に出演する 140 人の俳優の中からルネを見つけられるでしょうか?

 そしてこちらが舞台衣装を着たルネとマリー=ジョゼ ルネの爪先のポーズがなんだか可愛い(笑)と思ってしまうシマ姉です(^^♪

 

 このところブログ記事の予約投稿をためておく余裕がありません★ それというのも、前回もお話ししたとおり、teacupからgoo blogに移転したことにより、記事中の過去ログのリンクを全てgoo blogのものに差し替えなくてはならないので、思いのほか記事作成に時間がかかっているからです。幸いなことは、goo blogはその作業がteacupよりも簡単にできることです。また、紹介したYouTube映像などが無くなっていたりするものを探して貼り直すのにも時間がかかっています。何せ、既に投稿記事が今回で1115記事ですから、全ての記事を確認して修正するのには大変な時間を要します。しかし、新規投稿の記事で紹介するものから取り組まないと、ずっとそのままになってしまうことが目に見えているので、必死になって修正に精を出しています! goo blogの投稿システムのおかげで、リンクがすっきり見やすくなっているのにお気づきでしょうか? また、ルネ本人がYouTubeや音楽サイトを立ち上げているため、紹介した曲をYouTubeや音楽サイトで聴くことができるようになって、ファンにとってうれしい限りですね

 なお、記事を書いた当時YouTube映像がなかったため、歌詞の翻訳記事を書かなかった、アルバム『Original  オリジナル』などにつきましては、「60 ans et déjà 50 ans de carrière」のシリーズが完了した後に取り掛かろうと考えているところです。気長にお待ちください。

 記事とは関係ありませんが、facebookルネ・ファン・グループ「Condor, c'est toi : pour René Simard のメンバーが、本日新規入会したリタ・ダムールさんで888名になりました(^^♪ 縁起の良い「8」のぞろ目なので、つい報告してしまいました~(笑)。900名超えも近い?! 「毎日1記事以上投稿」の目標も達成し続けていますが、情報や画像を提供してくださるメンバーの方々、ソルさん、ジョゼフ君、カールさん、シャンタルさん、ジョアンヌさん、ミシェルさん、いつもありがとうございます また、必ず「いいね」とともにコメントを書いてくださる方がどんどん増え、大変励みになっています 「継続は力なり」で頑張りますよ~(^^♪
 
 
 
 
 今回は「60 ans et déjà 50 ans de carrière」の14回目であり「De ses débuts aux comédies musicales, 50 ans d’une carrière exceptionnelle ミュージカルデビューから50年の輝かしいキャリア」の8回目、JEUNE ADULTE ヤングアダルトの後編です。
 
 
 

LES ANNÉES NATHALIE ナタリー・イヤーズ

EN MÊME TEMPS QU’IL QUITTE L’ADOLESCENCE, RENÉ REDESSINE SA CARRIÈRE  AU COURS DES ANNÉE 1980. ET SA PETITE SOEUR NATHALIE N’EST JAMAIS BIEN LOIN.

思春期を卒業すると同時に、ルネは 1980 年代にキャリアを再設計しました。そして彼女の妹のナタリーも決して遠くにはいませんでした。

 
 

左上:1989年3月、プロモーションのためフランスに滞在中。

右上:1988年、兄レジスも参加して、ルネとナタリーのアルバム発売。

左下:Tourne la pageのクリップ撮影中の2テイクの間。

右下:彼らは2011年9月に開催された慈善ショーで再会しました。

 

EN TANDEM タンデム

 ルネは表舞台から離れ、数か月間、よく知っているロサンゼルスの街でエネルギーを充電することになりました。 そこで彼は、ディズニーの世界を背景にカリフォルニアとフロリダから放送される 2 つのテレビ番組の活気によって急き立てられない、より正常な生活リズムを見つけました。 ナタリーはあらゆる機会に彼に同行しました。1981年、彼はコンピレーション『La grande rétro』にインスピレーションを受けたコンピレーション・ショーに参加しました。

 1982年、彼は現在13歳の妹と結成したタンデムを強化する前に、アルバム『Original  オリジナル』をレコーディングしました。年末には、デュオはコンピレーション『René & Nathalie Simard - 20 Souvenirs de Noël   20のクリスマスの思い出』を発売しました。このディスクには、A面にルネ、B面にナタリーが歌った曲が収録されています。これにより、より緊密なコラボレーションの準備が整いました。

 12月以降、彼らは手をつないでPlace des Arts 芸術劇場の舞台を踏みました。翌年には2枚組のLP『René Et Nathalie–En Concert  ルネとナタリーのコンサート』が発売されました。 文字通りにも比喩的にも、これは非常に幅広い聴衆に向けたファミリー・アルバムでした。

