浩介の様子が変だ。
確実に変だと思ったのは、12月。何か隠し事をされている、という気がした時だ。それから数日後、親から探偵を使って監視されている、という話も聞いたけれど……。でも、もっと前から変だった気もする。
「慶………」
でも、こうして優しく名前を呼んでくれて、ぎゅっと抱きしめてくれるところは、前と少しも変わりがない。だから、ついつい、「変だと思うのは気のせいか」と思って、問題を先送りにしてしまっていた。でも、いい加減、騙されない。騙されないぞ。
別にイベント事にこだわるつもりはないけれど、来週のバレンタインをこんなモヤモヤした気持ちのまま迎えたくない。
「なあ、お前さ……、やっぱなんか変だよな?」
「そう?」
愛おしそうに目を細めて、おれの頭を撫でてくれて、額や頬や耳にキスをくれる。愛されている、と思えて気持ちがフワフワしてくる。
……じゃなくて。
また誤魔化されるところだった。
「隠し事、してるだろ?」
「どうして?」
「どうしてって、なんか……んんっ」
キスを深いものにしながら、セーターの裾をまくりあげてきて、「はい、万歳して」と耳元で甘やかすように言って脱がしてくれて……
「やっぱり、ベッド行こっか?」
首筋に長めに唇を当ててくれてから、おれをソファから引っ張り起こして、それから、電気を……
あ。
そうだ。電気。
思いついて、バシバシバシっと浩介腕を叩いて、電気を消すのを止めてやる。
「そうだよ!それもだよ!」
「え、何……」
「電気!」
「………え」
明らかに、浩介の顔が固まった。やっぱり!
「お前、ここのところずっと、必ず電気消してるよな? なんでだよ?」
「なんでって……」
浩介の困ったような、怯えたような顔……
「…………………………まさか」
嫌な想像が頭の中をよぎる。
まさか、まさか、まさか………
「お前……ホントに、浮気……してる?」
『オレたちゃ忙しすぎるからな。浮気されても文句はいえねえ』
そう言った峰先生の真面目な顔が思い出される。
文句はいえねえって……
言わないでそのままにするなんて……おれにはできないっ!
「え?」
呆気に取られたような顔をした浩介に、衝動的に掴みかかる。
「おれに見せられないような痕が付いてるから、電気消してんのか?」
「なに……それ」
そんなことあるわけないでしょ、とゴニョゴニョといいつつも、視線をそらした浩介。
「なに、目、そらしてんだよ?」
掴んだ胸倉をさらに強く引っ張る。
目を合わせない、ということは、何か隠し事をしているということ。これも峰先生が言っていた。
何を隠してる? 何隠してんだよ……?
切迫した空気の中……
「慶……」
浩介がふううっと大きく息をついた。大きな大きなため息……
「浩……」
「違うから」
コン、とおでこをくっつけられる。じっと至近距離で覗き込んでくる瞳……
「違うって何が」
「おれが慶以外の人と何かするなんてありえないってこと、慶が一番よく知ってるでしょ?」
「……………」
そういう言い方は……ズルイ。
「じゃあ、どうして……」
「………」
浩介はまた大きくため息をつくと……、観念したようにセーターを自分で脱いだ。そして、Yシャツのボタンを自分で外しながら、ポツリ、という。
「慶……修学旅行のこと覚えてる?」
「え……?」
修学旅行? 高2の3月。行き先は広島、山口……
「松陰先生?」
「…………ああ、そうだね」
ふっと寂しそうに笑った浩介。本当に、寂しそうに……
「班行動も楽しかったね」
「? ああ」
なんだろう? 何に繋がるんだ?……
浩介は淡々と話を続ける。
「あの時、お風呂で話したこと、覚えてる? ……覚えてないか。あの……アザの話、なんだけど……」
「…………」
背中のアザの話だ。子供の頃、母親に叩かれ続けたために出来たというアザ……。でも、本人が言うほどのアザなんてどこにも存在していなくて……。あの時の浩介の泣きそうな顔を思い出すと辛くなってくる。
「…………。覚えてるけど、それがなんだよ」
「うん。あのね……」
浩介は脱いだYシャツをソファに置いてこちらを向き直った。
「ほとんど消えたって思ってたのに、最近また濃くなってきてるんだよ」
「え………」
少しの迷いのあと、下着のシャツに手をかけた浩介……。
「ぶつけたりした覚えはないから、きっと、心因性のものだと思うんだ」
「心因性?」
「うん。前に本で読んだことあって……。ストレスとかから自分でアザとか作り出しちゃうって……、あ、慶は本職だからそういうの詳しいよね」
「いや、詳しくは……」
正直、専門外だから概要的なことしか分からない。でも……
「なんだよ。それ見られたくなくて電気消してたってことか?」
「うん……気持ち悪いとか思われたら嫌だなって……」
浩介は小さく言ってうつむいた。
「そんなこと思うわけないだろ」
ああ……おれ、そんなに信用ないのか……
落ち込みそうになるのをこらえて、浩介を促す。
「とりあえず、見せてみろ」
「でも」
「いいから。大丈夫だから」
「………………」
浩介は意を決したように下着のシャツを脱ぎ……そして、こちらに背を向けた。
その、広い背中を見て………
「……………!!」
息を飲みそうになったのを、なんとか誤魔化す。
だって……だって、浩介………
その背中にそっと触れ、おでこをコツンとくっつける。
だって……浩介……
ぎゅうっと後ろから抱きしめる。
だって、浩介……。
やっぱり、お前の背中にアザなんて………どこにもないぞ?
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お読みくださりありがとうございました!
