『入院患者の勉強を見てほしい』
と、慶に頼まれた。そんなこと初めてだ。嬉し過ぎる! あわよくば慶の働いている姿が見られるかも、という期待に胸がふくらむ。
それで10月最後の日曜日、面会時間のはじまる3時に、張り切って病院に行ったのだけれども……
(これは………)
ちょっと手こずりそうだな……というのが、間違えだらけの問題集を見ての第一印象。
小学校5年生の、とにかく算数が苦手、という明るい女の子なんだけれども……
おそらく、学校を休みがちだから、ということだけが理由ではない。本人のやる気がないから、でもない。生まれつき、数字を理解をする力が欠如しているのだ。そういう子がいることは、大学で勉強してきた知識の中にあるので知ってはいたけれども、実際に会うのは初めてだ。
「浩介くん、呆れてるでしょー?」
彼女……山崎ゆみこちゃん(おれ達の同級生と同じ名字だけれども、何も関係はないらしい)は、困ったような顔をして笑った。
週3回ある院内学級の先生も、ゆみこちゃんだけに付き添うわけにはいかないのでフォローしきれず、かといって立場的に慶が個人的にみてあげることもできず……ということで、おれが呼ばれたわけだ。ゆみこちゃんにだけ特別に先生を付けた、と他の子にバレるのはまずいので、「先生」ではなく「くん」でもいい?と言いだしたのはゆみこちゃん自身だ。
「そんなことないよ。つまずいているところまで戻って、一緒にやっていこう?」
「つまずいてるところって……」
「一桁ずつの計算の精度をもう少しだけ上げて、それから、一桁と二桁の計算の練習……」
「えー……」
ガクッと机に突っ伏したゆみこちゃん。
「あたしもう5年生なんですけどー。それ何年生の話?1年生?2年生?」
「さあ? おれ、高校の社会の先生だから分かんない」
「………………」
わざととぼけると、ゆみこちゃんはゆっくりと顔をあげた。
「そうなの?なのに算数教えられるの?」
「だから一緒に勉強しようよ? おれも算数教えるの1年生だから」
「ホントに?一回もないの?」
「うん。中学、高校の数学はあるんだけどね。算数は初めて」
「ふーん……」
ゆみこちゃんはしばらく「ふーん」と言い続けた後で、
「じゃあ、一年生からでもいいよ」
ようやく肯いてくれた。
小児科病棟内のプレイルームの一角で教えていたので、ちょうど良かった。小さい子が遊ぶ用のブロックを拝借して、一桁+一桁の計算の練習ができたのだ。もどかしいだろうけど、基礎ができていなくては、急いで積み上げたところで崩れるだけだ。基礎からじっくりと、だ。
「浩介くん、すごいね」
ふいにゆみこちゃんが言った。
「全然怒らないんだね? 普通みんなイライラしてくるのに」
「そう?」
「うん。どんな優しい先生にもイライラされちゃうの。ママにも、どうしてこんなのもできないの?って、いつも怒鳴られてたし」
「…………」
ギクリ、となる。
(どうしてこんなのもできないの……)
おれもいつも母親に言われていた言葉だ。
どうしてこんな問題もできないの? どうしてお友達ができないの? どうして学校に行けないの? どうして、どうして、どうして……
「でも、あたしもそう思うんだよね」
ゆみこちゃんの辛そうな瞳……
「どうしてあたし、みんなみたいにできないの?」
「え………」
「どうして、小さい子でもできるようなこと、あたしできないんだろう」
「…………」
「どうして? どうしてなの?」
「それは………」
言いかけて、止まってしまう。何を言えばいいのだろう……
………と、ふいに後ろから涼し気な声が聞こえてきた。
「それは、生まれる前から決まってたことだからだよ?」
「!?」
振り返ると、そこには………
「真木……さん」
「やあ。浩介君」
背の高い、完璧な容姿の白衣の男性が、ニッコリと微笑んでいた。
***
真木さんと話すのは、ちょうど2週間ぶりだ。
2週間前、おれは都内の公園に呼びだされて、
『君、慶君と別れてくれる?』
『君は慶君にふさわしくないよ』
