九月三日(水)晴れ。父の命日。
早いもので、父が亡くなってから今日で十年となる。平日とあってお墓参りには行けなかったので自宅のお仏壇に旬の果物を供して手を合わせた。
午前中は、歯医者。みなとみらいの書店で本を探すが残念ながら在庫なしとのこと。スタバで山崎洋子さんの「天使はブルースを歌う」サブタイトルが「横浜アウトサイドストーリー」(毎日新聞社)を一時間ほど読んだ。コーヒー代よりも駐車場代の方が高くて参った。
その本の中にも取り上げられているが、横浜には外人墓地が四つある。一番有名なのが、港の見える丘公園の手前にある山手の外人墓地。その次が私の事務所の反対側、つまり米軍住宅の裏手にある「南京墓」。そして横浜山手駅の近くにある根岸の外人墓地。最後は私の自宅から目と鼻の先にある「英連邦戦死者墓地」の四カ所である。(ここにはダイアナさんを始めイギリスの要人が来日すると必ず慰霊に訪れる)
あまり人の訪れることのない根岸の外人墓地には終戦後、様々な理由で、進駐軍との間に出来た子供(GIベビー)を埋葬した慰霊碑がある。横浜の悲しい歴史でもある。興味ある方は山崎さんの「天使はブルースを歌う」をお読みください。
※山崎さんの本。表紙の絵は、外人墓地に埋葬されている子供たちの供養のために平成11年5月に地元有志によって、天使の翼をイメージした慰霊碑。また、山崎さんが作詞、エディ藩が作曲、歌の「丘の上のエンジェル」という曲があります。とても素晴らしい歌ですのでユーチューブにアップされていますので是非聞いてみて下さい。
①山手の外人墓地=横浜の観光スポットの一つに挙げられる山手にある外国人墓地は、公益財団法人横浜外国人墓地の下で運営されています。横浜外国人墓地は開国にわく1800年代から、多くの外国人達の最後の安らぎの場として広く親しまれています。墓地内には日本の西洋文化への発展に関わる多くの著名な外国人の墓所もあり、歴史的な観点からも貴重な場所とされています。(管理事務所のホームページより)
※山手の外人墓地。
②根岸の外人墓地=山手駅の近くにある、山の斜面を利用した外国人墓地。 1880(明治13)年、山手外国人墓地が手狭になったため、根岸に新たな墓地用の土地が用意されました。
しかし管理をめぐって日本側と外国側の意見がなかなかまとまらず、長い間利用されませんでした。1902(明治35)年、横浜市の管理によって墓地としての利用が開始されました。
この墓地は第2次大戦後占領・接収されていたとも言われ記録類が消失したため、正確なことはわからないそうですが、埋葬者は1200人ほどで現存する墓標は200基弱です。庶民的な墓地で、経済的理由から石碑を建てられなかった人も多かったらしいです。関東大震災による外国人犠牲者の多くはここに埋葬されています。第2次大戦中に横浜港で起きたドイツ軍艦爆発事故によるドイツ人の犠牲者は、将校たちは山手の墓地に、水兵たちはここ根岸の墓地に埋葬されたそうです。 さらに、第2次世界大戦後、占領軍兵士と日本女性との間に生まれ、祝福されないまま亡くなった混血児たち900人ほどもここに埋葬されているそうです。1999(平成11)年5月に地元有志によって、天使の翼をイメージした慰霊碑が建てられました。(案内板より)
※根岸の外人墓地の入口。
③南京墓地=1873年(明治6年)横浜外国人墓地に埋葬されていた華人、華僑が現在地へ移された。 元々、中華義荘は、故郷中国へ棺を送還するまでの仮埋葬の場であったが、時代とともにここで永眠する人が増えていった。 墓地には、地蔵王廟、3階建の安骨堂(納骨堂)がある。(ウイキ)
※南京墓地の入口。
④英連邦戦死者墓地= 戦中、日本国内で死亡した連合軍捕虜約3500人のうち、アメリカ人とオランダ人の遺骨は戦後母国に持ち帰られましたが、イギリス、オーストラリア、カナダ、インド、ニュージーランドなど英連邦の人々の遺骨は横浜の英連邦戦死者墓地に埋葬されました。英連邦戦死者墓地の敷地は、戦前は横浜市の児童遊園地でしたが、戦後進駐軍に接収され、1951年のサンフランシスコ講和条約によって、ここを英連邦の戦死者墓地にすることが決められました。土地は日本政府の所有ですが、イギリスに本部を置く英連邦戦死者墓地委員会に永久無償貸与され、同委員会が管理しています。(ホームページより)
※英連邦墓地に整然と並ぶ墓標。イギリスでは海外で亡くなった軍人は亡くなった国に埋葬するとのことである。
いずれ、社友の皆さんとヨコハマ文学散歩と言ったこともやってみたいと思っています。
夜は、いつもお世話になっている同級生らと黄金町の焼き鳥屋「じえもん」での一献会。このメンバーで会うのは久しぶりのことである。その後、関内に転戦して早めに帰宅。