長くなるので切ることにしました。読みが甘いのはいつものことでm(__)m
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***
とりあえず『一発抜いて』(結局、早々に手で抜きあって終わりにした。本番はご飯を食べてから、だそうだ)から、鍋が食べたいという慶のために、いそいで鶏鍋を作った。
「ほんと、お前料理上手だよなあ」
盗聴器の存在を意識して小さな声で言いながら、慶がガツガツと食べてくれる。いつもながら見ていて気持ちのいい食べっぷりだ。
「いいなあ。お前は何でもできて」
「何言ってんの」
ビックリしてしまう。何でもできるのは慶の方だ。そう言うと、慶も「何言ってんだ」と言ってブツブツ続けた。
「飯作るのも上手いし、勉強教えるのも上手だし……」
「………」
今日の校長とのやり取りを思い出してゾワゾワしてしまう。こんな教師、いくらでもいる………
でも、慶が言いはじめたのは、慶の病院に入院しているゆみこちゃんのことだ。今、おれが時々勉強を教えている5年生の女の子。
「ゆみこちゃんのお母さんが驚いてたぞ? 今までバツばっかりだった問題集にマルがつきはじめてるって」
「そう……」
「入院したおかげで成績があがるなら、病気になって良かったね、なんて親子で呑気なこと話してるよ」
「そっか……」
良かった。少しでも役に立てたならこんなに嬉しいことはない。
「ゆみこちゃんも春休みには退院だからな。退院は嬉しいけど、お前が病院に来なくなるのは寂しいなー」
慶は、小皿に肉と野菜をバランス良く取りながら、何でもないことのように言葉を続けた。
「おれ、やっぱお前が先生してるとこ見るの好きだからさ」
え………? 好き……?
聞きなれない言葉にポカンとしてしまう。
「え……そうなの?」
「そうだぞ?」
こっくりとうなずいた慶。
「だからボランティア教室遊びに行ってたんだし」
「え…………」
初耳だ。
確かに、慶は時々、ボランティア教室のイベントとかにきて、おれと子供達が一緒にいるところを、優しい目をしながら見てくれていた。ずっと『慶は小児科医を目指してるくらいだから、子供好きなんだな』と思っていたけれど……、本当は、おれの先生姿を見にきてくれてたってこと……?
「先生してる時のお前ってさ、優しいのに頼りがいあって……包容力っていうのかなあ」
慶は思い出すように、ふっと視線を宙に移した。
「おれ、お前に勉強教えてもらうのも、好きだったなあ……」
「…………」
慶には、高校生と浪人生の時に勉強を教えていて、大学生になっても英語は時々みていた。思い出す。慶と一緒に勉強した日々……
「やっぱ、お前、先生になって大正解だよな」
「え………」
にっと笑ってくれた慶。綺麗な瞳がこちらをまっすぐ見つめてくれる。
「浩介先生。いいよな」
「…………」
「なんかな、そういうお前見てると、おれも頑張ろうって思えてくる」
「…………」
「まだまだつまずいてばっかだけど……頑張ろうと思う」
「慶………」
慶が好きになってくれたおれ……
慶が見ているおれ……
本当のおれは、卑屈で後ろ向きで独占欲の塊でどうしようもなく醜くて。おれは、そんな自分のことが大嫌いだけれども、でも、慶の中にいる「浩介」のことだけは、認められていた。慶の中にいるおれは、頑張り屋で一生懸命でちょっと甘えん坊で。おれは、そんな自分のことだけは、好きだった。慶の中のおれを本物の自分にしたいとずっとずっと思っていた。
(そうだ……)
今のままでは、慶の中の「浩介」すらいなくなってしまう……
ぞわっと、血の気が引いた。
慶が愛してくれた「浩介」までいなくなってしまったらおれは……
「慶……っ」
衝動のまま慶を抱き寄せると、慶は「わあ待てっ」と慌てたように小皿をテーブルに置いた。
「まだ食べてるっ」
「……やだ。待てない」
今すぐ、慶を感じなければ、壊れてしまいそうだ。
おれの中の黒い気持ち……独占欲ゆえの殺意がまた出てきてしまうことが怖いけれど……、でも、今はそれよりも、慶が欲しくて欲しくて我慢ができない。
「あと一口!最後の肉食いたい!」
「じゃ、お口開けて」
「あー」
素直にあーん、と口を開けた慶に、最後の鶏肉を放り込む。と、同時に、首筋に唇を落としていく。
「慶」
「………浩介」
抱きしめてくれる強い腕。優しい囁き。
慶。慶……やっぱり離れたくない。ずっとずっと一緒にいたい。
でも……
『ホント桜井、使えねえ……』
『うちの学校で働きたいって言ってる人なんていくらでもいるから』
生徒の吐き捨てるような声。校長の事務的な声。
『あなたに何かあったら、私がお父さんに叱られるのよっ』
母の、ヒステリックな声。
(慶……)
背中のアザが痛い……
今のままでは、慶が愛してくれた「浩介」でいられなくなる。唯一認められる自分がいなくなってしまう。
そうなったおれは、ただの、卑屈な独占欲の塊に成り下がり、そうして、きっと慶を……慶を。
だから……
「慶……」
おれは最良の選択をしなくてはならない……
**
翌日……
おれが校長に呼びだされたという話は、その場にいなかった他の先生方にも知れ渡っていた。陰でコソコソ噂されている中で職員室にいることがいたたまれなくて、社会科準備室に逃げ込もうと席を立ったところで、
「桜井先生、ちょっといいですか?」
学年主任の吉田先生に声をかけられた。
吉田先生は、昨年は2年生、今年は1年生の学年主任をしている。昨年同様2年生の担任をしているおれとは、今年はそんなに関わりがないのだけれども、バスケ部員の1年の関口君が退部するしないで揉めた関係で、ご迷惑をかけてしまったのは昨年末のこと……
(結局、関口君は退部したけど……まだ何かあるのかな……)
憂鬱になりながら後をついていくと、面談室に通された。これは本格的に説教されるんだろうか……
(吉田先生、やっぱり父に似てるよな……)
厳しい印象と、銀縁の眼鏡のせいか、父と似ている気がして、反射的に体が竦んでしまう時がある。父よりも10以上は若いから失礼な話なんだけど……。
「桜井先生」
「は、はいっ」
勧められるまま席に座ったところで、あらためて名前を呼ばれ、ビビって返事をした。けれども……。
「先生、今いくつ?」
「え……」
職員室で見る吉田先生とは違う、少し優しい瞳。
「28、です」
「そうか………」
「………」
なんだろう……。いつもと違う、吉田先生……
「あの……」
「ケニアの話、聞いたよ?」
「え」
うわ、そっちか、と構える。
まだ、行くとも行かないとも言っていない。でも、昨日慶に会って、心は「行く」にかなり傾いている。何もかも置いて逃げ出すみたいだけれども、慶を守るため、自分を守るためには、それが一番良い気がしている。そんな気持ちで行くのは、向こうの方に失礼な気がするし、慶と離れることには恐怖しかないけれど、でも………
