白雲去来

蜷川正大の日々是口実

JAZZの思い出。

2014-09-22 11:55:31 | インポート

九月二十一日(日)晴れ。

日曜日だと言うのに、上の子供は「模擬試験」とやらで朝早くから出かけて行き、下の子供は中学の同級生の行った高校の文化祭に行き、愚妻はサリーが主宰している女だけの飲み会「適当会」に行くために午前中に家を出た。従って家にいるのは私だけである。十年も前ならば、これ幸いと出かけたものだが、今はそんな元気もない。

月曜日までに入稿しなければならない原稿があるので、留守番がてらに没頭した。しかし、得意な分野の原稿ではないので文字通り呻吟しつつ、五時過ぎになってようやく脱稿。たかが四千字の原稿を書くのに随分と時間を要した。

原稿を書いている時は、テレビもステレオも聞かない。気が散るからである。しかしながら、筆が進まない時などは、誕生日に盟友からプレゼントされたBOSEのコンポで様々なジャンルの中から、その時の気分で選んで、気を休める。

最近聞いているのはオムニバスのJAZZである。初めてジャズを聞いたのは高校一年生の時。アルバイトをしていた喫茶店の店長から借りたMJQのLPである。その中で一番気に入ったのが「ジャンゴ」。この曲に出会うことがなければ、その後ジャズどころか洋楽を好きになることはなかったかもしれない。

アルバイトをしていたお店は横浜公園の前、YMCAのすぐ隣にあった「ボア」という喫茶店。隣が同じオーナーが経営するラブホテルで、喫茶店の二階からも入れるということが評判の店だった。昭和四一年、私は十六歳で確か時給は百円。間違っていなければ関内駅前のセンタービルの上にある「カウベル」がオープンした年でもあった。

その「ボア」の支店が世田谷の環八沿いに「タマリバー」というドライブインをオープンし、夏休みには週に二回ほどその支店の方に回された。横浜から東横線に乗って自由が丘で乗り換えて上野毛で降りて、玉美大の前を通ってすぐの所に、山小屋風のそのドライブインはあった。終夜営業だったので、アルバイト帰りには自由が丘にあるイソノテルヨが経営している「5スポット」に寄った。地下に降りて行く階段の壁にジャズプレイヤーの壁画のあるおしゃれな店だった。

そのお店で分かったような顔をしてしばらくジャズを聴いてから、すぐ近くにある古本屋に行くのがバイト代が入った時のお決まりのコースだ。その店で買った「林芙美子全集」は今でも私の書棚にある。

あれから夥しい時が流れたが、何かの用事で第三京浜を抜けて左折して環八を走ると、その当時のことを思い出す。そう言えば第三を出た突き当りに「馬酔木」というお店があって何度か行ったことがある。外観のイメージにマッチしない店だったが、大人として扱われたのが嬉しかったのを覚えている。

何年か前までは、私がアルバイトをしていたドライブインは、三本コーヒーのお店に代わっていたが、外観は変わらずに残っていた。ジャズの何たるかを語るほどの知識はないが、その時代の思い出と共にMJQのアルバムは今も大切に聞いている。

お世話になっている方から「秋刀魚」をドカッと送って頂いた。一人の昼食は塩焼き。家族が揃った夕食は、刺身、塩焼き、竜田揚げと料理の腕を振るった。明日は蒲焼にするか。季節を味わうこと共に、友情に感謝する次第です。

Dcim0086 ※お刺身に塩焼き、そして竜田揚げ。カボスとポン酢で味わいました。


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一筋の道を生きて来た。

2014-09-22 00:41:46 | インポート

九月二十日(土)曇り。

我が家の子供は、うどんが好きである。私は細めのうどんが好きなのだが、子供たちは太めのうどんが好きな正統派?である。突然、子供が丸亀製麺に行きたいとのことで、伊勢佐木町にあるそのお店に行った。可もなく不可もなかったが、まあいい歳をした大人の行く店ではないと思った次第。

浪人の身で贅沢は言いたくないが、どんなに金がなくても「お腹がいっぱいになればどこで何を食べてもいい」という輩とは席を同じくしたくはない。酒もそうだ。この歳になって人生の大事な一食、一杯を赤い看板の居酒屋なんかで済ませたくはない。幸いに気の合う酒友には事欠かない。そう言った人たちとの酒席こそ人生の安らぎと言える。私ももう六十五歳。人生の終盤、落日の時だ。めんどくさい話の席、義理の酒の席、嫌な奴との酒席だけは極力さ避けたいと思っている。

来月は群青忌。全国から社友が集う。これほど楽しいことはない。皆等しく野村先生のファンでありその思想を継ぐ人たちである。この人たちに会うために一年があると言っても過言ではない。それも毎年人が増えて行く。門下生冥利に尽きる。北海道、長野、栃木、関西、九州、沖縄・・・。文字通り全国から社友、同志が集う。特に何の案内もしないにも関わらず交通費やホテル代を負担して・・・。いつの日かこの人たちの恩、努力に報いたいと思っている。本来ならば、野村一門の長である私が彼らを招かなければならないのに。いつも嬉しい反面忸怩たる思いがめぐる。しかしながら、自画自賛をしても仕方がないが、恩師を慕う「一筋の道」を生きて来て良かったと思うのはこんな時だ。

