ミドリ色の屋根は永遠に~René Simardに首ったけ~

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ルネ・シマールがリベラーチェと歌う

2025年03月29日 | ルネ・シマール

 今から42年前の1983年3月27日に、第12回東京音楽祭世界大会日本武道館で開催されました。ルネと妹ナタリー・シマールがプレゼンターとして招かれ、1975年の4回目の来日以降、ずっとルネの再来日を熱望していたファンにとって、9年ぶりに成長したルネを見ることが出来る、またとないチャンスでした!

 そして今回は、ルネと妻マリー=ジョゼの昨年11月の日本旅行について書かれた記事の後編の最後にルネ・シマールのキャリアにおけるもう一つの特別な瞬間が 66 ページで紹介されています。」と書かれていたページの紹介です

 

 

50 ANS APRES SON TRIOMPHE À TOKYO 東京での勝利から50年

RENÉ SIMARD RETOURNE AU JAPON

ルネ・シマールが日本に戻る

 

左:ルネ・シマールと妹のナタリー、リベラーチェ、そして母親のギャビー。

 右:1977年、リベラーチェの楽屋にて母親と一緒に。

 

SOUVENIRS 思い出

JANVIER 1977 1977年1月

RENÉ SIMARD CHANTE AVEC LIBERACE

ルネ・シマールがリベラーチェと歌う

 1977 年はルネ・シマールにとって華々しいスタートを切りました。東京音楽祭世界大会(1974年)でグランプリを受賞した後、数々のトークショーに出演してアメリカでも注目を集め、その成功によりリベラーチェ Liberaceのチームに加わりました。

 彼は夜な夜な、ラスベガス・ヒルトンのステージで、他でもない、国際的に名声を誇るこの偉大なピアニストと共演しました。

 第1部では、まだ16歳にもならない若い歌手が、エルヴィス・プレスリー Elvis Preslyトム・ジョーンズ Tom Jonesフランク・シナトラ Frank Sinatraを迎えたこのステージで歌いました。公会堂は毎回満員で、ルネも満足でした! これに続いてアメリカ・ツアーが行われ、アリゾナ、フロリダ、アラバマ、インディアナ、オハイオ、ミシシッピ、ニューヨーク、フィラデルフィアを訪問しました。

 ショーを発表するプレス・リリースでは、ルネについて次のように説明されています。

リベラーチェは観客に新しい才能を紹介することを楽しんでいます。」ルネ・シマールはカナダ最大のスターの一人です。彼の生まれ故郷であるケベック州では、彼のレコードの売り上げはすでにビートルズやエルビス、その他のどのフランス系カナダ人アーティストのレコードも合わせた売り上げを上回っていました。ルネはすでにアルバムで12枚のゴールドレコードを獲得しており、シングル(45回転)レコードでも10枚のゴールドレコードを獲得しています。その評判はカナダから日本、フランスまで広がっています。

 1977年にジャーナリストのマリー=スザン・ラリヴェMarie-Suzan Lariveeが行ったインタビューで、彼はこの経験について次のように語っています。私にとって、リベラーチェは非常に並外れたプロフェッショナルな人物です。リハーサル中、彼は私をより洗練させ、より良いポジションに立てるよう、あらゆるアドバイスをくれました。今後は、学ぶべきことがたくさんあるとわかっているので、一般の人々にさらに多くのことを提供できるように最善を尽くします...」

 

▲左上:リベラーチェ Liberaceのステージのルネ  ▲▼リベラーチェ

▲1983年に出版されたバシャン姉妹の本「 RENE ET NATHALIE SIMARD LES ENFANTS CHERIS DU SHOW-BIZZ 100 PHOTOS 」より(現在eBayに出品されています 購入希望の方はお早めに♪)

 

ルネとリベラーチェ については過去ログで紹介していますので、そちらの記事もお読みいただければ幸いです

 

 3月も明後日で終わり、来週火曜日の4月1日から、いよいよ新年度が始まります。先週の暑さのため、関東地方でも各地で桜の開花が連日報じられていますが、今日から冬の寒さに逆戻り★ ルネ友のみなさまも、体調には十分に気を付けながら、気持ちを切り替えて新年度を迎えましょう!

