2月14日(金)晴れ。野村先生生誕日。
朝食は抜いて、昼食は、サバの文化干し、北海道の「山わさびの醤油漬け」、能登屋の玉ねぎ天、ナスの味噌汁。夜は、お世話になっている方と、地元の「浜一寿司」にて、時局を肴の一献会。
今日は、野村先生のお誕生日である。ご存命ならば90歳となる。90歳の先生など、とても想像できないが、私の中には亡くなられた58歳のままで、思い出に浸っている私だけが老いて行く。先生が、昭和52年3月3日の経団連事件の前日に、後輩の同志に宛てた句が「先駆けて 散りにし人の悲しみを 我がものとせむ この道を行く」。先駆けて散りにし人・・・。5・15事件の三上卓先生、影山正治先生、毛呂清輝先生、中村武彦先生などだろうか。
懐かしい一枚の写真がある。先生が「河野邸焼き討ち事件」にて12年の刑を終えて戦線復帰をした昭和50年秋。多摩川の土手にての一葉である。先生40歳、蜷川24歳。この二年後の昭和52年3月3日に、先生は「経団連事件」に決起し再び囹圄の身となる。戦線復帰から経団連事件までの経緯は『友よ山河を亡ぼすなかれ』の中の「経団連事件・決起までの真相=迎撃の思想と出撃の論理=」と、『獄中18年』(二十一世紀書院)の「回想の706日」に詳しい。昭和52年3月3日は、私の民族派運動の原点でもある。
もう50年も前の写真を見て、先生の没後30年目の追悼祭「群青忌」に、幻の名著と言われた『友よ山河を亡ぼすなかれ』を復刊できたことを嬉しく思う。先生は、常々私にこう言っていた「死ぬべき時に死ねない者は駄目だが、死ぬべき時でない時に死ぬ者はもっと駄目だ」と。先生逝きて今年で32年。私が、そちらに行った時、90歳となられた先生は、私の顔を分かるだろうか・・・。白菊の白が溢れてとどまらぬ。