白雲去来

蜷川正大の日々是口実

太陽がいっぱい。

2024-08-21 19:18:04 | 日記

8月20日(火)晴れ。

野村先生の獄中句集『銀河蒼茫』の夏の「俳句日記」に、「はげしかった昨夜来の雨は小気味よく晴れ上った。昼少し前、何気なく空を見上げると純白の夏雲が見事に聳えていて、その輝々きはまばゆいばかりだった。颱風が近いせいか真青な空だ。私は鉄格子に頬を寄せて、暫時放心してその夏雲に見惚れていた。快晴。午後より暑し」とある。今日の青空は、先生の見た青空と似ているだろうか。

アランドロンの訃報。私が、初めてレコードを買ったのは、アランドロンが主役を演じた有名な映画『太陽がいっぱい』の主題歌のサントラ版だった。伊勢佐木町の七丁目にあった「美音堂」というレコード店。母から誕生日のプレゼントとして、ポータブルプレイヤーを買ってもらい、レコード店へ走った。私は中学の一年生だった。「太陽がいっぱい」のロケ地は、イタリアのナポリ湾にあるイスキア島。一度は行って見たいと思っていたが、もう無理だ。ちなみに私の携帯の待ち受けの曲も『太陽がいっぱい』である。

アランドロンの映画では『冒険者たち』も好きで、その映画で共演した女優の「レタィシア」ことジョアンナ・シムカスのファンだった。確か、『夜の大走査線』の主役のシドニー・ポアチエと結婚したと記憶している。

私が、子供の頃の洋画と言えばフランス映画かイタリア映画だ。アランドロンの他にはジャンポール・ベルモンド、ジャンギャバンなどの映画を良く見た。イタリア映画では、忘れられないのが『ニューシネマ・パラダイス』や『グランブルー』『ひまわり』『自転車泥棒』『鉄道員』など。皆、主題歌がとてもいい。

夜は、お世話になっている方と、久しぶりに「やまと」にて一献会。九時前に帰宅。


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一週間のハワイ旅行が400万円の時代。

2024-08-18 12:31:13 | 日記

8月17日(土)晴れ。

昨日の台風は幸いに我が家の周辺は雨風共に心配するほどではなかった。まあ我が家が大丈夫だからといって、被害にあった地域もあるのだから素直に喜べない。今日は、台風一過の晴天に猛暑。2,3年前の日記を見ると、夜はクーラーを使わずに扇風機でしのいでいた。まっクーラーも昔ほど電気を使わなくなったようだが、それにしても「勿体ない、贅沢」との言葉が頭から消えることはない。

東京で前回のオリンピックが開催された昭和三十九年、私は十四歳で中学の二年生だった。その頃、外国は本当に遠い国で、まして飛行機で海外に行くなど夢また夢のことだった。この年、政府関係者か業務、留学に限られていた日本人の海外渡航が「年一回、外貨持ち出し五百ドル」までの制限つきで自由化された。当時のドルは1ドル360円だった。日本旅行業協会によると、自由化一週間後にハワイツアーが組まれ、羽田から飛び立った。ハワイ七泊九日の旅で料金が三十六万四千円。大学卒の国家公務員の初任給が一万九千円の時代、現在の物価に換算すると、何と四百万円にもなるそうだ。文字通り庶民には高根の花だった。

 私が、初めて海外に出たのは、平成三年の十二月で四十歳の時だった。野村先生のお供をして連れて行って頂いた香港で飛行機はキャセイパシフィック。成田空港に行った時に、「北ウイング」の表示を見て、中森明菜さんの同名の歌がオーバーラップした。トランクもレンタル、初めて取得したパスポートを持って、香港に着いた時は、感激したものだった。この頃は、飛行機は禁煙ではなかった。いい時代だった。それから、様々な国へ、随分と旅をしたが、成田空港に行くと、明菜ちゃんのその曲が、今でも脳裏を巡る。しかし残念ながら、まだハワイの地を踏んでいない。いつかは、パールハーバーを訪れてみたいと思っている。


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靖国神社へ。

2024-08-17 14:28:56 | 日記

8月15日(金)晴れ。終戦の日。

今日の日、しばらく靖国神社への参拝を避けていた。7月の「みたままつり」に終戦の日の思いを込めて、更には日清・日露、そして約300万人が亡くなられた大東亜戦争の英霊に感謝の誠を捧げようと、役員の末席を汚している民族革新会議の皆さんと共に昇殿参拝をする。それが私なりの慰霊の日としていた。なぜ8月15日を避けていたか、それはどう見ても戦争に参加したことがないと思われる年齢の人たちが軍服を着て境内を行進する姿や、左翼のデモなどの「喧騒」を見聞きするのが嫌だったからだ。

しかし、この時期にしか仕事を休めない地方の社友や同志の人たちがいる。そういう方たちが純粋に慰霊の思いをもって上京し、靖国神社に来るのに、私が行かないのは礼を失すると思い、久しぶりに社友と共に靖国神社を訪れた。青森や那須塩原の社友の方たちと会い、来て良かったと思った。特に、昭和50年の核拡散防止条約の反対運動以来の同志である笠原正敏さんが体調が良くない中での参加には感激した。お会いするのは何年ぶりのことだろうか。