「私は、賛成だよ」
「……………………え?」
吉田先生の意外な言葉に、慶のことで頭がいっぱいになっていたところを、現実に引き戻された。
「さん……せい?」
「私も今の君くらいの歳の時に、海外ボランティア団体に参加して、マレーシアで暮らしていたことがあってね」
「……あ」
にっこりとした先生の目をみて思い出した。そういえば、一年半くらい前、吉田先生は相澤侑奈に日本語ボランティア教室を勧めていたことがあった。あの時、「勉強一辺倒の吉田先生が珍しい」と思ったのだけれども、そういうことだったのか……
「良い経験になると思うよ。若いうちじゃないとできない経験だ」
「そう………ですか?」
「そうだよ」
すいっと眼鏡を外した吉田先生……優しい、瞳……
「今、桜井先生、煮詰まってるんじゃないかな? 色々なことに束縛されて」
「…………」
母のことを言っているのだろうか。
吉田先生は、おれの母が文化祭に押し掛けたときも相手をしてくれて、先日も電話をしてくるなと言ってくれたのだ……
淡々とした吉田先生の言葉が続く。
「一度、まったく知らない場所で、自分一人で立ってみるのもいいと思うよ」
「…………」
「人生観、変わるよ。きっと成長できる」
「…………」
成長……できるのだろうか。今も何もできていないのに……
吉田先生の深い瞳に、思わず本音がこぼれる。
「成長、できるとは思えません」
「なぜ?」
首を傾げた吉田先生に、頭を振ってみせる。
「何も成しえていない僕が、あちらに行くことは、ただ単にこの現状から逃げ出したいからだけのようで……」
「………」
「それなのに成長だなんて……」
「………桜井先生」
ふっと笑った吉田先生。
「君のその、自己肯定感の低さ、改善できたらいいね」
「え………」
自己肯定感の、低さ……?
「何も成しえていない、なんてあるわけないだろう?」
「え」
吉田先生の優しい声が心の奥の方に響いてくる。
「君は充分、成しえてきた。たくさんの生徒を育ててきた」
「そんなこと……」
「君は生徒からとても信頼されているよ? 自分では気が付いてないのかもしれないけど」
「…………」
信頼されてる? そんなことは……
『ホント桜井、使えねえ……』
関口君の言葉が頭の中に響き渡る。おれは関口君のために何もしてあげられなくて……おれは本当に使えない教師で……
そう、記憶の渦の中に入りこみそうになっていたところ、
「ああ、タイミングいいな」
「え」
ふいに吉田先生に言われ、顔をあげた。軽いノックの音……。誰だろう? 先生が呼んでいたのか?
「入りなさい」
よく響く吉田先生の声につられたように開けられたドアの先には、
「関口君……」
関口君が、立っていた。なんだか照れくさそうに。
そして。
「先生。バスケ部、再入部お願いします!」
ペコン、と勢いよく頭を下げてくれた。
***
その日の帰り、おれは、所属している国際ボランティア団体の事務局を訪れた。
「ケニアの件、引き受けさせてください」
頭を下げた先にある、自分の足の先を見る。
もう、後戻りはできない。
おれは、この道を行く。
-----------------------------
お読みくださりありがとうございました!
本当は前回ここまで書きたかったのでした。
揺れまくって決めかねていた浩介さんが、ようやく決心する、の回でございました。
関口君の話は次回以降にサラリとお伝えできればな、と。
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残りあと2、3回くらい、お付き合いいただけると幸いです。
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今年の正月は例年通り……いや、例年よりも最悪だった。
結婚はまだしない、と言っているのに、母がしつこく早く結婚するように言ってきて……。おれに言う分にはまだいいけれど、新年の挨拶に来てくれたあかねに対しても、子供がどうとか余計なことをぺらぺらと………
「…………ごめん」
「別に? アドリブ力鍛えられていいわよ」
帰り道、あかねに謝ると、そう返事された。あかねは大学時代は舞台女優をしていて、今は中学の演劇部の顧問をしている。あかねに恋人のフリをしてもらうようになってもう何年になるだろう……
「それより浩介、ずいぶん酷い顔してるけど大丈夫? 相当たまってるんじゃないの?」
「………まあ、うん……」
色々、溜まってる。不平も不満も性欲も。
「慶君とは……」
「ほとんど会ってない」
慶の勤める病院に入院している女の子に勉強を教えているため、その最中に、慶の働く姿を見ることはできている。でも、最近の慶は本当に忙しそうで、話せても二言三言だけだ。でも、それで助かっているともいえる。
「こわくて二人きりでは会えないから、ちょうどいいよ」
「…………そっか」
また、慶の首に手をかけてしまったら、と思うとおそろしい……
最後に慶を抱いたのは、突発的に慶の首を絞めてしまった朝の、次の日の明け方だ。慶の白くて滑らかな肢体の隅々まで口づけて、慶の中に入りこんで一つになって……
(このまま時が止まればいい)
そう思いながら何度も何度も打ち付けて……。
慶が寝たらまた手をかけてしまうかもしれないという恐怖心から、「眠い」という慶を無理矢理起こして抱き続け、電車の始発の時間に慶のマンションを出たのだ。
それからは、触れていない。記念日の夜も誘われたけれど、学期末で忙しいと言って早々に帰らせてもらった。
慶も忙しそうだからちょうどいい。慶はこのお正月も目を離せない患者さんがいるとかで、ほとんど病院にいるらしい。確実に労働基準法に違反していると思う……
「ケニアの件は慶君には話したの?」
「……まだ」
あかねの問いに首を振る。
おれは今、所属している国際ボランティア団体から、教育支援者としてケニアに行くことを誘われているのだ。
「行くかどうかも決めてないし……」
「そろそろ決めないとでしょ?」
「うん……」
ケニアに行ったら、今抱えているあらゆる問題から逃げられる……そんな誘惑に囚われそうになる。でも、そんな邪な気持ちで行くのは失礼な気がするし、何より……
(慶と会えなくなる……)
そう考えると、ぎゅうっと胸が痛くなる。
(でも……)
今でも会えてないじゃないか。会えたとしても、殺そうとしてしまう、という恐怖に怯えて、触れることもできないじゃないか。
(だったら……)
恋人に害しか与えられないこんな男は、彼の前から消えた方がいいんじゃないか……?