 そして、次回は何の記事を紹介しようか悩んでいたのですが、冒頭で書きました「第12回東京音楽祭世界大会」について取り上げた、ルネとナタリーのファン・クラブ会誌を紹介したいと思います(^^♪

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ルネの日本旅行:後編

2025年03月23日 | ルネ・シマール

 現在「桜前線」が北上中 そして今日は春のお彼岸明けです。

 「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、お彼岸の入りに関東地方でも雪が降りました。来週は初夏の気温の予報。昨日に車の半年点検とタイヤ交換を予約していたシマ姉家は、例年にない春の雪にひやひやしていました。また、車での移動中に周りを見るとスギの花が咲いて赤茶色の上、さらに今日は黄砂が飛ぶという予報です。インフルエンザやコロナの流行は落ち着いて来ているけれど、外出の際は上手にマスクを着用したいものです。

 

 そして去る3月18日(火)には、ルネがファンからのお誕生日メッセージへの感謝の言葉がFacebookの公式ページに投稿されました メッセージの中で、ルネは、年齢を重ねるごとに誕生日を祝う気持ちが減ると語っていますが、今年のルネの誕生日の投稿に寄せられた膨大なお祝いメッセージに、ルネもきっと、今年の活動への意欲と勇気が湧いたことでしょう(^^♪ Facebookのルネの投稿は次のとおりです。

 

あなたの誕生日のお祝いに心から感謝いたします。本当に感動しました。
年をとるにつれて、時間が恐ろしい速さで過ぎていくことを思い出すので、祝う気持ちが減ります。😉
私を健康に保ってくれた命に感謝しています。それが私自身とあなたに対する私の願いのすべてです。
素晴らしい春の始まりをお祈りいたします!
ルネ❤️
 
 

 さらに、舞台劇「Le dîner de cons 奇人たちの晩餐会の人気は高まり続け、その大成功により、今年の新しいツアー・スケジュールが発表されました! 追加公演は、メゾヌーヴ劇場(プレイス・デ・ザール)Théâtre Maisonneuve | Place des Artsで10月10日(金)、11日(土)、12日(日)に開催されます

 
 
 そして今回は、ルネと妻マリー=ジョゼの昨年11月の日本旅行について書かれた記事の後編として紹介いたします

 

50 ANS APRES SON TRIOMPHE À TOKYO 東京での勝利から50年

RENÉ SIMARD

RETOURNE AU JAPON

ルネ・シマールが日本に戻る

 

 

UN GAGNANT…QUI S’IGNORE! 勝者…誰が気づいていないのか!

 第3回東京音楽祭世界大会は6月に開催されました。 25カ国からの代表者が集まり、競い合いました。彼らは全員大人でした。ルネを除いて。

 アジアでは、6月30日に帝国劇場で開催される最終決戦は、推定1億300万人の視聴者が視聴すると予想されていました。ルネは「ミドリ色の屋根」を歌いました。受賞者はフランク・シナトラ  Frank Sinatra を含む12人の審査員によって決定されました。

 コンテストの最後に、司会者が優勝者の名前を発表しました。「ルネ・シマール!」この発表にも、ティーンエイジャーは動じません。彼は動揺さえしていません。むしろ、アクセントのせいで、自分の名前が発音されたことを理解していなかったのです。彼が勝利を悟るや否や、シナトラは彼を抱きしめ優勝カップを手渡し、彼の涙をとらえました。ルネは幸せでしたが、彼の一番の願いはできるだけ早く両親のもとへ帰ることでした。