と、言われたのだ。まあ、そのあと、真木さんは慶に手を出そうとして、逆に慶に鳩尾くらって延髄斬りまで決められたらしいけど……
「あ、真木先生」
「こんにちは、ゆみこちゃん」
完璧営業スマイルの真木さん。2人は知り合いらしい。
「生まれる前から決まってたって……それ、ひどくない?」
眉を寄せたゆみこちゃんに、真木さんは言う。
「そう? じゃあ、ゆみこちゃんの目がそんなにクリッとして可愛いのはどうして?」
「え……」
「そんなに綺麗な形の鼻なのはどうして? そんなに魅力的な唇なのはどうして?」
「…………」
ゆみこちゃんの頬が赤く染まっていく。真木さんはニッコリと言いきった。
「ぜーんぶ、生まれる前から決まってたことだから、だよ」
「そんなの……」
なんか違う……と、つぶやいたゆみこちゃん。でも、真木さんは「同じ同じ」と手を振ると、
「人はみんなそれぞれ特性を持って生まれてくる。ゆみこちゃんが美少女なのも、算数が苦手なのも、それがゆみこちゃんだから、としか言いようがない。それを、どうして? なんて考えるのは時間の無駄だよ?」
「無駄って……」
「困ったことは1つずつ対処していけばいい。渋谷先生がそのために浩介君を呼んだって言ってたよ?」
「…………」
真木さんがストン、とゆみこちゃんの隣に腰かけた。ゆみこちゃんは照れ隠しのようにムッと口を尖らせると、
「でも真木先生は何も困ったこと一つも持って生まれてこなかったでしょ? かっこいいし、頭もいいし。ずるいよ」
「そんなことはない」
心外だ、というように大袈裟に首を振った真木さん。
「俺も色々あるんだよ? ね? 浩介君」
「…………」
同意を求められても……。
真木さんは楽し気に「そうそう」と手を打った。
「渋谷先生なんか、あの綺麗な顔がコンプレックスだからね?」
「えー?」
ビックリしたように叫んだゆみこちゃん。
「うそーどうしてー?」
「女の子みたいって揶揄われるのが嫌だったんだって。ね? 浩介君」
「…………」
再び同意を求められムッとしてしまう。
慶のことをさも知っているかのように話すな……っ
「でもね、渋谷先生は、それが嫌だって何もせずにイジイジしてたりしないんだよ。揶揄ってきた奴をぶっ飛ばせるように、一生懸命体鍛えたんだって」
「えー」
「渋谷先生、ああ見えて、脱いだらすごいからね。すごい筋肉ついててねえ……」
「!」
うっとりと言う真木に殺意を覚える。お前、なんでそれを知ってる……っ
「えー!そうなの?!全然そう見えないっ」
おれのそんな様子に気づいた様子もなく、驚きの声を上げているゆみこちゃん。
「あんな天使みたいなのにー」
「そうなんだよね。ホント、渋谷先生って天使みたいに華奢にみえるよね」
「うんうん」
「なのに、結構ガッチリしててね」
「へー」
「こう、腹筋も綺麗に割れててね、それで大胸筋はほどよく……、って、あ」
ふいにイタズラが見つかった子供のように手で口を押さえて黙った真木さん。おれの後ろに視線が……。
振り返ると、話題の本人が仏頂面をして立っていた。天使のような、白衣の医師。
「真木先生? 何の話してるんですか?」
「コンプレックスにどう立ち向かうかって話ダヨ」
「それがどうやったら、おれの大胸筋と繋がるんですかっ」
怒りながら言う慶に、真木さんはヘラヘラと笑いながら答えていて……
……………。
慶と真木さん、仲良いな……。前と全然変わらないじゃないか。慶、襲われそうになったっていうのに。真木さん、伸されたっていうのに。
笑いあっている二人は、やっぱりとてもお似合いで……。
また、体全部、暗い暗い穴の中に落ちていく……。
でも。
「浩介」
凛とした声に、引きあげられた。おれが固まっていることに気が付いたのだろう。慶がすっとおれの横に座って、テーブルの下で腿をトントンとたたいてくれる。
(………ざまあみろ)
おそらく、そのことに気が付いたらしい真木さんが、ふっと苦笑いを浮かべたのだ。ざまあみろ。ざまあみろだ。
「で、ゆみこちゃん、どう? 浩介センセーは」