***
3学期がはじまって数日後の、帰りのホームルームでのことだった。
なんだか妙にザワザワしている……と思っていたら、小池という女子が突然、「先生」と言って立ち上がった。
「先生、学校辞めるって本当ですか?」
演劇部の彼女の声は、教室内をシンッとさせるほど綺麗に響きわたった。
「3年の先輩が言ってました。学校辞めて、アフリカに行っちゃうって……」
「………」
グルグルグルっと頭の中に相関図が浮かび上がる。
この子は演劇部の2年生。演劇部3年には小野寺聡美がいる。小野寺聡美は相澤侑奈の友人。相澤侑奈は山田ライトの友人。
(出所は当然、ライトだな……)
ふうっと大きくため息をつく。余計なことを……と、もうアメリカに戻っているライトに悪態をつきたくなる。
「…………。誘われているのは本当です」
ここで誤魔化して、間違った情報が噂になるのも嫌なので、本当のことを告げると、
「えーっ!」
ざわざわっと教室が騒がしくなった。おれが辞めたところでこの子達に何の影響もないのに、なんでこんなに騒ぐんだろう……と不思議に思う。
「どうするんですか?」
一番前の席の中西君(バスケ部の子だ)に問いかけられた。
「先生、行っちゃうんですか?」
「え…………」
真っ直ぐな瞳。ああ、そうか、この子は顧問が変わるから少し関係あるのか……なんてことをぼんやり思っていたら、
「先生!」
苛立ったように言われてハッとする。
「先生、教えて!」
演劇部の小池さんも何故か必死の顔だ。
「…………」
ちゃんと答えないといけない、か……。
でも…………
「………迷ってるんだよ」
勝手に言葉が出た。答えたことで、自分でもあらためて認識する。そう……おれは、迷ってる。
「迷ってるって……」
「何が正解なんだろうって」
「え……」
教室内の視線がこちらに集まってきた。高校2年生……おれが慶と同じクラスになれた歳だ。まだ、将来なんて漠然としていて、現実味がなかった年齢。思い出す。あの頃のこと……
「おれも高校生の時は、大人になったら、決めた道をただひたすらまっすぐ進んでいくものだと思ってたよ」
そう、大人になったら、大人になったら……と。でも、大人になっても、何も変わらない。
「でも……違ったんだよ。大人になった今も、この道で良かったのか、こっちの道はどうなのかって、ずっと迷ってる」
きょとん、としている子もいれば、息をつめたような顔をした子もいる。
(しまった)
教師らしからぬことを言っている、と気が付いて、何とか話の軌道修正をすることにする。
「みんなも進路を決める時期にきてるけど……」
1人1人の顔を見ていく。迷える高校生たち……
「たくさん迷って、たくさん考えて………それで、今、考えうる最良の道を選んでほしいと思います」
「行きたい道が見つからなかったら?」
中西君が即座に聞いてきた。そういえば彼は、将来の夢なんか何もないって面談で言ってた……。でも、こういう聞き方をするということは、行き先を決められない自分に焦っているということだろう。
「そうだね……。見つからなかったら、とりあえず学校の勉強をたくさんしたらいいと思う」
「えー!」
あはははは、とあちこちから笑いがおこる。別に面白いことを言ったつもりはないんだけど……
「なにそれー」
「先生、結局勉強させたいだけじゃーん」
「なんだー良い話だと思ったのにー」
みんな笑ってる……笑ってるけど……
「別に冗談でもなんでもないよ?」
真剣に言うと、教室内がシンッとなった。自分の声だけが響いてきて、高校2年生の時、初めて学活の司会をしたことを思い出した。あの時、緊張しているおれを見守ってくれていた慶……。慶は高校2年生の終わりに、突然「医者になりたい」と言い出して……今、その夢を叶えている。
「……勉強は選択肢を増やしてくれるよ。例えば突然、医者になりたいって思うかもしれない。突然、先生になりたいって思うかもしれない。その瞬間がきた時、それまでちゃんと勉強してれば、諦めないですむ」
「えー……」
ムッとした中西君に、今度はこちらが真っ直ぐに語りかける。
「突然、進みたい道が決まった時、どの勉強も全部、頑張っておけば、後悔しないよ。………これはおれの経験談」
勉強ばかりさせられていたことへの負け惜しみ、ではないけれど、進路を決めた時、おれは今までの努力は無駄ではなかった、と思うようにしたのだ。
「だから、見つかるまで、全部、頑張って」
「……………はい」
中西君は、渋々、といった感じにうなずくと、
「で、先生はどうするんですか?」
話戻されてしまった……
「アフリカ、行くんですか?」
「…………」
詰まっていたら、今度は小池さんからも言われた。
「先生は、色々な勉強頑張ってきたから、アフリカにいく選択肢も選べちゃうってこと?」
「………………」
一斉にみんなに見られ、思わず胸に手をあてる。それは……
「……うん。そうだね」
学生時代、ライトと話をするために、スワヒリ語を覚えた。ケニアの歴史を勉強した。それが今に繋がっている。
「おれもこれから、最良の道を選べるよう……考えます」
おれにとって最良の道を。愛する人にとっても最良となる道を……。
その日の夕方、校長室に呼びだされ、「生徒を動揺させるような言動は慎むように」と、説教をくらった。耳が早いな……
「…………申し訳ありません」
頭を下げたおれに、校長が淡々と言い放つ。
「うちの学校で働きたいって言ってる人なんていくらでもいるから。辞めるなら早めに言って」
「…………」