 一等賞の賞金は11,000ドルです。彼はまた、フランク・シナトラ 自身が制定した最初のトロフィーも受け取り、ルネに直接手渡しました。今回もまた、ルネは涙を流し、この大きな課題に直面して彼にのしかかっていたプレッシャーを解き放ちました。

 勝利後、ケベック州首相ロベール・ブラッサ Robert Bourassa は彼に次のような電報を送りました。「あなたの早熟な才能が日本で認められたことを心からお祝い申し上げます。ケベック州民の皆さんは、今日、自分たちの仲間がこの素晴らしいトロフィーを獲得したことをとても喜んでいると思います。 […] 皆さんの今後のご活躍をお祈りします。」

 

▲左上:ドルヴァルに戻ると、彼は大勢のメディアに迎えられました。彼の前にしゃがみ込んでいるのはエコ・ヴェデットのカメラマン、ジャック・グレゴリオで、最前列にいました 左下:ここに足を踏み入れるや否や、勝利を収めました。

 右上:父親同伴での記者会見にて 右下:帰国後両親のジャン=ロックとギャビーに囲まれて

 

PORTE EN TRIOMPHE 勝利を運ぶ

 勝利の翌日、ルネと彼の家族、そして側近たちはCBSジャパンの社長に迎えられました。その後すぐに、彼は大勢のジャーナリストやカメラマンの前で大規模な記者会見を行う予定です。ルネ・シマールの名は全ての国に広まっていました。

 7月15日、この天才児はアジアでの3週間の滞在を終えて帰国しました。彼の飛行機はドルバル国際空港に着陸し、そこで大勢の群衆が彼を迎えました。この作戦は大成功に終わり、カナダ王立騎馬警察の警官たちは圧倒されました。

 その後、33回転レコード『Ma petite japonaise』が発売されました。そして、1975 年1 月1 日、ラジオ・カナダ・テレビは、ルネ・シマールに同行していたローラン・ラルーシュ Laurent Larouche 監督による東京音楽祭でのルネ・シマールの様子を放送し、視聴者に新年の挨拶をしました。これは、オルレアン島の子供のあり得ない叙事詩を記録するのに役立ちました。そして物語はまだ始まったばかりでした。

 

▲:「Ma petite Japonaise」は、1974 年の太陽が沈む前にレコード店に並びました。

ルネ・シマールのキャリアにおけるもう一つの特別な瞬間が 66 ページで紹介されています。

 

 「ルネの日本旅行」の前編と中編に、「いいね」「応援」「続き希望」「役立った」を押してくださった「みゆきな日々」のmamazones様、「三代目日記」のmarusan_slate様、ありがとうございました 後編はお楽しみいただけましたでしょうか? これからも「ルネ活」記事を頑張って書き続けますので、今後ともよろしくお願いいたします 

 今回で「ルネの日本旅行」の記事は完了いたしますが、上記のとおり、記事の最後に、この雑誌の66ページにもルネの記事が掲載されているという記述「ルネ・シマールのキャリアにおけるもう一つの特別な瞬間」が有ります。次回はその記事を紹介いたします(^^♪

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ルネの日本旅行:中編

2025年03月15日 | ルネ・シマール

 今日はやんばるQさんとプチ・オフ会という名のおしゃべり会(笑)で出かけています(^^♪

 facebookルネ・ファン・グループ「Condor, c'est toi:pour René Simard には今日の分の投稿は済ませてありますが、コメントへのお返事は帰宅後です。

 そして今回は、ルネと妻マリー=ジョゼの昨年11月の日本旅行について書かれた記事の中編として紹介いたします

 

 

50 ANS APRES SON TRIOMPHE À TOKYO 東京での勝利から50年

RENÉ SIMARD

RETOURNE AU JAPON

ルネ・シマールが日本に戻る

 

 