 1983年、ルネがまた日本に行くと、歴史は繰り返されました。 今回はナタリーも同行しました。 9年前、この青年が東京音楽祭世界大会でグランプリを受賞した同じステージで、彼らは一緒に歌いました。 当時、ケベックでは、ルネとナタリーはよく一緒にショーを披露していました。 大衆は、目の前で成長したこの 2 人のアーティストを結びつける共謀を高く評価しています。

 また1983年、兄妹は『Sur La Plage  浜辺で』と『Joyeuses Fêtes René et Nathalie』という2つのコンピレーションを発表しました。

 

SUCCÈS EN SOLO ソロでの成功

 1984 年はルネにとって重要な年でした。 アルバム「Comment ça va 調子はどうだい?」のタイトル曲は、この夏のラジオでのヒット曲となり、レコードの売り上げ増加に貢献しました。 この成功を讃え、歌手はベストセラーのEP盤(45 rpm)に対してフェリックス賞を受賞しました。

 アルバム『Comment ça va 』には、TVA で放送されケベックで録音された 1 時間番組のタイトルとなった「Salut capitaine やあ、キャプテン」という曲も収録されていました。 ルネもナタリーとマリー=ジョゼ・タイユフェールとともにSpecial croisiereスペシャル・クルーズに参加しています。

 1985年、ルネは『Et tu danses avec lui  そして君は彼と踊る』をレコーディングし、その中にはヒット曲『Sous le sunlight des tropiques 熱帯の日射しの下で』、『La luna de cancun  カンクンの月』、『Chante la la la  ラ・ラ・ラと歌う』が含まれていました。 ナタリーは参加していません。 一方、ルネはレジスと再結成し、兄がDominique Bassal ドミニク・バサルと共作した『Ne t'en fais pas 心配しないでください』を歌いました。 このレコードは人気の高い成功を収めているだけでなく、高い評価も得ています。 1986 年の ADISQ Gala では、今年のLP – ポップ部門にノミネートされました。

 1980年代後半、ルネはテレビのバラエティ番組の司会にほとんどの時間を費やしましたが、それでもレコードの大ヒットを妨げることはありませんでした。

 

L'ALBUM DE LA MATURITÉ 円熟のアルバム

 1988年にアルバム『René et Nathalie Simard』が発表されましたが、これは彼らがこれまでに発表したものとは明らかに異なりました。 今回、ディスク素材はすべて彼らのためにオーダーメイドされていました。 音楽は、Celine Dion セリーヌ・ディオン Sylvie Vartan シルヴィ・ヴァルタン Elsa エルザ、Stephanie de Monaco ステファニー・ド・モナコ Jeanne Mas ジャンヌ・マスなどに作曲した有名なイタリアの作曲家、Romano Musumara ロマーノ・ムスマッラ によるものでした。

 世界市場に通用する高品質な製品を提供するために、私たちは生産に全力を尽くしました。 録音はフランスのマルカデ・スタジオで行われました。 表紙では彼女と彼が新たな外観を披露し、ナタリーは〈妹〉のイメージを打ち破り、19歳の若い女性にふさわしいスタイルを採用しました。 楽曲も同様で、しっかりと時代を見据えたものになっていました。

 ケベック州では、このアルバムはメガヒット曲「Tourne la page ページをめくる」に牽引されてヒットとなり、フェリックス賞のベストセラーEP盤賞と年間ビデオクリップ賞を受賞したほか、その年のソング部門にノミネートされました。さらに、ルネの名前は、今年の男性パフォーマーのフェリックスに挙げられた10人の名前のうちの1つでした。 翌年には、この同じディスクから、ルネがソロで歌う「Catherine カトリーヌ」も成功しました。

 アルバムはフランスでも発売され、ヨーロッパ市場に参入するために、ルネとナタリーはフランスに何度も滞在しました。 しかし、彼らの試みは期待に応えられませんでした。

 ここ数年、ルネはますますテレビ司会に専念するようになり、レコード面での生産性は低下してきました。 今後数年間で、この傾向は確実になるでしょう。

 

 

 今回は過去ログの修正でヘロヘロになっています★ デビュー25周年記念の25枚組CD集にセットされたアルバムまでが紹介されていたので、しばらくはこのようなハードな記事修正はなさそうです。途中で何度も挫折しかけながら、どうにか記事投稿予定日ギリギリに(笑)修正が完了しました。

 以前にお読みいただいた方も、紹介したアルバムや収録曲を改めて楽しんでいただければ幸いです  

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60 ans et déjà 50 ans de carrière⑬

2023年07月23日 | ルネの活動記録

今日は『大暑

そして昨日7月22日は、ルネの妻マリー=ジョゼ・タイユフェール Marie-Josée Taillefer の60歳の誕生日でした

ルネはというと・・・

Après « Le Diner de Cons »… voici « Le petit verre entre amis de cons ».