分かっていても実際に言われるとグサッとくる。
(おれの代わりなんていくらでもいる……)
そう、こんな教師、いくらでもいる……。
ここは本当におれが進むべき道だったんだろうか……
***
アパートについたのは、夜の8時過ぎだった。玄関を開けたなり、「え」とつぶやいてしまう。
(慶の靴……)
ふっと昔に戻されたような感覚に陥る。慶がまだ大学生だったころは、こうしておれがいないアパートに慶はしょっちゅう勝手に来ていた。電気がついていないところをみると、おそらく寝ているのだろう……
(…………)
電気をつけて中に入ると、案の定、あの頃と同じように、ベッドで慶が丸まって寝ていた。天使みたいな横顔……
(おれの……慶)
こんな風に慶を見下ろすの、何日ぶりだろう……
「慶………」
その頬に触れたい……という思いをなんとか押し込め、手を洗うために洗面台に向かう。
(冷静に、冷静に、冷静に……)
黒い自分に支配されないよう、鏡を見ながら自分に言い聞かせる。
大丈夫大丈夫。冷静に、冷静に……
手を洗う。冷たくて、ちょうどいい。頭も冷えてくる。
愛しい愛しい慶。傷つけるなんて絶対にしてはならない。ただ優しく包もう。慶がまだ大学生で、半同棲していたあの頃みたいに。おれが慶の少しだけ前を歩いていたあの頃みたいに……。
と、昔の記憶の中に沈みこもうとしたところで、
「う、わ!」
いきなり横から軽い衝撃がきて、悲鳴をあげてしまった。慶の感触……
「慶……っ」
「しー!しー!しー!」
でも、おれに抱きついてきた慶は、なぜか人差し指を自分とおれの唇にあてて「しーっ」と言い続けている……。なんなんだ?
「どうし……」
「盗聴器」
「え」
盗聴器?
「コンセントとかも、窓からの街灯の光頼りに、なんとか全部見たけど、なかったから、大丈夫だとは思うんだけど」
「コンセント?」
「ああ。コンセントの中に仕込んで、そこから電気取るらしいんだよ」
「?」
話がつかめない……
「あの……慶?」
「だから、ないとは思うけど、念のため、小さい声で話そうな?」
「???」
「で、おれ明日夕方まで休みだから、お前が学校行ってしばらくしてからここ出るから」
「え……」
「そしたらおれが泊まったってバレないだろ?」
「…………」
あ……そういうことか。ようやく話が読めた。
クリスマスイブ前日、「母が、調査会社に依頼して、おれのことを監視している」と嘘をついた。いや、正確には全部が嘘ではなく、少し前まで本当に監視されていた。でも、おそらく、あの時点ではすでに契約は解除されていたと思う。ただ、慶と恋人として触れ合うことに耐えられなくて、嘘をついたのだ。それを慶はまだ信じているようだ。
(泊まってもバレないって……、慶、泊まるつもりなのか……)
ジクリと背中のアザが痛む。
一晩一緒にいて、おれ、大丈夫だろうか……
そんな心配をおれがしているなんて思いもしていないだろう慶は、引き続き、盗聴を用心するように、小さな声で、
「テレビ、つけようぜ。話声、誤魔化せるだろ」
「あ……うん、そうだね」
「カーテンも、しめてくれ」
「うん」
テレビをつけて、カーテンをしめる。と、
「わ、ちょっと、慶……」
強引に引き寄せられた。そのまま、ベッドに押し倒される。あいかわらず、その可憐な容姿を裏切る力強さ。
「あー……、やっとお前に触れる」
「………」
ぎゅううっと抱きしめられ、苦しくなる。
耳元にささやかれる優しい声……
「お前、気がついてた? 最後にやってからもう一か月たってんの」
「あ……うん」
「もー無理。我慢の限界」
「慶………」
啄むように優しいキスをくれる慶……
久しぶりの感触に体が喜んでいる。でも……心は怯えている。
(こんな風に触れられたら……)
また、慶を殺したいほど欲しくなってしまったら……、怖い。
「慶……待って」
「ん? あ、そっか。お前、飯まだか? おれもまだなんだけど……なんか食う?」
「あ……うん」
別にお腹なんか空いていないけど、うなずいた。……けれども。
「あー、ダメだ。やっぱ一発抜いてからにしよう」
「え」
「我慢できねえ」
慶の温かい手がおれの頬を包み込んでくれる。湖みたいな綺麗な瞳がジッとこちらを見つめてくれる。
「一瞬たりとも離れたくない」
「…………」
「お前が欲しい」
「…………」
ああ………
慶は本当に綺麗。その容姿も魂も全て。
その瞳に写るおれは……
「慶………」
「なんだ?」
温かい手がスルリと頬から首筋に落ちてくる。慶の手……慶の息づかい……
「慶……会いたかった」
会いたかった。会いたかった……
本音が零れる。
慶、慶……、会いたかったよ……
「おれもだ」
慶の優しい声。ゆっくりと唇が重ねられる。
その瞳に写るおれは、あなたにふさわしくないけれど……、でも、そんなおれをあなたが求めてくれるから。だから今は甘えさせて……
-----------------------------
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山田ライトがおれを訪ねて学校にやってきたのは、終業式の日。12月25日のことだった。
『浩介先生、ケニア行ってくれるんだってー!? シーナが喜んでたよー!』
「わ、ちょ、ちょっと……っ」
いきなり英語で叫ばれ、慌てて手を振って、スワヒリ語で答える。
『その話、まだ正式にOKしたわけじゃないから!』
『え、そうなの?』
ライトもスワヒリ語に切り換えてくれたので助かった。職員室内、英語が分かる先生も何人かいる。変な話はできない。