JOUNDRE L’UTILE A L’AGREABLE ビジネスと楽しみの融合

 ルネは過去50年間に何度もこの国を訪問する機会があったにもかかわらず、これまで一度もこのような旅行をしたことがありませんでした。「スケジュールがいつも変更になりすぎたため、私は日本をこのように見たことがありませんでした。私は北から南までツアーをしましたが、それはいつも非常に緊張したものでした。テレビ、ラジオ… それは決して終わることがありませんでした。そこで私たちはビジネスと楽しみを両立させるように組織化し、本当にすべての瞬間を愛しました。

 この旅行は当初、デジタル プラットフォームを活性化することを目的としていました。「私のカタログ全体は3年間利用可能でした。私は彼らに思い出させたかったのです。私もこの機会を利用して、すべてがどのように解明されていくのかを見てきました。ここで、何かをオンラインに公開すると、国境はなくなることがわかります。」 ルネの予想通り、彼には定期的に彼の活動をフォローしている 2500 人のファンがいます。「かわいいと思います。彼らは本当に忠実な人々です。

 しかし、この目標はすぐにルネとマリー・ジョゼが楽しい時間を過ごすための口実となりました。「基本的に、私たちは旅行が大好きです。私たちは日本中を見て回り、歩き回り… 体重が少し減りました! 他の場所で何が起こっているかを知るのは良いことです。また、自分の国をより深く理解し、何を改善できるかを知ることもできます。

 

左:「旅の途中、私はマリーを、1970年代にいつも私と一緒にいた通訳の道上雄峰さんに紹介するという素晴らしい機会に恵まれました。私は彼を『私の日本の兄弟』と呼んでいます。彼は私に彼の妻と3人のお子様を紹介してくださいました。本当に温かい会でした。また、長年の友人である陽子とオリヴィエ・ウルバンにも会いました。彼らはこの旅の大半を私たちと過ごしました。この3人のおかげで、私たちの旅行は大いに充実しました。お礼を申し上げます。」この友人夫婦は2年に1度、ケベックのルネとマリー=ジョゼを訪ねてきます。

 右:福岡市長の高島宗一郎氏と。 「廊下に入ると20人もの人が待っていたので、特別でした。私たちが歩いている間、彼らはマリーと私に拍手を送ってくれました。本当に楽しかったです!私たちは仕事と訪問を組み合わせました。」

 

左:「京都は美しい街​​です。絶対に私に会いたいと思っていたファンがいました。彼女は長年私をフォローしていて、彼女は私に会えて本当に幸せでした。」

 右:神戸ステーキの前にいるカップルは… 神戸で! 「日本では食べ物が美味しいです! マリーはビックリしました。」

 

左:コンクールのステージの1つでパフォーマンスを披露しました。

 右:ルネは、シナトラの名前を付けたフランク・シナトラ賞のトロフィーを受け取りました。

 

À 13 ans, au pays du Soleil levant 13歳、日出ずる国で

L'IMPROBABLE ÉPOPÉE D’UN GAMIN

        DE L’ILE D’ORLÉANS

オルレアン島の子供のありえない叙事詩

 ルネ・シマールと日本とのラブストーリーは、彼がまだ13歳だった1974年の夏に始まりました。このエピソードを目撃した人は皆それを覚えている。ケベックショービジネスの歴史におけるこの黄金のページを一緒に追体験しましょう。

 当時、ルネ・シマールは私たちの間ではすでにスーパースターでした。 1971年、彼がまだ10歳だった時、歌「L'oiseau 鳥」によって一夜にして子役スターになりました。オルレアン島に住む質素な家庭出身の、才能豊かで優しいこの少年は、誰からも好かれていました。彼はラジオでもテレビでも必見でした。彼が出演した「p’tits poudings Laura Secord  ローラ・スコールのプティ・プディング」の広告は、まさに大ヒットとなりました。そして、これらを通じて私たちは彼の兄レジスと妹ナタリーのことを知るのです。