保守系の雑誌や新聞が朝日に対する糾弾に力を入れている。何を今更と笑ってしまう。朝日の罪は今日に始まったことではない。それまで何をしていたのか。身体も賭けずにネットで勇ましいことを言って、いっぱし右翼や国士を気取っている連中と何が違うのか。二十一年も前に命を賭けて朝日と対峙した野村先生のことを取り上げているマスコミが一つもない。某新聞社の記者に聞く所によれば、野村先生のことを今書くと、「右翼が過激な行動に出るかもしれないから」。まあそんなことを思われているうちが華かもしれない。

最近、生涯の友として尊敬している盟友のご厚意で連れて行って頂いた上海の夢をよく見る。何故か「帰りたい」という思いが募る。もし次に行くことがあればガーデンブリッジを渡ってブロードウェイ・マンションに泊まってみたい。こんなことを書くのも、医者の忠告を無視して飲んでいるせいかもしれない。

Dscf2344 ※上海にて。夜景と料理と盟友との友情とにしたたか酔っている。

Dscf2337 ※ガーデンブリッジとブロードウイ・マンション(上海大廈)。一度ここに泊まってこれまでの人生を振り返ってみたい。


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銀座のことは夢の夢。

2014-09-21 16:31:15 | インポート

九月十九日(金)晴れ。

昨夜、大して飲んだわけではないのに起きられなかった。朝食前に風呂に入る。日が高いうちに風呂などに入ると、どうも罪悪感にさいなまれる。網走の「切通し」という農場で作業をしていた頃。当時はまだ土曜日が休みではなく、半ドンだった。農作業は体が汚れるので、一日おきぐらいに風呂に入れる。土曜日など、昼食が済んで風呂に入っていると、小窓から時折キタキツネや鹿を見る時がある。田園風景の中にキタキツネや鹿・・・。ああこれが娑婆の温泉だったらなぁー。としみじみ思ったものだ。

労働している人たちに、スマン、スマン、オスマントルコと何度か詫びて、酒のまとわりついた体をリセットさせる。冷蔵庫を開けるが、ろくな物がない。赤ウインナーに目玉焼き、キャベツの千切りに、シジミのスープで遅い朝食。メールをチェックすると群青忌が近いせいか、本の注文がちらほらあった。礼手紙を添えて発送。

夜は東京行き。久しぶりに銀座の旧日航ホテル前で友人らと待ち合わせた。横浜の片隅などにいると銀座の輝きが眩しく思える。特に、日航ホテル前はホステスと客の観察にはこれ以上の場所はない。一昔前ならば、こんな目立つところでは待ち合わせなどしないのだが。最も二十年以上も東京から離れてしまうと、例えここに一日立っていようが知った顔と会うこともない。銀座や新地のことは夢また夢。

まずは、食事とこぎれいな料理屋に入る。昨日の今日であるから、「芋」はやめて「麦」をスダチの香りで飲んだ。肴もサンマの焼いた物や焼きナスなど胃に負担のかからないものを頼んだ。このお店のハイライトは、「トリフのご飯」。初めて食べた。バターライスのように炊いた中にトリフがたっぷり入っている。これも秋の味なのか・・・。さすがに美味しかった。でも怖くて値段を聞けない所が浪人の辛さだ。

Dcim0085 ※これがトリフご飯。

その後、紅灯の巷に繰り出し、傾城と傾国(調べてみてね)と歓を尽くす。しかし嚢中不如意とあれば大言壮語に虚しさが漂う。歴史作家の小島直記氏が乞食にも上等と下等があると言ったが、私はその中間くらいか。まだ照れを捨てきれん。

十一時過ぎに、「お供」まで用意して頂き帰宅。恐悦至極。明日は、午前中に病院で検査。医者に怒られそうだなぁー。


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黒は男用で、赤は女用?

2014-09-21 15:56:45 | インポート

九月十八日(木)曇り。

社会評論家で、各年のすぐれたノンフィクション作品を表彰する文学賞の名前にもなっている大宅壮一氏は酒は全く飲めない、いわゆる下戸であった。昭和三十年代の後半。大宅壮一氏が主宰する「ノンフィクション・クラブ」と言うものがあり、そのメンバーで信州へ旅行した折の話。新宿駅で中央線の下り列車に乗る際に、ある出版社の編集長が桐の箱に入ったウイスキーを差し入れしてくれた。

宿に着いてくつろいでいると、大宅氏が草柳大蔵氏らに「さっき貰った箱入りのウイスキーを開けての飲めよ」と言うので、箱を開けてみると、何と黒と赤のジョニーウォーカーが入っていた。珍しそうに見ていた大宅氏が「おい、何で同じウイスキーなのに黒と赤の瓶が入っているんだ?」。すると草柳大蔵氏は「大宅さん、黒と赤とがどう違うのか知らないのですか」と言って大宅氏にこう説明をする。