そんな水面下の攻防も知らない慶が、ゆみこちゃんに問いかけている。ゆみこちゃんはニコニコで、
「すごい! ほんとに全然怒らない!」
「でしょ? おれも高校の時と浪人の時、浩介に勉強教えてもらってたんだけど、分からなくても全然怒らないで、別の言い方で説明してくれたから、すごく助かったんだよ」
「うんうん。だから安心して間違えられる」
「…………」
二人の話にホッとする。そう思ってくれているのなら良かった。
母と勉強している最中、間違える度に、怒鳴られたり背中を叩かれていたおれは、怖くてわからないところを聞く事もできなかった。教師になると決めた時に心に誓ったのだ。おれは絶対にあんな教え方はしない、と……
「…………」
ジクリ、と、背中のアザに痛みが走る。消えていたはずなのに……とっくに消えていたはずなのに、復活してしまったアザ……。
***
「今日はありがとうなー」
夜10時を過ぎてようやくマンションに戻ってきた慶……
「ゆみこちゃん、すごく喜んでた。もう5年生だから、低学年と同じことをするのに抵抗があって、それで余計に分からなくなってたとこあったみたいだからな。おかげで、もやもやしてたところが、ちょっとすっきりしてきたって」
「………そう。良かった」
「また約束したんだって?」
「うん。今度の水曜日にまた行くよ」
「おお。そうか」
そうか、そうか、と慶は妙に機嫌が良い。
「慶……機嫌いいね」
「んー?」
今日は勉強会のメンバーと食事にいってきたらしいのだ。勉強会のメンバー、ということは、当然、真木さんもいるわけで……
「お食事会、楽しかった?」
「別に楽しかねえなあ。役には立つけど」
「そう……?」
だったら、どうしてそんなに機嫌がいいの? 真木さんがいるから……?
真木さんのおおらかで明るい人柄を思い出す。ゆみこちゃんの問いにもあんなに的確に答えてあげていて……
それに、そのあと、プレイルームにいた子供達に存在を気が付かれた慶と真木さんの周りには一斉に人が集まってきて……
「渋谷せんせー真木せんせー」
「せんせーも遊ぼー」
子供たちに囲まれた慶と真木さんは、みんなの憧れの人って感じで……
(慶は、夢を叶えたんだ……)
島袋先生みたいな小児科医になりたい、といっていた慶。
今の慶の姿は、高校生の時に見た、島袋先生そのものだよ。
その隣にいる真木さんも、頼りがいのある先輩って感じで……
それに比べて、おれは……おれは。
「浩介?」
「!」
顔をのぞきこまれ、ハッと我に返る。慶の綺麗な瞳に写るおれ……
(醜い……醜い嫉妬の塊だ)
こんな心、読まれてはいけない。思いを飲みこんで、会話を続ける。
「役に立つ情報もらえたから、機嫌が良いの?」
「いやー?」
「……っ」
ちゅっとキスをされた。そのまま唇が頬に、口の端に下りてくる。
「慶?」
「なんかさー、職場にお前がいるっていうことに、テンション上がっちゃってさー」
「え……」
「いいよなーああいうのさー」
慶、すごく嬉しそう……
そんなこと思ってくれてたんだ……それなのにおれは………
「水曜日、何時頃くる? 夕方? おれ、休み時間そこにできるよう調整してみる」
「………うん」
ほら、大丈夫。おれは慶に愛されてる……
「今日泊まれるか?」
「うん」
「よしよし。じゃあ、やるか」
「……………」
色気も何もない誘い方に少し笑ってしまう。慶らしい……
「なんだ?」
「ううん。なんでもない。ここでするの?」
「んー、ベッド行くか」
ぴょんとおれから飛び降りて、ベッドに移動しながら洋服を脱ぎはじめている慶……。
(ああ……綺麗だな)
鍛え抜かれた身体……白い肌。
「お前もさっさと脱げ。脱がしてやろーか?」
「………自分で脱ぐよ」
慶の穢れのない身体と違って、おれには背中に大きな醜いアザがあって……
(………見られたくない)
移動する前に電気を消して真っ暗にすると、慶がキョトンとした。
「珍しい。電気全部消すのか?」
「たまには趣向を変えて、と思いまして」
「ふーん?」
いつもは見たいとかいって、電気一番明るくしてやりたがるくせに?
