白雲去来

蜷川正大の日々是口実

雨を見たかい。

2024-12-24 14:58:57 | 日記

12月23日(月)晴れ。

若い頃に流行ったCCRの「雨をみたかい」という歌がある。そういえば随分と雨が降らない。日記帳を見ると11月22日が最後で、もう一ヵ月以上雨を見ていない。冬の日の雨は、寒い中に降るから好きではないが、雨を必要としている仕事の人もいるだろうに、とかくこの世はままならない。

野村先生の句に、「風花や 妻子への思慕すぐに消す」というものがある。その「風花」とは、青天の時にちらつく雪のこと。雪片が桜の花びらのように空に舞うところからこの言葉が出来たのだろうが、気象的には、遠方の山岳付近に風雪が起こっていて、それが上層の風に送られて、風下の山麓の地方に飛来するのだという。横浜などでは、あまり遭遇することはないが、何年か前の冬、伊豆高原に断食に行った折に、その風花をみることがあった。前にも書いたが、雪を「美しい」などと言ったら、新潟や東北で雪と格闘している人達に申し訳ない。

昨日の産経新聞の書評にあったのが『日米史料による特攻作戦全史』という本。産経書房編集班による今年のノンフィクション部門で1位になった本だ。出版されたときから気になっていて、入院する際に病室で読もうかと思って書店に行ったら置いてなかった。書評を読んで、迷っているが何せ6820円もする。年の瀬に来て本に1万円近くはとちょっとためらっている。

先の大戦で米艦艇が受けた旧日本軍のカミカゼ攻撃」の全容を記した。特攻を受けた米艦艇の様子や艦艇ごとの損傷状況・戦死者数・負傷者数などを記録。特攻作戦について、体当たり成功率なども用いて分析した上で貧弱な国力をはるかに上回る成果を得られることを日本軍は実証したこと評価し、旧日本軍がなぜ敗戦を覚悟しながら特攻を続けたかを読み解いている。特攻機がやみくもに体当たりしたのではなく、目標や戦術があったことが分かる。(産経書房編集班)
 

 


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年末雑感。

2024-12-23 11:58:26 | 日記

12月22日(日)晴れのち曇り。

朝トイレに行く時に、ついでにリビングの暖房をつける。そして再び布団に入って後10分、後10分とだらだらして、暖房が効いて来たころにリビングで着替えを済ませる。こんな寒い時に朝から会社に行ったり、働いている人たちに、すまん、すまん、オスマンサンコン。と心で詫びて、もう何年も盟友から贈って頂いている「タピポ茶」を飲みながら新聞に目を通す。このお茶のお陰で、恙なく暮らしている。

取っているのは『産経新聞』のみ。楽しみにしているのは「朝晴れエッセー」と元巨人軍の張本勲さんの「話の肖像画」。家にお風呂がなかった小学生の低学年の頃。銭湯に行くと競って下足番の「3番」に入れた。もちろん長嶋茂雄さんの背番号である。そこが埋まっていると、王選手の「1番」か川上哲治さんの「16番」。全部埋まっているとがっかりしたものだ。張本さんの「話の肖像画」を読んでいて、ふとそんなことを思い出した。

過日、横浜の「アメ横」と言われている松原商店街へ行った。八百屋でなるべく細いネギを探し、あれば買う。細くなければだめで、余り細いと売り物らならないのかめったに出会うことがない。2センチぐらいに切って、串にさし、塩コショウをして焼く。焼き鳥屋の「いかだ」である。なぜかこれが好きだ。後は「魚孝」でマグロ。見ても分からないので「3千円分」といって買う。当然当たりはずれもあるが、自分が分からないのだから仕方がない。この時期には、マグロの他にタラバガニ、ズワイガニがドカンと並べられている。なるべく目を合わせないようにして店を出る。飲み屋のお金は躊躇せずに払うのに、一肩1万4千円、5千円の値段を見ると、ためらってしまう自分がいて、忸怩たる思いにかられながら店を出る。

年末、商店街に買い物に行くと、幼い頃に母のお供をして、京急の南太田駅に近い、「ドンドン商店街」に行ったことを思い出す。今のように、大晦日や元旦からでも開いている大型スーパーやコンビになどない頃だから、地元の商店街が買い物の主流だった。おせち料理の素材、和菓子屋に頼んでおいたお餅、野菜類やみかんなど、両手に一杯持って家に帰った。母の役に立っているということが、チョッピリ嬉しく、歩いて二〇分ほどの道のりだったが、母の笑顔が、今でも浮かぶ。この日ばかりは、狭いアパートの中が、食料で溢れて、子供心にも、何か幸せな満ち足りた思いがしたものだ。今では、その商店街の面影もない。

夜は寒いので、寄せ鍋の〆に頂き物の「五島うどん」を入れて食べた。ふと熱燗が飲みたくなって、やはり頂き物の「栄川」を温めて時代物の「ぐい吞み」を使って飲んだ。亡くなられた阿部勉さんの顔が浮かんだ。