※過去ログ「ルネのプリンのCM 」参照

 ルネにとって、すべてが急速に進んでいました。 1972年、彼はすでに Denis Heroux ドゥニ・エルー監督のセミ・ドキュメンタリー映画『Un Enfant Comme Les Autres 普通の子供』の中心人物であり、そのタイトル曲は大成功を収めました。同年、彼はガラ・デ・アーティスト賞で「Decouverte de l’annee 今年の発見」と「Phenomene de l’annee 今年の現象」の2つのトロフィーを獲得した。彼はまた、LP『Ave Maria アヴェ・マリア』の驚異的な売上により、RPMゴールド・リーフ賞を受賞しました。 1973年、彼はペースを維持し、『Pascale パスカル』、『Rene Simard et Les Disciples de Massenet a l'eglise Notre-Dame ルネ・シマールとノートルダム教会でのマスネの弟子たち』など2枚の33回転レコードを録音しました。

 思春期の入り口にいる彼は、親しみを込めて「le p’tit Simard 小さなシマール」と呼ばれ、人気絶頂期にありました。ケベックでは、彼はもう何も証明する必要はありませんでした。しかし、この惑星は広大です! 1974年、少年は夢にも思わなかった素晴らしい冒険を経験するよう招かれました。ルネ・シマールは間もなく東京音楽祭世界大会の一環として日本で歌うことになるのでした。

 5月にはCBSレーベルの日本人代表がケベックに滞在し、日本語の音声的な歌い方や一般的な丁寧な言い回しを教えました。この練習は、ルネが音楽祭前にそこでリリースされる45回転レコード「ミドリ色の屋根(Non Ne Pleure Pas 泣かないで)」を録音しなければならないので、なおさら重要でした。通訳と一緒に過ごした4日間、彼は宿題を熱心にこなしました。その後、音楽祭のカナダ代表の若者は、両親と仲の良い兄のレジスとともに地球の反対側へと飛び立ちました。

 飛行機が東京に着陸した瞬間に、ルネとその家族が経験するカルチャーショックは容易に想像できます。 「何が起こるか分かりませんでした。私にとっては、それはアリババの洞窟でした。私が最初に感銘を受けたのは人々の優しさと礼儀正しさでした。」と彼は後にインタビューで打ち明けました。彼は面白がってこう回想しました。「そこで私は初めて寿司と出会ったのです。食べる気もなかったよ! そこでケンタッキーフライドチキンを食べました。

 

 

 

 左上の画像は、2回目の来日の際、ルネが旺文社の『中一時代』編集部を訪問した時のものですが、大好きなケンタッキー・フライドチキンをご馳走になっているところです。当時の通訳だった道上雄峯氏が「スーパー・アイドル ルネ」の『完全スケジュール同行記』の中で書かれていた通り、ルネはTV局で出されるロケ弁が食べられず、ケンタッキー・フライドチキンを持参していました。それを知った編集長が手配してくれたのでしょうね。

 また、ルネが初めてお寿司と出会ったのは、今は店じまいしてしまった鎌倉の『大海老』ではないかと思います。ルネの日本での活躍を記録したドキュメンタリー映画『René Simard au Japon』ではその時の様子が記録されていました。ルネが緑茶にミルクと砂糖を入れようとして止められ、緑茶の渋さに思わず吐き出しそうになったというエピソードがあります。2度目の来日では「日本茶の味が忘れなれないよ」という記事も有り、休日に訪れた京都で五色豆を気に入ったと書かれた記事が有ったため、ルネに「GOLDENBEST limited ルネシマール」を送った際(ジゼルさん経由)、五色豆も一緒に送りました(^^♪

 

左と中央:ホテル・エンパイアのレストランでルネがオーダーしたのはステーキ 右:鎌倉の明月院の茶店では美味しそうに何を食べたのかしら?