そう言って首を傾げた慶のうなじに、そっと唇を添わせる。
「慶、ホントは見られながらするの好きだったんだ?」
「ば……っ、そんなことは言ってないっ……んんっ」
「慶……」
本当はあなたのすべてを目に焼きつけながら、あなたと一つになりたい。
でも……醜いおれを見られたくないから……だから。
今日は、暗闇で、あなたを抱こう。
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お読みくださりありがとうございました!
大遅刻っ。もしお待ちくださっていた、なんて有り難い方いらっしゃいましたら、申し訳ございませんっ。
今シリーズ、書くのに大変時間がかかっております。
その大きな要因は、若かりしころに作ったプロットを元に書いている……のはいいのですが、
そのプロットがろくに調べもしないで作られているプロットのため、色々調べて諸々帳尻合わせをしているためでして……
あいかわらずの真面目ーなお話でございますが、お見捨てなくクリックしてくださった方々、読んでくださった方々に、最大限の感謝を申し上げます。本当にありがとうございます!!
また次回火曜日、よろしくければどうぞお願いいたします!
クリックしてくださった方、読みにきてくださった方、本当にありがとうございます!
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「風のゆくえには」シリーズ目次 → こちら
「閉じた翼」目次 → こちら
ぼくの背中には醜い黒いアザがある。
母に叩かれ続けてできたアザ。
誰にも、誰にも見られたくない。
こんなものを見られたら嫌われてしまう。
子供の頃からずっとそう思っていた。
その思いから解放されたのは、高校二年の修学旅行の時だった。
『慶は、おれのこの痣みても……おれのこと、嫌いにならない……よね?』
大浴場の脱衣所で、そういったおれに、慶は背中をさすってくれながら、自信たっぷりに言ってくれたのだ。
『当たり前だろ。片想い歴一年以上のおれをなめんなって言っただろ?』
ニッと笑った慶。
『何があっても、大丈夫だ』
慶はいつでもおれを守ってくれる。包んでくれる。慶が一緒にいてくれたら、何も怖いものはない。
その日の夜。
10人部屋での布団の場所はくじ引きで決めたので、おれと慶は一番出入口側と一番奥に離れてしまった。でも、就寝時間直前、各自自分の布団の上で、荷物の整理をしたり、お喋りしたりしている最中……
(慶……かわいいなあ……)
慶はトイレ~と言って部屋から出ていって、戻ってきた……と思ったら、奥の自分の布団には戻らず、おれの横にちょこんと座りこんできたのだ。さりげなさすぎて、誰も不思議に思ってない。そして、おれの手元をのぞきこむような形で、さりげなーく、くっついてきた。猫みたい。かわいすぎる。
「明日の班行動の資料か?」
「うん。雨だからちょっと予定変わっちゃうね」
「ふーん」
「ふーんって慶も一緒に行くのにー」
「任せた~ついてくついてく~」
へへへ、と笑う慶。かわいい。上下揃いのトレーナーというラフな格好もかわいい。
(大人になって、一緒に暮らせるようになったら、こんな感じなのかな)
二人でパジャマでお喋りしたりできるかな。一緒のお布団で眠れるかな……。
幸せな気持ちが溢れだしそうで我慢できなくて、みんなからは見えないところで手に触れようとした……のだけれども。
「これでどうだ!」
「?」
大きな声に驚いて、部屋の奥を見る。と……
(…………え?)
なぜか、溝部はシャツを、皆川はズボンの裾を捲りあげている……
「何やってんだ?あいつら」
「さあ?」
慶と二人で、首をかしげていたら、山崎が部屋から出ていくついでに教えてくれた。
「傷自慢大会、だってさ」
「傷自慢?」
「今、溝部の盲腸の手術の跡と、皆川の自転車で転んで縫った傷跡のどっちがカッコいいか審議中」
ホント溝部ってアホなこと思い付くよね、と言いながら山崎は出ていってしまい……
「…………」
「…………」
慶と二人で顔を見合わせる。
傷自慢? 傷って自慢するものなのか……?