「Le Diner de Cons 奇人たちの晩餐会」の次は… こちらは「Le petit verre entre amis de cons 愚かな友人たちとの間で一杯」。その日の舞台が終わった後の打ち上げの一杯で、みんな盛り上がっていますね(^^♪ 

 私個人としましては、このところ、ルネの息子オリヴィエ、娘ロザリー、そして妻マリー=ジョゼのお誕生日が続き、facebookルネ・ファン・グループ「Condor, c'est toi : pour René Simard にたくさんのお祝いコメントや「いいね」が寄せられております。メンバーも870名を超えてなお増え続けており、管理人として忙しい日々を送っておりました。

 また、舞台劇『Le Dîner de cons 奇人たちの晩餐会』と、ルネが監督を務めるミュージカル「La famille Addams アダムス・ファミリー」の情報が飛び込んでくるので、アンテナを高くしてシェアするのも結構大変で、嬉しい悲鳴を上げております。

 さらに、teacupブログサービスの終了により、ブログをgoo blogに移転したため、過去ログへのリンクを修正する作業と、削除されてしまったYouTube映像等の貼り直しが予想以上に大変です。そのために今回は、当初の予定を変更し、JEUNE ADULTE ヤングアダルト」を前後編で紹介することにいたしました。

 

 

 ・・・ということで、今回は、「60 ans et déjà 50 ans de carrière」の13回目であり、「 De ses débuts aux comédies musicales, 50 ans d’une carrière exceptionnelle ミュージカルデビューから50年の輝かしいキャリア」の7回目JEUNE ADULTE ヤングアダルトの前編です。

 

 

LES ANNÉES NATHALIE ナタリー・イヤーズ

EN MÊME TEMPS QU’IL QUITTE L’ADOLESCENCE, RENÉ REDESSINE SA CARRIÈRE AU COURS DES ANNÉE 1980. ET SA PETITE SOEUR NATHALIE N’EST JAMAIS BIEN LOIN.

思春期を卒業すると同時に、ルネは 1980 年代にキャリアを再設計しました。そして彼女の妹のナタリーも決して遠くにはいませんでした。

 

左:1982年、ステージ衣装で。

右上:1984年、彼らは母親の本『Gaby, My 100 Best Recipes』の発売を支援しました。

右下:1974年、兄が日本から帰国するとすぐに、ナタリーはどのような状況でも兄から離れませんでした。

 

 ルネの実績と経験は非常に豊富で、彼がまだ十代であることを忘れてしまうほどです... 1979年、彼は成熟した年齢に達しましたが、彼のキャリアで初めて新しい曲を録音しませんでした。 せいぜいコンピレーション・アルバム『18 ans déjà もう18年』を発表したくらいでした。

 公共の場では、この若者はかなり控えめでした。 彼は英系カナダのテレビに数回出演し、ケベック州で制作された番組でも時折見かけましたが、本質的には、この年は一歩退いていました。

 それにもかかわらず、1979年に彼は国際児童年のテーマソングを歌うことに選ばれました。 そして彼は、他でもない彼の妹のナタリーとともに「Tous les enfants du monde 世界のすべての子どもたち」を歌うことになりました。シマール家の末っ子にとって、これは初めてのレコーディングであり、その後すぐにクリスマス アルバムがリリースされました。 その瞬間から、彼女の兄と同じように、彼女はスターチャイルドの座に就いたのでした。 そして兄妹のコラボレーションはまだ始まったばかりでした!

 1980 年の夏、ルネは妹も参加してケベック州をツアーしました。 他の会場では、Place des Arts 芸術劇場やGrand Théâtre de Québec ケベック大劇場でも公演を行っています。

 

PASSAGE A L'ÂGE ADULTE 成人期への移行

 記録上、この若者は「Souvenir d'adolescent - Le rock des années 60 (過去ログ「Souvenir d'adolescent 」参照)10 代の思い出: 1960 年代のロック」を発売して驚かせました。レコードジャケットには、革のコスチュームを着て後ろ髪をなで、街の路地でバイクに乗っている彼が写っていました。 ファッションはレトロでした。 そしてルネは、『Calender Girl カレンダー・ガール 』、『Rock Around the Clock ロック・アラウンド・ザ・クロック 』、『Great Balls of Fire グレート ボールズ オブ ファイア』、『Oh, Pretty Woman オー・プリティ・ウーマン 』などのヒット曲をカバーすることを、成功を再開することで受け入れていました。 初期からのファンは安心してください。彼らがいつも知っているように、すぐに 「彼らの」 ルネを見つけることでしょう。

