白雲去来

蜷川正大の日々是口実

白菊の白が溢れてとどまらぬ。

2025-02-15 14:44:39 | 日記

2月14日(金)晴れ。野村先生生誕日。

朝食は抜いて、昼食は、サバの文化干し、北海道の「山わさびの醤油漬け」、能登屋の玉ねぎ天、ナスの味噌汁。夜は、お世話になっている方と、地元の「浜一寿司」にて、時局を肴の一献会。

今日は、野村先生のお誕生日である。ご存命ならば90歳となる。90歳の先生など、とても想像できないが、私の中には亡くなられた58歳のままで、思い出に浸っている私だけが老いて行く。先生が、昭和52年3月3日の経団連事件の前日に、後輩の同志に宛てた句が「先駆けて 散りにし人の悲しみを 我がものとせむ この道を行く」。先駆けて散りにし人・・・。5・15事件の三上卓先生、影山正治先生、毛呂清輝先生、中村武彦先生などだろうか。

懐かしい一枚の写真がある。先生が「河野邸焼き討ち事件」にて12年の刑を終えて戦線復帰をした昭和50年秋。多摩川の土手にての一葉である。先生40歳、蜷川24歳。この二年後の昭和52年3月3日に、先生は「経団連事件」に決起し再び囹圄の身となる。戦線復帰から経団連事件までの経緯は『友よ山河を亡ぼすなかれ』の中の「経団連事件・決起までの真相=迎撃の思想と出撃の論理=」と、『獄中18年』(二十一世紀書院)の「回想の706日」に詳しい。昭和52年3月3日は、私の民族派運動の原点でもある。

もう50年も前の写真を見て、先生の没後30年目の追悼祭「群青忌」に、幻の名著と言われた『友よ山河を亡ぼすなかれ』を復刊できたことを嬉しく思う。先生は、常々私にこう言っていた「死ぬべき時に死ねない者は駄目だが、死ぬべき時でない時に死ぬ者はもっと駄目だ」と。先生逝きて今年で32年。私が、そちらに行った時、90歳となられた先生は、私の顔を分かるだろうか・・・。白菊の白が溢れてとどまらぬ。


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咳をしても一人。

2025-02-14 14:14:19 | 日記

2月12日(水)晴れ。

事務所で、パソコンで管理している住所録の整理を行った。ここ十年ほど音信不通な人を削除したり、新しく頂いた名刺の住所を入力したりと、気がつけばことのほか時間がかかってしまった。そう言えば、私の携帯のアドレスも少し整理しようと思い開けてみた。その昔、飲み屋でオネエサンに戯れで教えて貰った番号らしきものがある。名前だけのものや、お店の名前、フルネームのものもあるが、正に一期一会。顔と名前も一致しないので、全て削除した。恐らく向こうも私のことなど覚えていないのに違いない。

いつも削除しようかどうかと迷うのは、亡くなられた人たちの番号である。消してしまうと本当に縁が切れてしまい、思い出も消えてしまうような気がして、消せずにいる。花房東洋先輩、植垣康博さんなどの人達・・・。せめて一周忌が済むまで残しておこうと思った。事務所に一人でいたせいもあって、寂寥感に苛まされる。

寒い事務所で咳がでた。そう言えば小豆島の庵寺で極貧の中、ただひたすら自然と一体となる安住の日を待ち、病魔に侵されながら詠んだ尾崎放哉の句に「咳をしてもひとり」と言うものがあった事を思い出した。自由律の作風で知られる漂泊の俳人・尾崎放哉は帝大を卒業し一流会社の要職にあったが、酒に溺れ職を辞し、美しい妻にも別れを告げ流浪の歳月を重ねた。最晩年、小豆島の土を踏んだ放哉が、ついに死を迎えるまでの激しく揺れる八ヵ月の日々を鮮烈に描く。吉村昭の『海も暮れきる』(講談社文庫)である。事務所の書棚から、その本を持って帰って来た。

夜は、友人と西横浜の「オアジ」から、関内へ。二軒転戦して帰宅。いい夜だった。


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パソコンを買うのにも一苦労だ。

2025-02-13 15:41:10 | 日記

2月11日(火)晴れ。紀元節。

雲に聳(そび)ゆる 高千穂の 高根おろしに草も木も なびきふしけん 大御世(おおみよ)を 仰ぐ今日こそ たのしけれ
今日は、建国記念日、紀元節。起床後に玄関に国旗を掲げ、神武天皇肇国の昔を偲び、橿原神宮を遥拝。輝く皇紀は二六八五年。皆さん。紀元節おめでとうございます。
 
朝食は、中華街の「ちまき」と「五島うどん」。夜は、鰯のフライ、子供の「ふるさと納税」の返礼品の「アフロ餃子」、清風楼の焼売。ネットで買った「フグヒレ」を使って「ヒレ酒」二杯。酔狂亭にて独酌。
 