「黒は男が飲むウイスキーで、赤は女性用ですよ。俺達は男だから黒を頂きます」といってちゃっかり高い「ジョニ黒」を飲んだそうだ。それでも一本では足りずに「女性用」も空にしてしまった。鷹揚な大宅氏は、「いいよ。女房にはおれが買って帰るから」。後日、草柳氏が奥方とお会いした時に、「大宅から旅館での一件を伺ったは。真面目な顔をして話すからおかしかった。でも無知なお年寄りをあまりからかわないでね」とたしなめられたそうだ。(「『酒』と作家たち」浦西和彦編・中公文庫)より。

若い人には考えられないだろうが。昭和四十年代では、ジョニ黒は一万円近くもしていた。当時の一万円である。友だちの家に行くと、友人の父親が、観音開きのサイドボードから、ジョニ黒を取り出して、うんと値打ちをつけられて、一杯だけご馳走になったものだ。まだウイスキーの水割りは普及していなくて、大体、ロックかストレート、もしくはソーダー割のハイボールかウイスキーサワーというカクテルにして飲むのが一般的だった。

夜は、憂国の実業家、松本洋三氏のお誘いで関内の松本氏の定宿の「舎利膳」という寿司屋に招待される。ここのオーナーは高校の後輩である。かねてから松本氏よりお聞きしており、電話では話をしたことがあったが、お会いするのは初めてである。上品な刺身を肴にワインを二本ほど頂いた。美味い肴と人間味に酔った。その後、一件転戦して帰宅。


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子供の誕生日にハンバーグ。

2014-09-19 08:48:47 | インポート

九月十七日(水)晴れ。

七時に起床。朝食は、アコウダイの粕漬け、豆腐の味噌汁に納豆。食後は事務所にて書籍の片づけに精を出す。千八百頁もある荒原朴水先生の「増補・大右翼史」(大日本一誠会発行)をはじめ黒龍会編の「東亜先覚志士紀伝」(上・中・下)三巻や、弊社が発行した「右翼・民族派総覧」などの本の写真を撮って内容をメモした。

亡くなられた先輩の遺品整理で頂いた物や、持っていても古書店で見た時に買っておいた民族派関係の本がダブってかなりある。それをデーター化して、現在制作中のホーム頁に掲載して、民族派運動に興味のある方たちに公開、販売しようと思っている。なにしろ数が膨大なので一度に掲載するのには時間がかかる。コツコツとやります。

午後は、私が役員の末端を汚している大行社の幹部会議があって東京行き。電車を待つ間、駅の書店で佐々淳行氏の「私を通り過ぎた政治家たち」(文藝春秋)を買った。車中で読んだが、これが面白いのなんのって止まらなくなった。美味しい料理と一緒で少しずつ読むか。

二時半から会議、四宮正貴先生の後に挨拶をさせて頂いた。終了後に、周本昌山副会長と渡邉淳司相談役らと近くでお茶をしてから横浜に戻る。

今日は、下の子供の誕生日。何かプレゼントをとも思ったが買いに行く暇もなかった。とりあえずは後日ということにして、家族で食事。子供のリクエストで「ハングリー・タイガー」というハンバーグ屋に行く。わが家からは十五分程度だが、家族で来るのは初めてのことだ。この店に初めて来たのはもう三十年以上も前のこと。訳あって今はなくなってしまったが「新自由クラブ」という政党から立候補していた工藤晃と言う人の選挙を手伝っていた時だ。その時に、駐車場が目立たないということで、食事のついでに暇を潰していたことがあった。その時以来だ。もちろん単に思い出だけで、感傷など何もない。

関内にも支店があって何度か行ったことがあったが、食中毒を起こしたことでいつしか撤退してしまった。(間違っていたらごめんなさい)焼けた鉄板の上にハンバーグとソースを載せるものだから油がはねる。まあそれが売りなのだから仕方がない。湯煎して暖かくなったお皿に出せば良いものを、私はこんなパフォーマンスが好きではないので、自分からは好んで行ったことはない。それでも子供のリクエストだから仕方がない。

考えてみれば、この程度の店で喜んでくれるのだから浪人の身としては有難いことだ。食後、「どうだった?」と聞いたら、「一度でいいかな」と言う返事。わが子ながら食の常識が分かっていて嬉しかった。来年は、日本大通りにある老舗のレストラン「アルテリーベ」(ドイツ語で「昔の恋人」という意味らしい)に連れて行ってあげようと思う。

帰宅後は、レンタルしていた「大統領の執事の涙」を見た。黒人としての葛藤や息子とのいさかいよりも、単純に、代々仕えた大統領の個性やエピソードをもっと表に出してもらいたかった。うろ覚えで恐縮だが、映画の中にこんな台詞があった「アメリカはよその国の人権やしたことに干渉するが、自分の国で行われてきたことに関しては無関心である」。まったくその通り。しかし、アイクからオバマまでの時代を引っ張るのはいくらなんでも無理じゃないの。と思った次第。☆三つ。時間があれば。という感じでした。もちろんこれは私の個人的な感想です。


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