 同じく1980年には、Diane Juster ディアンヌ・ジュステのオリジナル曲にそのタイトルを冠したアルバム『Un homme  男』がリリースされました。 ほかの仕方で、私たちは今回も一連のカバー、彼の功績を残した方法を見つけました。番組では、1960 年代に流行したフランスのヒット曲の数々を紹介しました。5月6日には、 Michel Jasmin ミシェル ジャスマンが司会を務める番組「Bonjour le monde 」で、彼が自身のレコードを一般公開しました。 次の日曜日には、彼はナタリーとともに母の日を記念するテレビの特別番組に出演しました。

 年末には、最も時代錯誤的なLPがリリースされましました。 ルネ、ナタリー、Paolo Noël パオロ・ノエル、Chatelaine シャトレーヌ、Gilles Girard ジル・ジラール&Les Super Classels スーパー・クラッセルズ、Johnny Farago ジョニー・ファラゴ、Michèle Richard ミシェル・リチャールが「Un Noël blanc : 15 grands success de Noel et du palmares 80’ ホワイト・クリスマス:ノエルの15の大成功と80年代チャート」をリリースしました。 それ以上を見ていません:それは寄せ集め以上でも以下でもありませんでした。

 ルネにとって、思春期から大人への移行は明らかに順風満帆ではなく、キャリアは悲惨な状況にあり、その声は急激な変化を起こしていました。休憩する時期が来たのでしょうか?

 

 

 ルネが10代最後の年に、何故か『La grande rétro 』と銘打って、1960年代のロックを中心に歌い、アルバムをリリースしていました。エルヴィス・プレスリーのファンだったクルティエ氏の発案なのかもしれませんが、ちょうどアメリカのSF映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー 』の第1作(1985)が大ブームになる以前に、映画の場面(1955年の設定ですのでそれよりは後)を先取りしたようなレトロなコスチュームは、ファンの受けとして今一つだったようです。

 次回の内容は『EN TANDEM タンデム』、『SUCCÈS EN SOLO ソロでの成功』、『L'ALBUM DE LA MATURITÉ 円熟のアルバム』になります 私も毎回翻訳するのが楽しみです♪(まだ訳し終わってないのよ~★)

※それぞれのアルバムは、過去ログSpotify(登録が必要)でお聴きいただけます。18 ans déjà もう18年 』はお聞きいただけませんが、デビューからのヒット曲集です。

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60 ans et déjà 50 ans de carrière⑫

2023年07月15日 | ルネの活動記録

 7月も早や半ば。月曜日は『海の日』ですから、今日から3連休という方も多いことでしょう。毎日暑い日が続きますが、ルネ友のみなさまに於かれましては、いかがお過ごしでしょうか?

 そして去る7月8日はルネの息子オリヴィエ、7月14日は娘ロザリーのお誕生日でした

▲左から息子オリヴィエ、セリーヌ・ディオンと娘ロザリー、ルネと妻マリー=ジョゼ、クロディーヌ・バシャン、亡きルネ・アンジェリル。 セリーヌとルネは、アンジェリル氏との関係で家族ぐるみの付き合い 

 facebookでは大変盛り上がり、ルネ・ファン・グループ「Condor, c'est toi : pour René Simard の投稿にもたくさんのお祝いコメントや「いいね」が寄せられました(^^♪ ロザリーは自身のページに自分の赤ちゃんの頃の写真を投稿し、8週間後に出産を控えていることを公表しました。

 ルネも舞台劇『Le Dîner de cons 奇人たちの晩餐会』が大成功 週末は舞台俳優、平日はミュージカル「La famille Addams アダムス・ファミリー」の監督の両立で忙しそうです。主要な登場人物の映像も続々と公開されていますよ♪

 

♪ シマ姉、カナダの「永遠の14歳」と出会う ♪

 facebookでファン・グループを立ち上げてから、カナダのルネ・ファンの方たちとの交流が深まり、ルネ・ファンの輪が広がっています 目標としていた「開設1周年までは1日1記事以上投稿」は達成しましたが、1年も続けていると習慣化され、毎日ルネの画像を1つ以上投稿して記録を更新しています。

 個人のページで投稿していた時よりも、投稿を見てくれている方が増えることによって、交流しているカナダのファンの方も増え、情報や画像を提供してくださる方も増えていき、メンバーも増え続けています。

 そしてついに! カナダの「永遠の14歳(正確には『頭の中はいつでも14歳』)」と出会いました!! シマール家とも個人的に直接会っている間柄で、亡き父ジャン=ロック・シマール氏の本の校正も手掛けられた方の上に、生まれ年が同じで、彼女の方からも「よく似ている」と言われるくらいに、考え方や行動パターンが私と似ています(笑)。