『シーナ、浩介先生のために離れの小屋の掃除するって言ってたよ? そこに住んでもらうって』
『………………』
前向きに検討します、と事務局長に答えた言葉が、どう伝言されたのか、ライトの親戚のシーナさんには「行く」と伝わっているらしい。あとで連絡しておこう……
「………ライト、学校は?」
「冬休みー!学校のクリスマスパーティー終わったその足で飛行機飛び乗って、こっちのクリスマスパーティーにも参加!みたいなー」
日本語で楽しげに答えるライト。ライトは現在お父さんのいるアメリカで暮らしている。日本に住む母親とも上手くやっているようで安心する。
「そっか。良かった。楽しくやってるんだね」
「オカゲサマデー」
わざと変な発音で言ってケタケタ笑ったライトだけれども、
「浩介先生」
ふっと表情を改められ、ドキリとする。ライトは真面目な顔のままスワヒリ語で話し出した。
『オレ、夏休みにケニアに行ったんだよ。都市部と違って、シーナが住んでるあたりは学校に通えない子がたくさんいてさ……。だから学校を作るんだってみんな頑張ってて。でも先生やってくれる人が足りなくて』
「…………」
先日写真で見せられた風景を思い出す。
広い、青い空……
『ユーナちゃんが言ってたよ。この学校にいる桜井先生と日本語教室にいる浩介先生はまるで別人だって』
先日、事務局長にも同じ話されたな……
『オレは、オレのためにスワヒリ語を覚えてくれた浩介先生が好き』
「…………」
まだ大学生の時、かたくなにスワヒリ語しか話そうとしない小学生のライトと話すために、おれはスワヒリ語を覚えた。「先生、変な人だね」と日本語で言って笑ったライトを思い出すと、今でも充実感みたいなものに満たされる。
『浩介先生が先生の本当でしょ?』
「それは……」
違う。日本語教室での『浩介先生』は、頼りがいがあって、明るくて……本当のおれとは真逆の人間で………
『浩介先生だったら、あの子達を笑顔にしてあげられると思うんだよ。あの時のオレみたいにさ』
「…………」
『だから、こんな学校辞めて、あっちで先生やりなよ』
「…………」
ふっと妄想にとらわれる。
異国の学校。『浩介先生』として、子供達と過ごす日々。子供達の瞳は、純粋でキラキラと輝いていて。そして、そこには、母の束縛も父の恐ろしい影もなくて……
(自由だ……)
その見渡す限りの自由な空の下、おれは閉じた翼を広げる……
(でも)
でも。でも……
そこに、慶はいない。
***
「ようやくちょっとだけ認められた感じなんだ」
一昨日の夜。付き合って11回目の記念に行ったレストランで、慶が嬉しそうに話してくれた。
自分の目指すお医者さんになるために、毎日頑張っている慶……
そんな恋人の喜んでいる顔を見て、どうしようもない嫉妬心に襲われ、吐き気までしてきたおれは、本当に醜い。
(慶はおれなんかより、仕事が大事……)
そんなこと、知ってる。知ってた。
慶には、おれと一緒にアフリカに行く、なんていう選択肢は存在しない。
その後、二人で訪れた思い出のクリスマスツリーは、飾りつけは少し変わったけれど、あの時とまったく同じ場所にあった。
(慶のことが、好き)
11年前と同じように思う。あの時と同じ、醜い独占欲で頭がいっぱいになる。
(慶、おれだけを見て。他の誰も見ないで。おれだけのものになって……)
ずっと変わらない……、いや、もっとひどくなっている、醜い醜い独占欲……
そんな邪な思いを抱かれているとも知らず、慶がおれの指をきゅっと掴んでくれた。優しい、優しい手。泣きたくなってくる。
「お前、やっぱりなんか変だぞ?」
慶の優しい声。優しい優しい声。
ゾワッと体中が黒いもので満たされていく。
(おれのものに、おれのものに、おれのものに……)
ああ……
あの朝と、同じだ。
慶の首を絞めてしまったあの朝と。黒いものに支配される。自分が自分でいられなくなる。
慶、仕事のことなんか考えないで
慶、どこにもいかないで
慶、おれのものになって
慶、呼吸を、止めて。
慶……愛して……
「浩介」
「!」
その温かい手で頬に触れられた瞬間、我に返った。
パンッ!
衝動的に慶の手を弾く。
慶、おれに近づかないで。
今のおれは、慶に触れられたら、何をしでかすか分からない。自分で自分がおそろしい。
でも、慶……慶。
「あ……ごめ……っ」
離れたくない。一緒にいたい。
でも、おれは慶を傷つける。分かってる。分かってるけど……
「あの…………、慶、ごめん……あの、母がね……」
目を見開いたまま固まってしまった慶に、慌てて言いつのる。誤魔化さないと、誤魔化さないと……
「母が、調査会社に依頼して、おれのこと監視してるんだよ」
咄嗟に出た言い訳の言葉。でも、慶は疑うことなく信じてくれて……。そのまま、何でもないように会話を続ける。
(嘘ばかり上手くなる……)
おれは嘘つきだ。
嘘で塗り固められて。嘘で縛られて。
だったら、『慶と離れても大丈夫』っていう嘘を、自分につけばいい。嘘で自分を騙せばいい。
(おれ一人で、アフリカに行けばいい……)
慶を本当に傷つけてしまう前に、おれがいなくなればいい。
逃げ出せばいい。すべてから。
慶からも、両親からも、職場からも。
すべてを捨てて、逃げ出せばいい。
(でも………)
まだ、決心できない。
だって、慶……
あなたと離れたら、おれはどうなってしまうんだろう………
-----------------------------
お読みくださりありがとうございました!