左:1974年6月26日、日本航空005便で羽田空港に到着したルネ一行 右:彼らを歓迎する東京音楽祭関係者たち。

 

 記事では兄レジスも同行しているような書かれ方をしています。しかし、この時同行したのは、ルネの父、亡きジャン=ロック・シマール氏、ギー・クルティエ氏、ルネ・アンジェリル氏、クローディーヌ・バシャンさんとクリスチャン・ルフォール氏でした。

 また、今回の記事の最初の方で書かれていましたが、以前紹介したインタビューで、ルネが「日本には2500人のファンがいる」と言っていたのは、ルネが開設したFacebookの公式ページやInstagram、音楽サイトRené Simard 日本人フォロワーの数のようです。

 Facebookの公式ページが開設されたおかげで、ルネの情報やメッセージをリアルタイムで受信することが出来、さらにメッセンジャーでルネに直接メッセージが送れるようになったことは、日本のファンにとって願ってもないことでした(^^♪ 3年前の開設当初からでは、ルネの投稿は減ったけれど、日本のファンがインターネットを通して、今でもルネをフォローしていることを、ルネが知ることが出来て嬉しく思いました

 当ブログは今年の6月10日で開設20周年を迎えます ずっとルネ活していて良かった~! これからも「かわいくて忠実な日本のファン(笑)」として、益々ルネ活に精を出していきますよ~(^^♪

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ルネの日本旅行:前編

2025年03月09日 | ルネ・シマール

 

 今日はルネの兄レジス・シマールの65歳の誕生日です facebookのルネ・ファン・グループ「Condor, c'est toi : pour René Simard」にも、このレジスへのメッセージを投稿しました(^^♪

 2月28日のルネの誕生日には、ルネ自身の公式ページ"René Simard ”の記事や、ファン・グループにたくさんのお祝いメッセージが寄せられました 数日過ぎてからもコメントが投稿され、ルネとレジスに直接メッセンジャーで送ったお祝いメッセージには既読が付き、レジスからはお礼のメッセージもいただきましたよ

 

 3月に入り、三寒四温を繰り返しながら春が近づいてまいりました。ここに来て関東地方の平野部にも3月4日と5日に雪が降り、寒波で開花が遅れていた梅や早咲きの河津桜に雪が積もっている様は風情が有りました。

 「三寒四温」は本来は冬の季語として用いられ、冬の終わりから春にかけて、寒い日が3日ほど続くと、その後4日くらいは暖かい日が続くことを意味します。日本は冬よりも春にそれが起こりやすいため、2月の末から3月にかけて使われるようになったそうです。

 今年の桜の開花は、3月20日福岡と高知からスタートする見込みです。 東京では22日に、名古屋では23日に、大阪では25日に開花し、3月末までに九州から北陸にかけての広い範囲で開花する予報だそうです。

 ルネは1975年3月19日から4月12日まで、「君のすべてがほしい」のプロモーションと全国縦断スプリング・コンサート、「ルネ・オン・メロディー」公開の劇場あいさつ廻りのために4度目の来日をしました。きっとこの時に日本の桜を目にする機会も有ったのではないでしょうか。(※ルネの4回目の来日についてはカテゴリ「4回目の来日でご覧ください。

 できれば暖かくなり雪の心配がなくなったこの季節に、娘ロザリーと恋人のガブリエルも一緒に日本旅行を楽しんで欲しかったのですが、昨年11月の旅行では、カナダの紅葉とは趣の違う、日本の紅葉を満喫していただけていたら嬉しいですね(^^♪

・・・という訳で、今回は過去ログで予告していたとおり、ルネと妻マリー=ジョゼの昨年11月の日本旅行について書かれた記事を3回に分け、その前編を紹介いたします

 

 

50 ANS APRES SON TRIOMPHE À TOKYO 東京での勝利から50年

RENÉ SIMARD

RETOURNE AU JAPON

ルネ・シマールが日本に戻る

 

左:水上に浮かぶ厳島神社と赤い鳥居。 「彼らの信仰によれば、赤は悪霊や災害を遠ざける色です。」 右中央:金沢城の前で

 