 私たち日本のファンがルネの来日を切望していたころのルネの写真や、公表されていないルネのエピソードなども提供していただいていますので、追い追い紹介してまいりますね(^^♪

 

 

 そして今回は、「60 ans et déjà 50 ans de carrière」の12回目であり、「De ses débuts aux comédies musicales, 50 ans d’une carrière exceptionnelleミュージカルデビューから50年の輝かしいキャリア」の6回目「INTERNATIONAL 国際的」の後編になります。

 

左:1976年、CBCネットワークで放送されたヘッドライン特別番組『フェア・ウェザー・フレンズ』の一環として、エンターテイナーのリッチ・リトルとステージを共にしました。

中央上:1970年代後半、米国やイギリス領カナダでは需要が無かったとき、ルネはケベックのファンの前でパフォーマンスを披露しました。 ここ、1975年、ラヴァルのハイパーマルシェにて。

中央下:1976年、ロサンゼルスでルネは、テクニックを磨くためにデュプリー・ダンス・アカデミーに定期的に通っていました。

右上:1976年4月12日、不滅のビング・クロスビーとともにモントリオール・フォーラムのステージに。

右下:たとえどこへ行っても、群衆を惹きつけても、ルネは自分自身に忠実であり、シンプルで自然で親しみやすい存在であり続けました。

 

D’UN OCSÉAN À L’AUTRE 海洋から別の海洋へ

 1977 年はルネにとって実りの多い年であり、英語圏での過去 2 年間の活動はすべて頂点に達しました。 彼は CBC ネットワークで放送された「ルネ・シマール・ショー」の司会者になりました。 この毎週のバラエティ番組はバンクーバーで収録され、カナダ全土の視聴者に届けられました。 それはベスト・バラエティ・ショー部門のACTRA賞に値しました。 このショーは 15 か国以上でも販売されていたため、そのメリットはさらに大きくなりました。 2年間放送される予定です。

 また1977年には、「From Quebec to California」という曲が含まれた英語のアルバム『Never Know The Reason Why 』をリリースしました。 このタイトルは、二つの次元の狭間で人生を過ごすルネの肌に刺さりました。 精力的に働き、夏はケベックで過ごし、7月22日までゲスト・アーティストとしてJohnny Farago ジョニー・ファラゴ、Chatelaineシャトレーヌ、Claudette Morissetteクローデット・モリセット、Maximilienマクシミリアンらとツアーを行いました。 この一連のショーの成果が、アルバム『René Simard à la place des Nations 』であり、同年11月27日にリリースされました。

 そして、それだけでは十分ではなかったかのように、その年を締めくくるために、ルネは12月12日から17日までPlace des Arts 芸術劇場で、その後12月19日から21日までSalle Albert-Rousseau アルベール・ルソー公会堂で新しい一連のショーを開催しました。

 

 

LOURDES RESPONSABILITÉS 重い責任

 1977年、ルネはまだ16歳でした。 彼は若く、健康的なライフスタイルを送っていましたが、仕事量は重いです。 彼は常にスーツケースの中にいて、時差ボケの状況に対処しなければなりませんでした。 2016年4月15日の7日間のインタビューで、彼は次のように回想していました。「この瞬間を味わっていたと言うのは嘘になります。 何が起こっているのか理解する暇もありませんでした! バンクーバーでThe René Simard Show ルネ・シマール・ショーを主催したとき、私は曲を学ぶために夜寝るときにテープを聞いていました。 それは止まらず、私には休息がありませんでした! 実際、私は週に1日休みがありましたが、その日は軟体動物でした!」

 2012年10月27日に彼が『Échos Vedettes』で語ったインタビューの中、ルネは同じ年をこう振り返りました。「私はパレードを追っていましたが、若いとき、あなたは自分に何が起こっているのか本当に理解していません。51歳になった今、それは美しい思い出です。ただし、当時の私のキャリアと今の私のキャリアを見ると、それは完全に 2 人の人間であり、2 つの異なるキャリアだということだけは変わりません。 私は仕事を同じようには見ていません。」

 このティーンエイジャーは狂ったように働くだけでなく、同年代の少年にはできない責任も負わなければなりませんでした。 1978年の夏、17歳のとき、彼はモン=サン=ティレールに最​​初の家を購入しました。 彼の母親のギャビーも、二人の兄弟とナタリーと一緒にそこに加わりました。