って、暗っ!!
で、でも、これから、ちょっとだけ浮上するのでっ!!
そのエピまで入れようかと思ったのですが、長くなりそうなので次回に持ち越しにしましたっ。
たぶん残りあと2回か3回ってところです。見捨てないでいただけると幸いです……
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「閉じた翼」目次 → こちら
大学時代から、女性から誘われた場合は「好きな人がいる」と言って断ることにしていた。「恋人がいる」と言ったら「会わせて」とか言われそうで面倒くさいからだ。普通に「この人です」と浩介を紹介できたらいいのに……といつも思っていた。
そんな中……
11月下旬、おれが女性陣からしつこく合コンに誘われている現場に遭遇した真木さんが、
「渋谷先生は恋人がいるんだから誘ったりしたらだめだよ」
と、みんなの前で言ってしまい………
「そんな話聞いてない!」
「会わせて!」
予想通り、ギャーギャー騒がれ、やっぱり……と頭を押さえたくなったのだけれども、
「そうやって、会わせて、とか言われるのが嫌で隠してたんじゃない?」
にこやかに、でも強い口調で真木さんが言ったので、みんな押し黙ってしまった。
「俺は偶然、一緒にいるところに会って紹介してもらったんだけどね………少し内向的な感じの子なんだよ」
ね?と同意を求めてこちらを見た真木さん。笑いそうになってしまう。
「渋谷先生がみんなに隠してた気持ちわかるよ。今みたいにわーわー言われたら、と思ったら紹介なんかできないよ」
「えー……」
「渋谷先生のこと困らせないであげて」
ニッコリと真木さんが言う。真木さんの言葉はいつも妙に説得力がある。おかげでみんな納得してくれたようだった。
その後もしばらくは嘘つき呼ばわりされたけれど、誘われる回数は激減してくれて助かった。この歳になって「好きな人がいる」はもう厳しかったので、こんな風に「恋人がいる宣言」をするタイミングをくれた真木さんには感謝だ。おかげで、コッソリ食べていた浩介の手作り弁当も堂々と食べられるようになり、しかもちょっと自慢もできて嬉しかったりする。
最近は仕事に関しても、少しは認めてもらえるようになってきて、少しは職場での扱われ方もマシになってきた。
早く一人前になりたい。それで早く浩介と一緒に住めるようになりたい。
***
2002年12月23日。
つきあいはじめて11年目の記念日。
浩介は記念日を祝うのが大好きなので、毎年、今年はああしようこうしようと言ってくる。昨年はすっごく美味しいケーキを買ってきてくれて、一緒に食べたんだったな……
今年は、うちの実家の最寄り駅から徒歩5分ほどのところにあるイタリアンの店に連れてこられた。でも、実家とは逆方面なので、おれは一度も来たことがない。
「なんでこんな店知ってんだ?」
不思議に思って聞くと、
「前に山崎が教えてくれた」
と、答えが返ってきた。山崎というのは、おれ達の高校の同級生だ。そういえば山崎のうちは駅のこっち側だった。
20人ほどで満席になる店内は、カップルや女性グループで埋まっていた。男二人なんて浮くのでは……と思いきや、みんな自分たちの楽しみに精一杯で、入店したときにはチラリと見られたものの、あとは関係なかった。
ランプの灯ったテーブル。スパークリングワインの綺麗な泡。彩り鮮やかなコース料理。まるで別世界だ。そこに浩介と二人でいられることがものすごく嬉しい。11年前には想像もできなかった幸せな空間。
食後のコーヒーが運ばれてきたタイミングで、浩介がふっと表情をあらためた。
「あの……あとで話したいことがあるんだけど」
「ん?」
なんだあらたまって。
「なんだよ? 今話せよ?」
「あとででいいよ」
「……………」
なんだよ……気になるじゃねえかよ……。まさか誰かに告白されたとかそういう話じゃねえだろうな……。
そんなことを思いながらジッと見つめていたら、浩介がふっと笑って首を振った。
「あの……仕事の話だよ」
「………」
「食べ終わったら、ツリー見に行こう? ほら11年前におれが告白した……」
「………」
仕事の話……?
浩介は最近、学期末で忙しいといって、うちにまったくこなかったので、こうして会うのも一週間ぶりなのだ。仕事で何かあったのだろうか?
あ、そういえば……、急に思い出した。2か月くらい前だったか、浩介に言われたセリフ。
『真木さんが言ってたんだよ。慶は今、仕事で悩んでるって。そういうこと、おれに話してくれないのは………話しても無駄だから?』
(浩介……仕事の話、したいのかな……?)
