白雲去来

蜷川正大の日々是口実

花房ショックが消えない。

2025-01-08 15:47:58 | 日記

1月7日(火)晴れ。

昼に、古いお付き合いで、A新聞の辣腕記者M女史と久しぶりにお会いした。特別何の用事があったわけではないのだが、お互いの近況報告などを、昼食を兼ねて2時間ほど。馬車道の勝烈庵にて昼食の後に、スタバでお茶。最近は、「武装闘争の過ちを抱えて」というテーマで半世紀前の事件の主人公に焦点を当てて書いているとのこと。重信房子女史ともお会いしたとか。また元日に亡くなられた花房東洋先輩のことなど。いまだに、花房ショックが消えない。

日航の航空機事故のあった昭和60年の夏に、下田の弓ヶ浜海岸の近くに、亡くなられたが憂国三友会という団体を主宰していた高橋順之助さんが「うじま」と言う民宿を経営されていた。その民宿に、2泊3日で宿泊し遊んだ。メンバーは、阿部勉、花房東洋、板垣哲雄の諸氏と私。岐阜から京都、そして下田と何の目的もない「金が尽きるまで」の旅だった。

下田から明日それぞれの家に帰るという夜。少ない現金を出し合って全て花火を買って海岸で楽しんだ。皆なぜ持ち金をほとんど使ってしまったのか。それは花房先輩が、「俺がカードを持っているから、駅でカードで切符を買えばいい」。ところが駅に行ったら当時はカードでは切符を買えず、正直言って焦った。下田から新宿までバスが出ているとのことなので、小銭を出し合って阿部さんを乗せ、我々は、入場券を買い電車に乗った。後輩に熱海までお金を持ってきてと頼み車中の人となった。車掌を見るとトイレに隠れたり、何とか熱海についてお金を貰い自宅に戻った。懐かしい思い出だが、共に旅した阿部、板垣の両氏はすでに鬼籍に入られ、そして花房先輩までが旅立ってしまった。伊豆の山々月淡く・・・。※弓ヶ浜にて、昭和60年8月、左から板垣哲雄君、花房東洋先輩、阿部勉先輩。


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私のソウルフード。

2025-01-07 17:03:59 | 日記

1月6日(月)曇りのち雨。

今日から仕事始めの人が多い。テレビでは、東京駅から丸の内方面に出勤する人たちを映していた。浪人の身である私は、そんな正しい労働者の皆さんのニュースを見ながら、暖房の効いた部屋で、ぬくぬくとしている。相変わらず食欲がなく、朝食を抜いて、食事をしたのが一時半。私のソウルフードである「ソースチャーハン」と玉ねぎのスライスを入れたコンソメスープ。

ソースチャーハンには、「赤ウインナー」が必須で、ない時は作らない。みじん切りにした玉ねぎと赤ウインナーを炒めてからご飯を入れて、ウースターソースで味付けする。私は、チャーハンと言えばすぐに、このソースチャーハンが浮かぶ。食後は、手紙を二通書いてから、パソコンに向かい機関誌の原稿作り。

午後から雨になった。随分久しぶりの雨だ。雨の歌と言えば、沢山あるだろうが私が好きなのは、カスケイズの「悲しき雨音」。その歌を聞くと、なぜか雨の日に、山手通りを歩いている自分の姿が浮かぶ。実際に、雨の日にわざわざ山手通り(といっても東京ではなく、港の見える丘公園から外人墓地、フェリス女学院などのある横浜の山の手である)を歩くこともないので、あくまでもイメージである。もう一曲は、欧陽菲菲の「雨の御堂筋」。行きつけの町中華のおかみさんが中国の人で、髪型が欧陽菲菲に似ていることから、いつの間にか私の仲間内では「欧陽菲菲」と呼ばれている。本名は誰も知らない。しかし愛嬌のある人で、今では、お店の名前を言うよりも「欧陽菲菲の店」と言う方がなじんでいる。

野村先生が亡くなられる一年ほど前に、良く北新地へ行った。「北の新地は思い出ばかり」で、「雨の御堂筋」を聞くと、当時のことを思い出す。夜は、おとなしく酔狂亭にて独酌。

 


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青学の格の違いを見せつけられた。

2025-01-05 12:28:38 | 日記

1月4日(土)晴れ。

暮れから駅伝三昧の正月ボケも今週で終わりか。当然だが過ぎてしまえばあっと言う間である。しかし箱根駅伝の青学は強かった。格が違うものを感じた。陸上の1万メートルで、28分台で走れば一流。27分台は超一流。26分台では世界のランキング入りである。青学は27分台の選手が三人もいる。中央も3人。1万メートルの平均タイムは、登録選手では中央が上だが、数字だけでは分からないのが駅伝の難しさ。ちなみに1万メートルの日本記録は、富士通の塩尻和也で、27分09秒80。世界記録は、ウガンダのジョシア・チェプテゲイで、26分11秒00。