 雑誌『7 Jours(Facebook)』に寄せた前述のインタビューの中で、彼はこのときのことをこう振り返っています。「16歳のとき、私はもっと暗い時期を経験しました。 バンクーバー、モントリオール、ロサンゼルスの間を頻繁に行ったり来たりしていました。 サン=ティエールの自宅に3日間いたのですが、かなり落ち込んでしまいました。 私はほとんど落ち込んでいました。 春の前夜、私は外の木々を見て、葉は決して成長しないだろうと思いました。 それは二日間続きました。 私のキャリアはあまりにも早く進みすぎました…」

 

 

FIN DE DÉCENNIE 10年間の終わり

 1978年、ルネは2回の往復旅行の合間に時間を見つけて2枚のアルバムをレコーディングしました。 ルネ・マルテルとのデュエットで、この仕事中毒者は、カバーだけで構成された皮肉なタイトル「Souvenirs de vacances  ヴァカンスの想い出のマイクログルーヴを発表します。 また、フランス語に翻訳されたアングロ・サクソンのタイトルからなる「Toujour plus loin  常により遠くへ」も登場しました。

 1975年から1979年にかけてのルネ・シマールの人生とキャリアの重要な部分は、米国とカナダの他の地域の両方で主に英語で行われていました。一方、ケベック州ではナショナリズムの熱が最高潮に達し、1976 年にケベック党が政権を樹立し、1980 年には住民投票が熱狂を巻き起こしました。そして、オリジナルのケベックの歌は健康に満ちていて民族主義的な性格を悪化させていましたが、ルネのレパートリーは基本的に翻案で構成されていました。 芸術的なチェス盤上でのその位置付けは、これ以上に時代錯誤的でした。この状況で、彼は1980 年代と大人への移行にどのようにアプローチしたのでしょうか?

 

 この記事は、ロザリーのお誕生祝メッセージの管理等をしながら真夜中に仕上げていました。前出のカナダの『永遠の14歳』ミシェルさんからのチャットにも答えていたら、「起きて何をしているのですか? 寝る! 今夜お話しましょう!」と言われました(笑)。同じカナダでも、彼女が住んでいるところからは12時間の時差があることが分かっているので・・・。

 明日から来週火曜日にかけて、体温を超えるような暑さになる予報ですね★ ルネ友のみなさまも、熱中症や夏風邪、下げ止まりからジワジワと増加傾向にあるコロナ等の感染症に十分に気を付けて連休をお過ごしください!

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60 ans et déjà 50 ans de carrière⑪

2023年07月07日 | ルネの活動記録

7月7日はルネの妹ナタリー・シマールの54歳の誕生日です。

 

 facebookのルネ・ファン・グループ「Condor, c'est toi : pour René Simard では、副管理人のジョゼフ君がナタリーの大ファンで、さらにメンバーのジョアンヌさんが、発刊されたばかりの雑誌に掲載された、ルネだけでなく、ナタリーやルネの妻マリー=ジョゼ、娘ロザリーの記事画像を提供してくださっています。ナタリー自身が精力的に活動しているので、公式でも個人でも、Facebookで彼女の話題には事欠きません。

 

▲ナタリー・ヴァリエールさんからファン・グループへの投稿2023年7月1日(土)と2日(日)の舞台

Le dîner de cons: «toute une école» de théâtre pour René Simard | JDM (journaldemontreal.com)

 ルネはというと、6月22日(木)からエクトル=シャルラン劇場 Théâtre Hector-Charlandで上演が再開された舞台劇『Le Dîner de cons 奇人たちの晩餐会』7月1日(土)からアルベール・ルソー公会堂 Salle Albert-Rousseauで引き続き上演されています それに加え、10月19日に初日を迎えるミュージカル「La famille Addams アダムス・ファミリー」の監督で忙しく、Facebookの公式ページへの投稿はここしばらく有りません。ルネの娘ロザリーも出産を控えているのでFacebookでの投稿はありませんが、おふたりからの素晴らしい報告を心待ちにしています

 また、前回紹介いたしましたとおり、来年1月からシーズン10が開始予定の人気TV番組「La Voix 」で、Marjoマージョの後任の最有力候補者としてルネが挙げられ、そのことをルネ・ファン・グループ「 Condor, c'est toi : pour René Simard で報告しました。メンバー850人に対し、1300人を超えるリーチ(閲覧数)とともに、メンバさんーからルネの就任を望むコメントや『いいね』をたくさんいただきました。そのことをルネにメッセージでお伝えしましたところ、既読が付きましたよ~(^^♪ 孫娘が3人になり、ますます忙しくなりますが、是非是非後任のコーチに就任してほしいですね

 

 

 

 そして今回は、「60 ans et déjà 50 ans de carrière」の11回目であり、「De ses débuts aux comédies musicales, 50 ans d’une carrière exceptionnelleミュージカルデビューから50年の輝かしいキャリア」の5回目「INTERNATIONAL 国際的」の前編になります。

 

 

À LA CONQUÊTE DE L' AMÉRIQUE DU NORD

北アメリカを征服するために

RENÉ A FAIT UN MALHEUR AU JAPON, MAIS N’A PAS EU LE SUCCÈS ESCOMPTÉ EN FRANCE. IL DEMEURE QUE LE CANADA EST VASTE…  ET LES ÉTATS-UNIS AUSSI!

