白雲去来

蜷川正大の日々是口実

新春の集い。

2025-02-12 15:23:35 | 日記

2月9日(日)晴れ。新春の集い。

朝食を兼ねた昼食は、自宅近くのファミレスの「ビックボーイ」で、ハンバーグとエビフライセット。ハンバーグはマアマアなのだが、一緒について来たエビフライを見て、アウシュビッツのユダヤの人々を思い出した。あーあこんなに痩せちゃって・・・。蕎麦屋の「かつ丼セット」にすれば良かったと後悔。

六時から中華街で弊社の「新春の集い」を開催。お陰様で百余名の方々のご列席を賜り、恙なく終了致しました。心から感謝申し上げます。正面に、先日同級生で古美術商をしている方から頂いた、荒木貞夫と加藤寛治の書を掛けて披露させて頂きました。日清戦争の終結から130年、日露戦争の終結から120年、そして大東亜戦争の終戦から80年。そういった節目の年に、荒木、加藤両大将の書を皆さんに披露させて頂いたことは、感慨深いものがありました。

元陸軍大臣の荒木貞夫の「震天動地」、やはり軍人で海軍兵学校を首席で卒業した海軍大将の加藤寛治(ひろはる)の「一刀両断」の掛け軸。荒木貞夫の「震天動地」は、「天を震(ふる)わし地を動かす」とも読み、大きな事件が起こることのたとえとして使われる。荒木は、戦前、昭和維新を目指す、所謂二・二六事件の革新的な青年将校に非常に人気があった。そのため二・二六事件の後は予備役に編入された。その書が何時頃に書かれたものかは分からないが、恐らく二・二六事件を意識したものと推測される。

また、内輪のご報告としてでしたが、約二十年の長きにわたり、私の秘書と二十一一世紀書院社友会代表を務めてきました、松本佳展君の「憂国道志会」(初代会長は野村秋介先生)の後継会長就任の発表がご来臨の皆さまの前でできましたことにも感謝申し上げます。※ご列席の諸先生に挨拶をする蜷川。
 

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蕗の薹 おもひおもひの 夕汽笛。

2025-02-10 18:17:47 | 日記

2月8日(土)晴れ。

良い天気なので、午前中に1時間のウォーキング。途中で前から気になっていた「インドカレー」の店で昼食。バターチキンカレーとナン。帰宅後は、機関誌の編集。夜は、盟友らが来横とのことで、中華街へ。「安記」で食事の後に「ラッキー」のお店へ。その後「サリーズバー」へ転戦する。

私の好きなお店の一つに、横浜は馬車道にある天ぷら屋の「天七」がある。カウンターに座って目の前で板さんが、様々な物を揚げてくれる。使っている天ぷら油が良質なのか、重い感じがしない。ただ残念なのが、日本酒の品揃えは良いが焼酎が良くない。それでも好きなお店なので、年に何回かは利用させて頂いている。

天ぷらと言えば、若い頃には、良くこんな物にお金を払って食べるな。と思うことがままあった。例えば蕗の薹やこごみ、タラの芽などである。それが歳と共に、それらのエグミや渋さが美味に感じるから不思議なものだ。フキの花のつぼみが「蕗の薹」である。もう三十年以上も前に網走の「切り通し農場」という所で作業をしていたことがあった。早春、といっても三月に入ってからだが雪解けの頃に蕗の薹が、わーっと叫びたくなるほど沢山顔を出しているのを見たことがあった。当然、取って食べることなども出来ないのだが、しばらくすると三十センチぐらい大きくなっていた。「薹が立つ」とはこう言うことかと実感した。蕗の薹、タラの芽、こごみ・・・。「季節を食べる」とは言い得て妙である。

 蕗の薹と言うとすぐに頭に浮かぶのが、横浜に縁のある女流俳人の中村汀女の句。横浜の野毛山公園という所に「蕗のたう おもひおもひの 夕汽笛」という汀女の句碑がある。汀女は大蔵省官吏の夫と昭和五年から西戸部町の税関官舎に住み結婚後に中断していた句作を再開した。汀女には横浜を詠んだ句が多いことでも知られている。随分前に「横浜の句碑」というような本を出そうかとも思ったことがあって、資料を随分集めたが、挫折したままだ。※写真は「天七」のカウンター。


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トンズラ男の補選だって。

2025-02-08 11:05:04 | 日記

2月6日(木)晴れ。

私の住む町では、市議会議員の補欠選挙の真っ最中。何でも、現職の市議会議員が海外で起業するため議員を辞職した。と言うのが表向きの理由だが、そんな綺麗ごとを誰も信じていない。その男の恩師や仲間の議員、後援者がカンカンになって怒っているという。何でも糟糠の妻を捨てた後に、支援者、後援会の人たちの前で若い、新しい女を紹介されたときには、出席者の誰もが驚いたという。議員辞職をする際にも、かつて秘書をしていた恩人の政治家に一言の挨拶もなく、番頭さんたちは、監督不行き届きで、ひどく怒られたという。確かめたわけではないが、あちらこちらに借金を残しての逐電とも、まことしやかに噂されている。任期半ばで、仕事を放り投げたお陰で、補選の経費が1億円とのこと。税金の無駄遣いとはこのことだ。そのせいなのかもしれないが、彼の所属していた政党から候補者が立候補していない。いや出せないのだろう。しっかりしてくれよ自、いや世襲議員ばかりの政党さん。

