それは突然に現れた!
今日、午前中は曇りだが、午後は晴れるとの天気予報を信じて出かけました。(2015.4.11.SAT)
コバノミツバツツジを観に、加古川市上荘町見登呂(かこがわし かみそうちょう みとろ)の『八ツ塚古墳』・見土呂フルーツパークを訪ねた帰りのことでした。
この後、日岡山公園に行こうと、『上荘橋』に向かって、狭い村内の径を南下していたときでした。
それは突然に現れました。
「美土呂姫の石仏 すぐそこです」 の立札 !!
(なんだ、これは?) 取り敢えず気になるので、行ってみることにしました。
看板が示す方に、狭い、畦道のような所を数歩入ると大師堂があり、その奥の突き当りに小さな祠が・・・
看板が示すものはこの祠ではなく、お堂の右手にありました。阿弥陀三尊の石仏です。
中尊は阿弥陀如来。向かって左側は勢至菩薩。向かって右側は観音菩薩。
(阿弥陀三尊像であるなら、このような並びになっているはず・・・)
観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身とされ、勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身とされています。
大師堂前に建てられた高札の説明にある「美土呂姫の悲話」とは、上荘町に残る伝説です。
赤松村の砦として室町時代のはじめに建築された井口城(現在、みとろ荘がある場所に井口城の本丸があった)は、15世紀前半になって赤松満祐の管下に置かれた。当時の城主は井口家冶。城主の姫が、美しく心優しいといわれた美登呂姫。
当時、井口城に出入りしていた満祐の家来の青年が、姫のあまりの美しさに一目見て心を打たれた。そんなある年の「月見の祝」の席でやっとの思いで姫に近寄ることが出来た青年は思いを告げたが、姫に申し出を拒まれ、それに腹を立てて姫を刺殺し裏山に埋めてしまった。しばらくしてその事を知った民衆が姫の死を悼み石仏を立てて奉った。
この石仏は前屈みに立っているが、これは美登呂姫が倒れる寸前まで、その苦しみに歪む顔を見られまいと下を向いたまま体を前に屈め、最後まで美を守ろうとするお姫様の姿を表したものだと伝えられている。
【関係サイト】
○ みとろ荘HP‐「みとろ」の由来
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