ルネは日本を大いに盛り上げましたが、フランスでは期待された成功を収められませんでした。 カナダはまだ広いです…そしてアメリカ合衆国もです!

 

INTERNATIONAL 国際的

1976 年、モントリオール オリンピックの年、ルネのキャリアは北米各地に広がりました。

 

 彼が日本の地で経験した勝利はアメリカ人の興味を呼び起こしました。 1975年3月20 日、ルネは NBC で放送された権威あるMike Douglas Show マイク・ダグラス・ショーに招待されました。 彼がアメリカのテレビに出演するのはこれが初めてでした。まず彼は『ラ・メール~LA MER~ 』を歌い、司会者の演壇に座る前に、「あなたは素晴らしかったです!」と後者を褒めました。インタビューの後で、ルネは「Toute la pluie 雨にぬれても 」を歌い、アカペラでシューベルトの「AVE MARIA アヴェ・マリア」で締めくくりました。14歳の彼はまだ言語についての知識が非常に限られていましたが、この欠点はすぐに修正されることでしょう。 彼は、マイク・ダグラス が自分のスタジオセットで彼を迎えるとき、年間を通じてそれを実証しました…3度の他の機会に!

 また1975年に、ルネはABCで放送されたHoward Cosell ハワード・コーセルのSaturday Night Live サタデー・ナイト・ライブなど、他の人気トーク番組にも出演しました。 司会者は彼に言いました: 「あなたの足元にはアメリカがあります!」この機会に若いアーティストは偉大なMohammed Ali モハメド・アリに出会いました。 翌年の4月12日、ルネはCBSMerv Griffin Show マーヴ・グリフィン・ショーにも招待されました。

 これらの大規模なセットで、この若者はTony Randall トニー・ランドール、Gene Hackman ジーン・ハックマン Andy Williams アンディ・ウィリアムス Lisa Minnelli ライザ・ミネリ といったショービジネス界のビッグネームたちと肩を並べました。

 

PENDANT CE TEMPS, AU QUÉBEC 一方、ケベックでは

 ルネのキャリアが南部の近隣諸国に根付く一方で、ケベック州でも人気は高まり続けました。 彼は 1976 年の夏季オリンピックの公式ソングである「Bienvenue à MontrealWelcome to Montreal モントリオール讃歌)」の演奏者に選ばれましたが、ラジオ局はそれをボイコットしましました。 その後、私たちはコンテストを企画し、Jean Robitaille ジャン・ロビタイユが歌詞を書き、Christian Saint-Roch クリスチャン・サン・ロックが作曲し、Estelle Ste-Croix エステル・サン・クロワが数カ国語で歌った「Je t'aime ジュテーム」を保持しました。 今シーズン中、この曲は大会讃歌となり、ラジオで常に流れていました。 全世界の注目がモントリオールに集まる中、ルネは比類のない踏み台を利用して海外での躍進を強固にすることができたはずでした。 気にしないでください、彼は他の手段を取ることでしょう。

Bienvenue à Montreal:過去ログ「”モントリオール讃歌”の仏語詞の謎を解き明かせ」参照

 1976年4月12日、オリンピック競技大会のプレゼンテーションをきっかけに、彼はモントリオール・フォーラムでの大きなショー、The Bob Hope special  ボブ・ホープ・スペシャルに参加し、約18,000 人の観客が参加しました。このイベントにはBing Crosby ビング・クロスビー Shirley Jones シャーリー・ジョーンズ Lynn Anderson リン・アンダーソン Freddie Prinze フレディ・プリンゼ、Kathy Kreiner キャシー・クライナーも出演し、数日後にNBCとCBCでテレビ放映されました。

 ルネのアメリカでのキャリアは順調で、必然的にこの熱意は英語圏のカナダにも影響を及ぼしました。 1976年6月、彼はトロントで、秋に全米で放送されるBobby Vinton Show ボビー・ヴィントン・ショウ の収録に参加しました。 また、Rich Little リッチ・リトル、Olivia Newton-John オリビア・ニュートン=ジョンRoy Clark ロイ・クラーク らとともに、CBC ネットワークの番組「Fair Weather Friends フェア・ウェザー・フレンズ(『当てにならない友人』の意)」の一環として彼を見ることができました。