あの時「お前と一緒にいるときは、お前のことしか考えたくないから」と答えたのは本心だけれども、その他にも、医師の守秘義務違反に抵触する恐れがあるためあまり話せない、というところもあるのだ。うっかり余計なことまで話してしまいそうで……
(うーん……)
先週、浩介は確実に様子がおかしかった。たぶん母親と何かあったのだろう、とは思ったけれども、あえて何も聞かなかった。
おれとあまり会えないことも本当は我慢している、ということも先週聞いた。もし、仕事の話をしないということにも不満を持っているのなら、それは解消するべきだよな……
「あー……あのさ」
「ん?」
小さなコーヒーカップを口元につけながら首をかしげた浩介。先週の様子のおかしかった浩介の影は見えない。でも……
「おれ、今までは任せてもらえなかった、ちょっと難しい病気の患者さんの担当、させてもらえることになったんだよ」
「え」
浩介がキョトンとしている。
具体的病名を避けて話そうとするから、どうも話がうまく伝わっていない気がする、けどしょうがない。おれができる「仕事の話」はこれが限界だ。
「ようやくちょっとだけ認められた感じなんだ」
「そう……なんだ」
「ここまできて、やっとだよ」
「そっか……」
カップを置き、そのカップを両手で覆いながら、浩介はフワリと笑った。
「良かったね」
「あー……うん」
何だろう、この違和感……。なんとなくモヤモヤするけれど、なんとか話を続ける。
「だから、またしばらく忙しくなるかもしれないけど……」
「うん。大丈夫だよ」
「…………」
モヤモヤする……
「なあ……浩介」
「ん?」
テーブルの下、浩介の足を軽く蹴ってやる。
「おれは大丈夫じゃねえんだけど」
「何いってんの」
クスクス笑いながら蹴り返してきた浩介。
「慶は大丈夫でしょ」
「……大丈夫じゃねえよ」
「大丈夫だよ」
「………」
なんだ。なんだ、この違和感……
「お前、おれに会えないからって浮気とかすんなよ?」
「……するわけないでしょ」
笑ってる浩介。笑ってるのに……なんだこの不安感……
「あ、そうだ。明後日の夕方、ゆみこちゃんのところ行くね」
「そうか。じゃあおれも顔出すからな」
「うん」
浩介は優しく微笑んだ。それが寂しそうに見えるのはなぜなんだ。
その後、駅に戻っておれの実家がある側の階段を下りた。大型スーパーの前の大きなクリスマスツリーは、11年前よりも飾りつけは洗練された感じのものに変化しているものの、場所自体は変わっていない。
「懐かしいね」
「そうだなあ……」
11年前と同じく、ツリーと建物の間に2人で入りこむ。あの時と同じように飾り付けを撫でている浩介。その指をキュッとつまんでやると、
「慶」
浩介がまた泣きそうな顔で笑った。やっぱり、おかしい。おかしいぞこいつ……
「なあ、お前、やっぱりなんか変だぞ?」
「……………」
「浩介」
うつむいた頬を包み込んで、こちらを向かせ……
「え」
パンっと手首に軽い衝撃。
「…………」
驚きすぎて声を失った。
なに……なんだ?
今、おれ、何された……?
手を……弾かれた……?
「あ……ごめ……っ」
「………」
浩介がハッとしたように言ったけれど、頭の中が真っ白で理解できなかった。
(拒絶………された)
浩介に……拒絶、された……
弾かれた手を見つめながら呆然としていたら、
「あの…………、慶」
浩介が絞り出すようにいった。
「ごめん……あの、母がね……」
「え………」
「母が、調査会社に依頼して、おれのこと監視してるんだよ」
「……!」
ビックリしてあたりを見回してしまう。
「今いるかどうかはわかんないんだけど、ちょっと外では……」
「あ……うん。分かった」
ホッと体の力が抜ける。
そうか、調査会社……探偵ってことか。それなら、今、弾かれたことにも納得できる。恋人みたいな様子、見られるわけにはいかないもんな。そうかそうか……それで何となく様子も変なのか。浩介には悪いけど……安心した。
浩介がうつむいたまま言う。
「だからお泊まりもしばらくやめようと思ってて。先週泊まったこともバレてて、ちょっと言われちゃったから」
「そっか……」
「ごめんね」
しゅんとした浩介を抱きしめたくて手がウズウズするけれど、なんとか我慢する。そんなの写真でも撮られたら大変だ。
「いや、気にするな。普通に友達として会うのはいいんだよな? じゃ、友達モード発動な?」
「ん」
浩介が小さくうなずく。
「そういや、お前、さっき話したいことあるって言ってたよな。なんだよ?」
「あ…………」
浩介は手で口を押さえると、
「なんだっけ……忘れちゃった」
「なんだそりゃ」
ガックリしてしまう。
「仕事の話って言っただろー?」
「あー、うん……」
「なんだよ?」
「んー……、あ、そうそう」
ぽんと手を叩き、バスケ部の一年生が、成績が落ちたため部活を辞めさせられてしまった、という話をしてくれた。
おれ達の高校時代が思い出される。
「お前も高校の時そうだったよな……」
「そうなんだよ。だから余計に何とかしてあげたかったんだけど……」
「んー……」
浩介は学年順位が10番以内に入らなかったら部活を辞めろと言われていて……
「お前、一回成績下がったことあったよな? あの後、何て言って説得したんだ?」
「えーと……苦手な理数系対策を考えて、それ表にしてみせて……、次のテストまではその日どんな勉強したかを毎日報告してた……かな」
「…………」
大変だったんだな……。放任主義のおれのうちとは大違いだ……
「その話、その子にしたのか?」
「ううん、してない。そこまでやらせるのはちょっと……って思っちゃって」
「そっか……」
お前は「そこまで」やったんだけどな……
「でも、今思えば、話せばよかったかもね……」
ふっと遠い目をした浩介……
「今から話せばいいじゃねえかよ」
「…………そうだね」
浩介はうなずきながらも、心ここにあらず、といった感じにツリーの飾りの丸い玉を撫でている。
(やっぱり……変だ)
探偵に見張られている、ということだけが原因ではない気がする。
でも結局、聞き出すこともできず、もやもやしたまま11年目の記念日は終わってしまった。
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お読みくださりありがとうございました!
アニバーサリー男である浩介君。記念日にかこつけて、記念の場所であるクリスマスツリーの前で、アフリカ行きのことを話すつもりでした。なのに、慶に仕事の話を嬉しそうにされてしまって(やっぱり誘えない……)となってしまい……
そして、嘘つき浩介君。慶の手を弾いてしまったのは黒い気持ちに支配されそうになったからなのに、しゃあしゃあとお母さんのせいにしてます。その上、話すつもりのなかったバスケ部一年生の話をして誤魔化すし、ホント嘘つきです(^_^;)
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