「渋谷と桜井も参加しろよー」
「アホか。誰がやるか」
誘ってきた溝部に、慶はアッサリと手を振った。けれども、
「何がアホだ!傷は男の勲章だぞ!」
溝部が偉そうに言い放った。
「オレはなー、この盲腸の時は本当に大変でなー」
「痛かった?」
「スッゲー痛かった! なのに母ちゃんも姉ちゃんも信じてくれなくてさ。『どうせ塾サボりたくて痛いとか言ってんでしょー』とか言ってさ。ホントひでーんだよ」
「…………」
それは……
「それは溝部の普段の言葉が常に嘘っぽいせいだな」
委員長の指摘にみんなでウンウン肯く。溝部は「なんだよそれ!」とムッとしたけれど、委員長に先を促され、言葉を続けた。
「で、結局、父ちゃんが病院に連れて行ってくれたんだけど、速攻で手術ってなってさー。あとから母ちゃんに『もっと真剣に痛いって言いなさい!』とか怒られるし、もう散々だった」
「………それが勲章?」
思わず聞くと、溝部は大きく肯き、
「こんな痛さに耐えたオレ偉い!ってことで!」
「あーそれを言ったら、委員長の傷は本物の勲章って感じかもしれない」
斉藤がポンと手を打った。
「ほら、腕のこれー。な?委員長?」
「別に勲章では……」
「またまたご謙遜をー。これ、こないだのバレーボールの授業でスライディングして……」
「あ、それ、あの時の傷だったんだ?」
「それ言ったらオレだって、これー!」
「だったらオレもー」
ワーワーと傷の見せあい大会は大盛況だ……
「………気が付かなかった」
思わずつぶやいてしまう。今日一緒にお風呂に入ったのに、溝部の盲腸の傷も、委員長の腕の傷も、全然気が付かなかった……
『大丈夫だよ。野郎の裸なんて誰も注目して見やしねえよ』
脱衣所で言ってくれた慶の言葉を思い出す。
ホントだ……。おれもみんなの傷なんて一つも見てなかった。おれの背中のアザだって、誰も気が付いてないに違いない。
それに……気がついたところで、それをどうこう言ったりしないんだ……
小学生の時、中学生の時は、とにかく弱みを見せてはいけない、と思っていた。一つでも突っ込まれるところがあったら、そこから攻め込まれてしまうから。
でも、もう、そんなこと思わなくていいんだ……
「………慶」
こっそりと、みんなからは見えないように荷物で隠しながら、慶の手を握りしめる。温かい手……
「ん」
慶はキュッと握り返して、優しく微笑んでくれた。慶がいるからおれは大丈夫……
二日目の夜のお風呂の時間……
意を決して、脱衣所の鏡に自分の後ろ姿を写してみて……愕然とした。
(………薄くなってる)
昨年の夏に見た時には、もっと黒かったのに……。でも、もう、ほとんど気にならないくらい、薄い。
(どうして……?)
最後に母から折檻をうけたのは、中学3年の夏のことだから、薄くなっていてもおかしくはない。でも、こないだの夏に見たときは、もっと黒かったのだ。この半年の間に急に薄くなったのか……?
「浩介?」
心配そうに、昨日と同じようにおれの背中を庇おうとしてくれる慶に、軽く首を振ってみせる。
「ありがと……もう、大丈夫」
「そうか?」
いいながらも、背中を撫でてくれる慶。温かい手……。体の中全部、愛しい気持ちで満ちてくる。
慶に押されながら風呂に入ると、中では溝部達がシャワーの順番を巡ってぎゃーぎゃー騒いでいた。でも……
「あ、あそこ一個空いた!」
「一緒に使おーぜ」
タイミングよく端っこのシャワーが空いたので、溝部達に気付かれる前に急いで移動する。
「慶の体洗いたーい」
「アホかっ冗談言ってないでさっさとしろっ」
「………冗談じゃないのに」
ブツブツ言ったけれど、希望は叶えてもらえなかった。今後やりたいことリストに加えておこう……
体も頭も洗い終わって、湯船に移動する前に、もう一度、シャワーの横の鏡に背中を写してみる。と………
(やっぱり、薄い……)
半年前、海で泳いで日に焼けたからだろうか? それくらいしか理由は思いつかない。海に行く直前に見たきりだから、いつから薄くなっていたのかも分からないけれども……
「浩介?」
「あ、うん」
促され、急いで湯船に浸かる。慶の上気した顔が色っぽい。色が白いから余計に赤が引き立つ。