 そして何よりも、同年10月3日、CBCは番組『Rene Simard, Superkid ルネ・シマール・スーパーキッド』を放送しました。 英語の上達に加えて、私たちは、彼がダンスのように弓に弦を加えたことを認めました。 この若い歌手はますます、自分自身のエンターテイナーとしての地位を確立しつつありました。

 その間、彼は1975年に3枚のアルバムをリリースしました。1枚はコンサートで録音されたもの、もう1枚は日本語で書かれたもので、L'oiseauUn enfant comme les autresの翻案、そしてクリスマスソングの2枚組ベストアルバムが含まれていました。

 1976年にレコード化され、彼は大ヒットを記録しました。 ABBA アバが大成功を収めた、彼のフランス語版Fernando フェルナンドはヒットし、アルバム『Fernando : Rene a 15 ans フェルナンド:ルネは15歳』の牽引となりました。 英語圏の市場に参入したいという願望の表れとして、彼はそこでフランス語と英語の曲を録音しました。

 

左上:Liberaceリベラーチェとともに、ラスベガスのヒルトン・インターナショナルのステージにて。

右上:1975年、Howard Cosellハワード・コーセルとともにSaturday Night Liveサタデー・ナイト・ライブに出演したことで、Mohammed Aliモハメド・アリと〈話し合う〉機会が得られた。

左下:1977年、Liberaceリベラーチェの楽屋で母親のギャビーと。

右下:CBSネットワークで放送されたMerv Griffin Showマーヴ・グリフィン・ショーの司会者と会話中。

 

AVEC LIBERACE リベラーチェと共に

 英語圏市場でのキャリアを推進することを目的とした特集「 Rene Simard, Superkid ルネ・シマール・ーパーキッド」が的中しました。 彼はLiberace リベラーチェのチームの注目を集め、彼らの傘下に入りました。

 1977 年から、ルネはこの華やかなアメリカ人ピアニストのショーの最初の部分を担当しました。 Liberace リベラーチェ の名前はラスベガスとは切り離せないもので、若いケベック人は、Elvis Presley エルヴィス・プレスリー Frank Sinatra フランク・シナトラ Tom Jones トム・ジョーンズ といった芸能界の大物を定期的に迎えるヒルトン・インターナショナルに同行しました。

 続いてアメリカツアーが行われ、特にアリゾナ州のセレブリティ・シアター・フェニックスに立ち寄り、3月10日から13日まで公演が行われました。ショーを告知するチラシの中で、ルネは次のように説明されていました:「リベラーチェは観客に新しい才能を紹介するのが好きです。 ルネ・シマールはカナダ最大のスターの一人です。 彼の故郷ケベックでは、彼のレコードはすでにBeatles ビートルズ Elvis エルヴィス、その他のフランス系カナダ人アーティストのレコードを合わせたものよりも多く売れています。ルネはすでに自身のアルバムで12枚のゴールド・ディスクを獲得しており、45枚のアルバムでは他に10枚のゴールド・ディスクを獲得しています。彼の評判はカナダから日本、フランスにまで広がっています。」 3月16日現在、ルネは4月11日まで続く新しい一連の公演のためにラスベガスに戻っています。

 その年、まだリベラーチェに在籍していた彼は、フロリダ、アラバマ、インディアナ、オハイオ、ミシシッピのほか、ニューヨーク、フィラデルフィアでも歌いました。 時間が許す限り、彼はケベックに姿を現しました。 この間、彼はロサンゼルスのデュプリー・ダンス・ アカデミーで週に3回のセッションを受け、上達を続けました。

 ジャーナリストのMarie-Suzan Lariveeマリー=スーザン・ラリビーが1977年に行ったインタビューの中で、彼はこの経験について次のように語っていました。「私にとって、強力なショーのためには、グループとして働くことが絶対に必要であり、お互いを理解し、それはチーム全体の協力であることがわかりました。 私にとって、リベラーチェは非常に並外れたプロフェッショナルな男です。 リハーサル中、彼は私をより洗練させ、アンサンブル全体の中で自分をより良く位置づけるために、あらゆる種類のアドバイスをくれました。しかし、将来的には、私自身を一般の人々にもっと提供するために、私には不可能なことをやってみるつもりだとも付け加えておきます。なぜなら、私には学ばなければならないことがたくさんあることを知っているからです...私たちはどんな年齢でも、毎日学んでいます。」

 そして、それは学習の問題であるため、この間、ルネはモントリオールのCollège des Eudistesユーディスト大学に登録されていました。ロサンゼルスにある彼のアパートには、週に一度、宿題が送られてきました。

 

 次回はINTERNATIONAL 国際的」の後編です。

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