Un premiere sejour pour Marie-Josee マリージョゼの初めての滞在

ENTRE RENÉ SIMARD ET LE JAPON:

50 ANS DE LOYAUTÉ ET DE RESPECT

ルネ・シマールと日本:50年にわたる忠誠と尊敬

 ルネ・シマールは、1974年以来10年間に渡り定期的に日本を訪れ、昨年末に3週間を過ごしました。一方、マリー=ジョゼ・タイユフェにとっても初めての経験で、彼女もその控えめな魅力に魅了されてしまいました。ルネと日の出ずる国との間の物語は、愛、尊敬、そして忠誠の物語です。

                    ジャン=フランソワ・ブラサール

 

左:「この夕焼けの写真は修正されていません」とルネは注意深く指摘しました。この美しさは、国内南部の北九州県小倉で撮影されました。

 右:マリージョゼは広島湾の聖地、宮島で休憩を取っています。

左:姫路城の前で。右:「1974年の私の初来日の50周年を記念したいと考えていた数人の政治家とお会いする機会に恵まれました。」

 

 1974年以降、ルネ・シマールは定期的に日本を訪れました(別のレポートをご覧ください)。 「20代までは、年に2、3回の旅行で、30回くらいそこへ行きました。良い思い出しかありません。彼らはとても親切で寛大な人々です。彼(日本人)があなたを養子に迎えたら、それは一生の付き合いになります。

 しかし、彼がそこを訪れたのは約20年前のことであり、最後の訪問はエルヴィス・ストーリー・ショーの顧問としてでした。彼は微笑みながら思い出します。「面白かったのは、日本人がエルヴィスの格好をしていたことです。」彼らはこのアーティストの大ファンであり、彼に魅了されていました。

 一方、マリー=ジョゼ・タイユフェは洗礼のすべての瞬間を楽しみました。「彼女が感じた最大の衝撃は、この人々に対して示された敬意でした。到着するとすぐに、これらの人々がどの程度まで自分自身を管理し、摩擦が起こらないようにするかを学んでいるかがわかります。すべては敬意を持って行われます。」 この特徴は日常生活のあらゆる分野で明らかです。彼は次のように説明しています。「若い女の子は世界を追いかけ髪を染めますが、常に他人を尊重します。

 夫婦が驚いたのは、どんな状況でもその場所が清潔だったことでした。「そこには公共のゴミ箱がありません。朝コーヒーを飲む人は皆、コーヒーを置く場所に入るまでコーヒーを持ち歩いています。あらゆる場所を清潔に保つのに役立ちます。

 こうした不変の精神から、彼はこう言います。「私たちは豊かさの中で暮らしており、それに感謝しなければなりません。ここは広大で美しい場所です。私たちはもっと大切にし、お互いに助け合う必要があります。日本に行くと、それが当たり前のことなので、これらすべてを理解できます。

 

 

 今回紹介した中で「Jusque dans ma vingtaine, j’y suis alle une trentaine de fois, a coups de deux ou trois voyages par annee. (20代までは、年に2、3回の旅行で、30回くらいそこへ行きました。)」という文章が有るのですが、ルネが10代で来日したのは1974年に2回と1975に2回の計4回。その後は22歳の時、1983年3月に第12回東京音楽祭のプレゼンターとして、日本デビューする妹ナタリー・シマールと一緒に来日しました。「30くらい(une trentaine de fois)」というのは、もしかすると記者の書き間違いで、日本の都市30か所に行ったということなのかもしれません。

 また、ルネは日本を紹介するとき、「Japon 日本」ではなく、「le pays du soleil levant 日の出ずる国」という表現を使います。これは「日本の美称」とされ、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という聖徳太子の言葉とされる有名な一節から来ています。それにより、ルネが今でも日本を大切に思っていること、この記事からは、日本人の礼儀正しさや誠実さ、清潔に保たれた公共の場について、日本人が当たり前と思っていることに敬意を表してくれていることが分かって、とても嬉しく、大変光栄に思いました(^^♪