正午、揃って黙祷。私は靖国神社に参拝するとき、思い描くのは、火だるまになって敵艦に突入する神風特別攻撃隊の人たちの姿だ。記憶違いかもしれないが、確か『世紀の自決』という本にあったと思うのが、国破れ 乱れる御代と なりしとも いつか香らん 靖国の華。という歌。

其の後、参加した同志たちと上野の「ライオン」にて一献。

 


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桜応援団の暑気払い。

2024-08-14 18:01:33 | 日記

8月12日(月)晴れ。

朝食は抜いた。昼は、家族で頂き物の「うなぎ」で「うな重」。随分前に、ネットで鰻用の重箱を家族分買った。一度使ったきりでそのままになったいたので、久しぶりに使った。冷凍鰻はセオリー通りに塗ってあるタレを洗い流してから、キッチンペーパーで水けを取り、フライパンに鰻を入れて酒蒸しにした。国産の鰻なのでかなり美味しかった。不埒な贅沢三昧。

午後は、保土ヶ谷駅で志村馨君と待ち合わせて、東京行き。6時から「拉致問題」を熱心に取り組んでいる「桜応援団」の「暑気払い」が銀座松屋の屋上のビヤガーデンで行われ出席。桜応援団の皆さんは夕方まで有楽町の駅前で拉致問題の署名運動を行っており、一門から大熊雄次氏が参加。猛暑の中で頭が下がる。増元照明さんや近藤誠氏、伊原久美子さんなど桜応援団の方々と楽しいひとときを過ごした。いつも思うのだが、北朝鮮に拉致された被害者の方々の奪還を難しくしているものは、幾つかあるが、一番は「国民の無関心」であると思う。そういった意味では、桜応援団の皆さんの毎月の街頭署名活動には頭が下がる。ご苦労様でした。その署名活動の様子が、当日の7時のNHKニュースで報じられた。※写真は、その時の様子。林 雄毅さんのFBよりお借りしました。

 


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犯行声明書や檄文のない直接行動は、闇に葬られる可能性がある。

2024-08-12 11:31:30 | 日記

8月10日(土)晴れ。

6日の火曜日に某月刊誌からの取材を受ける。事務所でもと思ったが、遠いしクーラーの効きが悪いので、京急の井土ヶ谷駅で待ち合わせて、近くの喫茶店へ。この喫茶店は昭和のムードが漂うお店なのだが、喫煙が可能で、煙草を吸わない私は、匂いに慣れるまで臭くてまいってしまう。取材の内容は、「トランプ大統領の狙撃と右翼テロ」というような内容だった。私は、直接行動を否定しないが、もし行うとすれば、「犯行声明」や「斬奸状」もしくは「決起趣意書」を用意しなければならないと思っている。そうでないと、何のために行ったかという大義が明らかにされないからだ。

トランプ銃撃の犯人も「声明書」を用意していなかったために(用意していたかもしれないが)何のためにトランプを狙撃したかが明らかにされていない。安部元首相の狙撃もそうだ。巷間「統一教会への憤怒」が定説となっていてるが、果たしてそうなのだろうか。岸田総理への爆裂弾投擲も、何のために岸田総理を狙ったのかがはっきりしない。そうなると、権力側からの発表のみとなり、悪くすれば「狂気の沙汰」で片付けられてしまう。それでなくとも直接行動は「売名」や「自己顕示欲」といった言葉で発表されることが多い。権力側が、左右を問わず体制側への直接行動(テロ)を認めることは、自らの立場を危うくすることで、「売名」もしくは「狂信的・自己顕示欲」で済ませば、責任を免れるからである。安部狙撃、岸田爆裂弾事件の後半の報道すらされていない。

経団連事件の時もそうだった。隊長だった伊藤さんと西尾さんのお二人は三島由紀夫が創設した「楯の会」の会員、森田忠明さんは伝統ある正統派の民族派の大東塾の関係。皆さん早稲田など大学出。野村先生は、河野邸焼き打ち事件で12年を獄中に過ごした、筋金入り。確か東京新聞だったと記憶しているが、この人たちを称して「昔チンピラ、今新右翼」と誹謗した。私には、そんな記事を書いた奴の方が、よほどチンピラだと思うのだが。

8月9日の産経の「正論」で、自称保守の八木秀次とかいう麗澤大学の教授が、昭和5年11月に東京駅で時の首相、浜口雄幸を狙撃した佐郷屋先生里ことに触れてこう書いた「犯人は右翼結社の構成員で、浜口が心血を注いだロンドン海軍軍縮条約を天皇の『統帥権干犯』との不満を持っていた。取り調べで『統帥権干犯とは何か』に答えられなかった」と。何を根拠に八木は書いたのだろうか。その資料を見せてもらいたいものだ。他の同志に類を及ばせないために、事件の核心を敢えて「知らない」と言うこともある。事件から26年経って発売された『日本週報』の昭和31年12月号に佐郷屋先生が「なぜ浜口首相を殺したか」という一文を寄せている。事件の背景や当時の世相が良く分かる。※荊軻、易水送別の画。


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