午後から、もう8年も使っているノートパソコンと、仕事用のディスクトップ、そして携帯を新しくするために横浜駅の家電量販店に家人と共に行く。ノートパソコンとディスクトップのパソコンは、「ウインドーズ10」のままで、サクサク動かなくなった。そのまま「ウインドーズ11」に移行しようかと思ったが、パソコンが古くて動きが悪くなるというので、仕方なく新しいものにしようと思って売り場へ。モバイルは<さんざん迷った挙句「NEC」のLAVIE Direct N15intel11 2thというモデルの物にした。(自分で書いていても何が何だか分からん)。係の女性に説明を聞くこと約40分余り。チンプンカンプンで、まるでお経を聞いているようだ。家人が私に変わって全て聞いてくれた。「ワードやエクセルが入っていませんが」、「じゃあ入れて」、あれもこれも、何でもハイハイ。支払いの段階になって、「NECから直接注文なので、お届けまでに3週間程度かかります」。先に言えよ・・・。キレそうになったが、そこはぐっと我慢し、大人の対応をして支払いを済ませた。しかし高いなぁー。
 
携帯も新調したが、手続きが祭日で込み合っているので、別の日に。髪の毛が逆立ったが(そんなにありませんが)13日に予約をして帰った。ディスクトップのパソコンまでは、予算が足りずに、もう一年我慢することにして、げっそりして帰った。何で、モバイルと携帯を買うのに2時間もかかるのか。説明も何を言っているのかさっぱり分からなかったし、確実に時代に取り残されていくのを実感した。
 

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新春の集い。

2025-02-12 15:23:35 | 日記

2月9日(日)晴れ。新春の集い。

朝食を兼ねた昼食は、自宅近くのファミレスの「ビックボーイ」で、ハンバーグとエビフライセット。ハンバーグはマアマアなのだが、一緒について来たエビフライを見て、アウシュビッツのユダヤの人々を思い出した。あーあこんなに痩せちゃって・・・。蕎麦屋の「かつ丼セット」にすれば良かったと後悔。

六時から中華街で弊社の「新春の集い」を開催。お陰様で百余名の方々のご列席を賜り、恙なく終了致しました。心から感謝申し上げます。正面に、先日同級生で古美術商をしている方から頂いた、荒木貞夫と加藤寛治の書を掛けて披露させて頂きました。日清戦争の終結から130年、日露戦争の終結から120年、そして大東亜戦争の終戦から80年。そういった節目の年に、荒木、加藤両大将の書を皆さんに披露させて頂いたことは、感慨深いものがありました。

元陸軍大臣の荒木貞夫の「震天動地」、やはり軍人で海軍兵学校を首席で卒業した海軍大将の加藤寛治(ひろはる)の「一刀両断」の掛け軸。荒木貞夫の「震天動地」は、「天を震(ふる)わし地を動かす」とも読み、大きな事件が起こることのたとえとして使われる。荒木は、戦前、昭和維新を目指す、所謂二・二六事件の革新的な青年将校に非常に人気があった。そのため二・二六事件の後は予備役に編入された。その書が何時頃に書かれたものかは分からないが、恐らく二・二六事件を意識したものと推測される。

また、内輪のご報告としてでしたが、約二十年の長きにわたり、私の秘書と二十一一世紀書院社友会代表を務めてきました、松本佳展君の「憂国道志会」(初代会長は野村秋介先生)の後継会長就任の発表がご来臨の皆さまの前でできましたことにも感謝申し上げます。※ご列席の諸先生に挨拶をする蜷川。
 

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蕗の薹 おもひおもひの 夕汽笛。

2025-02-10 18:17:47 | 日記

2月8日(土)晴れ。

良い天気なので、午前中に1時間のウォーキング。途中で前から気になっていた「インドカレー」の店で昼食。バターチキンカレーとナン。帰宅後は、機関誌の編集。夜は、盟友らが来横とのことで、中華街へ。「安記」で食事の後に「ラッキー」のお店へ。その後「サリーズバー」へ転戦する。

私の好きなお店の一つに、横浜は馬車道にある天ぷら屋の「天七」がある。カウンターに座って目の前で板さんが、様々な物を揚げてくれる。使っている天ぷら油が良質なのか、重い感じがしない。ただ残念なのが、日本酒の品揃えは良いが焼酎が良くない。それでも好きなお店なので、年に何回かは利用させて頂いている。

天ぷらと言えば、若い頃には、良くこんな物にお金を払って食べるな。と思うことがままあった。例えば蕗の薹やこごみ、タラの芽などである。それが歳と共に、それらのエグミや渋さが美味に感じるから不思議なものだ。フキの花のつぼみが「蕗の薹」である。もう三十年以上も前に網走の「切り通し農場」という所で作業をしていたことがあった。早春、といっても三月に入ってからだが雪解けの頃に蕗の薹が、わーっと叫びたくなるほど沢山顔を出しているのを見たことがあった。当然、取って食べることなども出来ないのだが、しばらくすると三十センチぐらい大きくなっていた。「薹が立つ」とはこう言うことかと実感した。蕗の薹、タラの芽、こごみ・・・。「季節を食べる」とは言い得て妙である。

 蕗の薹と言うとすぐに頭に浮かぶのが、横浜に縁のある女流俳人の中村汀女の句。横浜の野毛山公園という所に「蕗のたう おもひおもひの 夕汽笛」という汀女の句碑がある。汀女は大蔵省官吏の夫と昭和五年から西戸部町の税関官舎に住み結婚後に中断していた句作を再開した。汀女には横浜を詠んだ句が多いことでも知られている。随分前に「横浜の句碑」というような本を出そうかとも思ったことがあって、資料を随分集めたが、挫折したままだ。※写真は「天七」のカウンター。


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