 次回、中編で「日本に2500人のファンがいる」の謎が解けますよ! お楽しみにね(^^♪

 

 

<注意!>

 最後に話は全く変わりますが、先日シマ姉家のNTTの固定電話に、「18247625788」という番号から電話がかかりました。もちろん受話器はとらず、ネットで番号を検索してみたら、「中華人民共和国 内蒙古省赤峰市(中国内モンゴル自治区東南部の都市)」から発信されたものでした★

 ミャンマー東部の国境付近で中国人などによる詐欺犯罪組織の一大拠点が摘発され、日本人高校生2人が保護されたニュースはまだ記憶に新しいですが、次はモンゴルから直接電話をするような詐欺も出現したのか?・・・と、今まで以上に着信電話には注意が必要だということを再認識しました。電話には「はい、〇〇でございます。」と出るのが常識だった昭和生まれの私は、電話番号をきちんと覚えていない親類、知人からの電話に、警戒して「はい」のみで出てしまって失礼を詫びる日々です。

 映画「スマホを落としただけなのに」を観て以来、意地でも「4Gガラホ」を持ち続けているシマ姉です(笑)。私は「ガラホ」はメールと通話のみ。外出時にインターネットを使いたいときには iPadを携帯し、家ではデスクトップ・パソコンなのに、「身代金要求メール」がガラホに定期的に(?)入ります。この間は受信BOXに「迷惑メール-ドコモ用」なるフォルダが出現し、以前のものとほとんど同じ文章の「身代金要求メール」が入っていました★ ちなみに、「カナダ旅行をする時に備えて、それまでにスマホに買い替えるべきなのかしら?」とオフ会で話題にしたら、海外旅行にはスマホをレンタルすればいいとアドバイスをいただきました(^^♪ 

 パソコンに「トロイの木馬に感染しました」偽警告が出た時のことは過去ログで報告しました。犯罪組織の魔の手がどこに潜んでいるか分からないご時世ですので、ルネ友のみなさまも、特殊詐欺の種類や手口、その対処法について日頃から情報を収集して、いざという時に備えてくださいね!

 そして来週3月11日は、東日本大震災の発生から14年になり、各地で追悼行事が行われることと思います。昨年の元日に起きた能登半島地震 、岩手県大船渡市の山林火災、今季の大雪による被害、そして南海トラフ地震をはじめとする今後予想される大地震など、私たちは過去の災害の記憶を風化させず、その教訓を生かして、日頃からの備えを怠らないようにしていかなければなりません。3月11日は防災について考え、防災グッズの点検や避難場所の確認など、家族で話し合う機会にしたいと思います。

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Bonne Fête René 2025!

2025年02月28日 | ルネ・シマール

Cher René,

Joyeux anniversaire de naissance à vous !

Avec tous mes voeux pour une 64e année heureuse

et enrichissante.

Nous vous souhaitons bonne chance pour la suite de

votre carriere.

親愛なるルネ

お誕生日おめでとうございます!
あなたの64年目の人生が、幸せにして実り豊かなものでありますように。
あなたの今後のご活躍をお祈り申しあげます。

 

 

 今日はルネの64歳のお誕生日

 もちろんfacebookルネ・ファン・グループ「Condor, c'est toi : pour René Simard ルネの公式ページ"René Simard ”にメッセージを送りましたよ(^^♪

 そして今回は、ルネのお誕生日の記事の画像をまとめてみましたのでご覧ください。

 

▲モントリオールのバナヴァンテュール・ホテルで行われたルネの18歳の誕生日パーティーで 

▲ルネの28歳の誕生日を祝う「LAZER33-45」のスタッフと一緒に

▲1989年、ルネ28歳の誕生日を新婚1年と半年の妻マリー=ジョゼと一緒に

 

 次回からは「ルネの日本旅行」の記事を3回に分け、前・中・後編で紹介いたします(^^♪

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