駅伝を見ていて驚いたのが、かつて中央大学の箱根駅伝6連覇の折の中心的なランナーであり、昭和39年の東京オリンピックに出場し、晩年は東京国際大学の駅伝部監督を努めた横溝三郎先生が、昨年の11月14日に亡くなられたこと。享年85歳。横溝先生は横浜高校の先輩で、私は、横溝先生に憧れて陸上競技を始めた。中学生の時に、横浜の三ツ沢競技場で行われた、市民大会で、横溝先生の走る姿を見た。後年、私の地元にお住まいと言うことを知り、知り合いだという床屋さんのご主人に頼んで色紙を書いて頂いた。「オリンピックの覇者に天才なし」。20年前に頂いたその色紙は、我が家の玄関に飾ってある。合掌。

夜は、我が酔狂亭にて一献。マグロの刺身、牛丼、山芋の磯辺揚げ。お供は「黒霧島」。


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元旦に訃報が・・・。

2025-01-02 15:28:00 | 日記

令和7年1月1日(水)晴れ。

大晦日、久しぶりに揃った家族で食事。マグロ、ブリ、の刺身に酢だこ、アルゼンチンエビ、子供用のハンバーグ。年末の年中行事となった「紅白歌合戦」を見ながら、それでも話が弾む。穏やかで、静かな年末。ふと愚妻が、子供たちに向かって「来年は、五人、六人と家族が増えるといいね」。私が、「五人、六人と増えるよりも、三人になってしまうかもよ」。と言うと愚妻と子供たちが、固まってしまった。昨年は、二度も入院したし、体調もあまり良くない。私には何も言わないが、皆、私のことを心配してくれていると言うことを実感した。年越しそばを食べ、「ゆく年、くる年」で除夜の鐘を聞いてお開きにした。

正月の朝は、八時に起床。顔を洗い、口を漱ぎ、玄関に国旗を掲げ、皇居を遥拝。四か所のカレンダーを新しいものにする。吉屋信子の「手のつかぬ月日ゆたかや初暦」の句が浮かぶ。九時前に、家族全員で自宅を出て、伊勢原の浄発願時に向かう。途中、海老名のSAにて、大熊雄次、松本佳展の両氏と合流。

その時に、大熊氏の携帯に、犬塚博英先輩からラインが入り、岐阜の花房東洋先輩逝去の報。すぐにご子息の仁さん、娘さんの寿美乃さんと連絡を取り、誤報ではないことを知り、愕然とする。元旦に、涙を流す準備も出来ぬままに東洋先輩は逝けり。海老名のSAを出ると、霊峰富士が初春の陽に照らされていて鮮やかだった。

浄発願時に着けば、大悲会の志村会長や小森君らが、すでにお墓の清掃を済ませていた。先生のお墓に、花房東洋先輩の訃報を報告し、今年一年、皇国はもとより、一門の健勝をお願いした。次に「道友・縁者」のお墓に手を合わせ。私の両親のお墓へ。ここも、志村、小森の両君がきれいに清掃を済ませていてくれた。ご住職にご挨拶をして辞す。横浜に戻り、新横浜にある三会寺へ向かい、後輩の板垣哲雄君のお墓を清掃し、花を手向けて手を合わせた。彼が亡くなってからから19年が過ぎた。

終了後は、中華街にて直会。二時間ほどいて解散。録画しておいた「ニューイャー駅伝」を見る。旭化成が最終区で逆転優勝。


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霜鬢(そうびん)明朝 又一年。

2024-12-31 16:16:05 | 日記

12月31日(火)晴れ。大つごもり。

先生などと言う、大したものでない私でも、さすがに師走は忙しい。障子の張替えをしようと思ったが4枚あるうちの2枚がどうしても外れない。30年も経っている木造屋なので、恐らく二階の重さでゆがんでいるのかもしれない。仕方がないので外れる2枚のみの障子を張り替えた。その後、レンジフード、換気扇の掃除。10月にやったばかりなのであまり汚れていなかった。終了後は、スタンドで洗車。きれいになった車で、保土ヶ谷駅まで下の子供を迎えに行く。久しぶりに家族が揃った年の瀬。

いきなり玄関の室内灯が切れてしまった。切れる前に何かサインでもあれば良いのに、最近の家電は徐々にダメになるというのではなく、いきなり壊れるから始末が悪い。慌てて、量販店へ。それから、近所のスーパーで、少しだけ買い物。あっという間に4時過ぎだ。留守中に松本佳展君が暮れの挨拶にと、ビールを一箱担いできてくれた。録画してある「富士山女子駅伝」を見ながら一杯やるか。

大晦日になると、必ず浮かぶ漢詩がある。中国の詩人である高適の「除夜作」。北海道の果てで、寒さに震えながらラジオで聞いた横浜港の汽笛。今にして思えば、良い思い出となっている。       
旅館寒燈獨不眠  旅館の寒燈に独り眠れず
客心何事轉凄然  客心何事ぞ転(うた)た凄然
故郷今夜思千里  故郷今夜 千里に思う
霜鬢明朝又一年  霜鬢(そうびん)明朝 又一年

大晦日の夜に旅館の寒々とした灯りの下、眠らずにいる。旅人の心に、どうしたことだろう…痛ましい気持がこみ上げてくる。この夜、千里離れた故郷のことを思う。明日の朝はもう新しい年だ。この鬢の白髪もまた年を重ねるのだなぁ…。

本当に髪の毛は霜のように白くなって、年が明ければ74歳となる。今年は2度も入院もした。新年が佳い年でありますように。


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