「あー……やっぱりデカイ風呂はいいよなー」
「うん」
おれの背中のアザはきっとこのまま消えてくれるだろう。母との記憶も消えてくれたらいいのに。
「来年、ホントに絶対旅行行こうな?」
「うん」
ニコニコの慶に力強く肯く。おれは来年も再来年もずっと慶と一緒にいるんだ……
この日を境に、背中のアザのことを思い出す時間は減っていった。時折ふと思い出して鏡を確認するのだけれども、いつも何もなくて……。このまま、そんなもの存在した事実さえないかのように、時は過ぎていくと思っていたのに……
***
慶と付き合いはじめてからもうすぐ丸11年になる。
高校を卒業してから体を重ねることをはじめ……もう何度慶と一つになったかは、さすがのおれも数えきれない(はじめのころは数えていた、ということは内緒だ)。
「………慶」
ごめんね。
小さく謝りながら、そっとその柔らかい髪を梳く。
気を失うように眠ってしまった慶は、ピクリともせずに寝息をたてている。
最近、本当に自制がきかない。
『汚したい』
そんな歪んだ欲望の末、慶のその白皙に穢れた己の白濁をぶちまけてしまったのは約2週間前のこと。
さすがにもう、そんな失態は演じていないけれども……
(似たようなものか)
今日は無理矢理に快楽の頂点に連れていき、休息もとらせず、制止の言葉も無視して、疲れている慶をひたすらに攻め立てて……
(でも、慶が悪いんだよ……)
今日……慶が真木さんと一緒にいるところを遠くからだけど見かけてしまったのだ。
真木さんというのは、慶の勤める病院の系列病院の医師だ。10日ほど前、ゲイである彼は、慶を襲おうとして慶に伸されてしまったのだけれども、その後は仲直り?したらしく……
(考えてみたら、慶って昔からそうだったよな……)
ふいに、高校一年生の時に、おれのクラスメートと喧嘩をしたのに、直後にすぐ仲良くなっていたことを思い出した。だから友達も多いのだろう。
(ああ……嫌になる……)
何もかもが、嫌だ。最近、嫌なことばかりだ。
昨日は、顧問をしているバスケ部の生徒の親が学校に怒鳴りこんできた。部活のせいで勉強がおろそかになっている、と。そんなことを言われても、うちは私立高校で、部活動は勉強の妨げにならないよう、かなり時間制限されているので、これ以上練習時間を減らすことなんてできない。
(ああ、嫌だ。嫌だ……)
その親を見て、うちの母親みたいだ、と思ってゾッとしたのだ。
母親からは毎日、矢のように電話やメールがくる。
『浩介! いい加減にしなさい! ちゃんと電話に出て!』
留守番電話にふきこまれた母親の声。昔から変わらない。ヒステリックで高圧的で。吐き気がする……。
「…………」
せっかく慶と一緒にいるのに、母親のことを思い出している場合じゃない。
(蒸しタオル作ろうかな……)
慶を起こさないよう、そっと布団から抜け出る。慶は行為のあとそのまま眠ってしまっているのだ。体を拭いてあげないと……。
勝手知ったる慶の部屋。洗面台の棚にあるタオルを勝手に取る。その扉を閉めようとして……
「!!!」
息を飲んだ。鏡に写った背中に……
「なんだ……これ」
見たことがある。一瞬「懐かしい」という感覚さえ沸き起こった、見覚えのありすぎるアザ。
『ぼくの背中には醜い黒いアザがある』
自分の声が頭の中でわんわんと鳴り響く。背中に広がった、青黒い大きな……
『母に叩かれ続けてできたアザ』
ずっと消えていたのに。最後に叩かれたのは、中3の夏なのに……
『誰にも、誰にも見られたくない』
『こんなものを見られたら嫌われてしまう……』
そんなことはない。
慶は、慶は、何があっても大丈夫って……
「………慶」
深い闇の中に堕ちていく………
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お読みくださりありがとうございました!
はじまりました「閉じた翼」。安定の暗さの浩介でございます。
の前に、懐かしい修学旅行話。脱衣所の話は「将来5-1」でした。
また次回金曜日、よろしくければどうぞお願いいたします!
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