向田邦子さんの『海苔と卵と朝めし-食いしん坊エッセイ傑作集』(河出書房新社刊)という本なに興味深いエピソードがあった。紹介してみたい。

「友人に料亭のあるじがいる。その人が客の一人である某大作家の魚の食べっぷりを絶賛したことがあった。『食べかたか実に男らしいのよ。ブリなんかでも、パクッパクッと三口ぐらいで食べてしまうのよ』ブリは高価な魚である。惜しみ惜しみ食べる私たちとは雲泥の差だなと思いながら、そのかたの、ひ弱な体つきや美文調の文体と、三口で豪快に食べるブリが、どうしても一緒にならなかった。そのかたは笑い方も、ハッハッハと豪快そのものであるという。なんだか無理をしておいでのような気がした。男は、どんなしぐさをしても、男なのだ。身をほじくり返し、魚を丁寧に食べようと、ウフフと笑おうと、男に生れついたのなら男じゃないか。男に生れているのに、更にわざわざ、男らしく振舞わなくてもいいのになあ、と思っていた。その方が市ヶ谷で、女には絶対に出来ない、極めて男らしい亡くなり方をしたとき、私は、豪快に召し上ったらしい魚のこと、笑い方のことか頭に浮かんだ」。

説明の要もないだろうが、三島由紀夫先生のことである。ちなみに向田さんは新聞『赤旗』の愛読者であることを自ら明かしている。以前、三島先生が愛した新橋の鳥料理屋の「末げん」に同志と共に行ったことがある。女将さんに三島先生が最後に食した同じメニューをお願いした。しみじみとした良い食事会となった。※写真は、「末げん」にて野村秋介先生の一門の同志らと。


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純喫茶。

2025-02-07 11:58:16 | 日記

2月5日(水)晴れ。

昼めしは、メンチカツにキャベツの千切り添え、ナポリタンと目玉焼き、玉ねぎのスライスコンソメスープ。夜は、清風楼の焼売、水餃子、ボロニアソーセージ、レタスの温サラダ。お供は、「黒霧島」をお湯割りレモンスライス入れ。酔狂亭にて独酌。

先日、図書館の帰りに喫茶店へ入った。駅の近くにあり、そのお店の前を何年も前から通っていたのだが、入ったのは初めてのことだった。ドアを開けて店に入れば、懐かしい昭和の香りが店中に漂っていた。今では、死語となってしまった「純喫茶」だ。店内は、明るすぎず、かといって暗くもなく、落ち着いて本が読める、丁度良い明るさ。壁には、油絵が何点か、掛っており、アルトサックスの軽快なJAZZが流れていた。アメリカンコーヒーをオーダーしたら、大き目のカップに入った、とても香りの良いコーヒーが運ばれてきた。最近、スタバやドトールのようなお店の波に押されて、こういった喫茶店が少なくなった。

私が若い頃から良く通い、待ち合わせのお店として利用していた、横浜は馬車道にあった「ウイーン」も閉店してしまった。その昔に流行った歌に「学生街の喫茶店」というものがある。「君とよくこの店に 来たものさ。訳もなくお茶を飲み話したよ。学生でにぎやかなこの店の、片隅で聴いていたボブ・ディラン。あの時の歌は聴こえない。人の姿も変わったよ。時は流れた」。この歌を聞くと、なぜか「ウイーン」を思い出す。学生で賑わっていたわけではないが、通りに面した、大きなガラス張りの席が好きだった。馬車道の入口にあった、ハンバーガー屋の「珈琲屋」や「ウイーン」の前にあった映画館「東宝会館」もなくなり、人の姿も変わり、時は流れた。

そのレトロな喫茶店で、文庫本を読んでいたが、活字がほとんど目に入らず、ページの中に、過ぎ去りし日々のことが、走馬灯のように巡ってきた。次は、このお店で「モーニングセット」でも食べてみようと思った。※かつて馬車道にあった喫茶店の「ウイーン」。


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文人、軍人の書を頂く。

2025-02-06 16:37:20 | 日記

2月4日(火)晴れ。

午後から、お世話になっている方に迎えに来て頂き、中学、高校の同級生の経営する「古美術事務所」に行く。「蜷川さんが好きそうな書が手に入ったので贈呈したい」とのことで、うきうきして伺った。三島由紀夫の「憂国」の掛け軸の他に、元陸軍大臣の荒木貞夫の「震天動地」、やはり軍人で海軍兵学校を首席で卒業した海軍大将の加藤寛治(ひろはる)の「一刀両断」の掛け軸である。今年は、三島由紀夫先生の生誕100年、更に大東亜戦争の終戦から80年という節目の年に、こういった歴史的な人たちの遺墨を頂き、感激も一入である。

荒木貞夫の「震天動地」は、「天を震(ふる)わし地を動かす」とも読み、大きな事件が起こることのたとえとして使われる。荒木は、戦前、昭和維新を目指す、所謂二・二六事件の革新的な青年将校に非常に人気があった。そのため二・二六事件の後は予備役に編入された。その書が何時頃に書かれたものかは分からないが、恐らく二・二六事件を意識したものと推測される。9日の私の新春の集いで披露してみたいと思っている。

夜は、久しぶりに町のイタ飯屋の「オアジ」へ。このお店では、いつも「お任せ」にする。オーナーシェフの三ちゃんの作る料理は絶品である。二時間ほどで帰宅。


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