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ブログやXが更新されずにいる。

2024-12-22 12:07:38 | 日記

12月21日(土)晴れ後曇り。冬至。

好きなブログやフェイスブック、Xがある。どこの誰だかは分からずに、単にその人たちがアップする内容が好きで開いているものもある。困ってしまうのは、何の事情かは分からないが、その人たちの書いているものが更新されずに、一月、二月もそのままになっている事だ。過去にも、横浜のB級グルメのお店を丁寧に紹介してくれる「酒場放浪記」の様なものがあり、毎日の更新を楽しみにしていた。その方のブログが、ある日、止まったままで更新がない。文脈から独身と言うことが感じられるので、突然亡くなられたのかもしない。最近でも、そういうブログがあった。ご主人を亡くされた方の「食日記」みたいなものだが、ファンだったが、もう一月ほど更新されていない。「余命宣告」を受けた知人のXもある日を境に止まったままだ。ご家族に連絡をして「亡くなったんですか」などと聞くわけにも行かず、後味の悪い思いをしている。思い出したのは、歌人の中條ふみ子のこと・・・。

歌集『乳房喪失』で知られている中條ふみ子は、死の一年前の昭和28年、三十一歳の時に乳がんのために左乳房を摘出、その過程や結果を歌集『乳房喪失』の中に大胆に歌った。以後、死に向かって進む日々の生を見つめ続け、その呼吸を透徹した諦念のごとき表現の中にうたった。その中の一首に「灯(ひ)を消してしのびやかに隣にくるものを快楽(けらく)の如くに今は狎(な)らしつ」。意は「灯りもつれずにこそりと隣に忍び寄ってくるもの・・・死の影を、私は今ではあたかも快楽ように狎れ親しんでいます」(『辞世の歌』松村雄二著・笠間書院)。恥ずかしながら、とても真似のできることではない。

冷ややかにメスが葬りゆく乳房とほく愛執のこゑが嘲(わら)へり
枯れ花の花輪を編みて胸にかけむ乳房還らざるわれのために
葉桜の清く悲しむうつぶせのわれの背中はまだ無傷なり

ふみ子の情念と諦念が伝わってくる歌である。

十勝生まれの中條ふみ子の波乱万丈な人生を描いたのが、渡辺淳一の『冬の花火』。読んだのは、随分前の事で、北海道時代の事だ。寒さに震えながら、読書三昧の修行をしたことが、とても懐かしい。

冬至と言うことで、「ゆず」を二個買った。ゆず湯にはいった家族は「ほとんど匂いがしなかった」。ケチるのではなかった。

 


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初氷の報あり。

2024-12-21 16:14:54 | 日記

12月20日(金)晴れ。

ボヤーっとしているうちに師走ももう二十日。今年も残り少なくなってまいりました・・・。と手紙の常套句が浮かぶ。考えてみると、今年は良いこともあったが、何といっても6月と12月の二階の入院に尽きる。それぞれ一週間ぐらいの入院で済んだが、年明けにはじん臓の生検査の結果が分かる。大事にならなければ良いのだが、と思っている。寒いと思ったら、「初氷」の報あり。初氷何して過ぎし昨日かな。とは横浜に縁の深かった中村汀女の句である。

12月は、世界情勢も動乱の月か。お隣の韓国では、殿のご乱心で時代錯誤の戒厳令が出された。忠臣蔵の季節だったので、刃傷松の廊下がダブった。各々方(おのおのがた)、各々方、お出会いそうらえ、尹大統領、国会で戒厳令にござるぞ。シリアもロシアの後ろ盾がないと、あんなにアッサリと政権を投げて出して逃げ出してしまう。我が国の石破政権も、誕生当時は崖っぷちに立たされていると思っていたが、何の、低成長横ばいで何とか持っている。私の健康と同じだ。

誰のエピソードかは失念したが、ある人が事業に失敗して暮れのモチ代にも窮した。そこで、恥を忍んで昔世話をしたことのある友人宅に行き、そっと自作の句を差し出した。それを読んだ友人は、旧友の窮状を察し、なにがしかの金を渡したそうだ。その俳句とは、「貧乏に追い越されけり年の暮れ」。


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駒形の鰻の前川。

2024-12-14 16:45:12 | 日記

12月13日(金)晴れ。

腎臓疾患の検査で入院しているために、当然ながら病院食は味も素っ気もない。刑務所(行ったことはありませんが(笑))の飯よりも10倍不味い。薬を飲む都合があるので、とりあえず、少しだけ口にする。お陰で、入院3日目で体重が5キロも落ちた。毎年行っている伊豆高原での断食と変わらない。

体調が悪くて入院しているくせに、お腹が空いて思い浮かべ目のは鰻やフグに鉄板焼き・・・。特に鰻は好きでたまらないのだが、最近は、Aランクの牛肉よりも高くなって、私のような浪人には、そう度々口に入るものではなくなった。うな重の蓋を開ける時のワクワク感が溜まらない。頭の中に、ジャジャジャーンと音が鳴る。つい先日も、盟友のご厚意で200年も続いている鰻の老舗、駒形の「前川」にご相伴にあずかった。そのお店を知ったのは、「フーテンの寅」さんシリーズである。何作目かは失念したが(どなたかご存知の方がいましたら教えて下さい)、そのお店が出ていた。何でも池波正太郎さんも御贔屓にしていたとのこと。以前から車で駒形橋を通るたびに「前川」の看板が見えて、いつかはと思っていた。

お店に行った時は、日も落ちて夜の帳が下りていた。ライトアップされた駒形橋、隅田川を行き来する屋形舟やシーバス。そしてスカイツリーにアサヒビール本社のオブジェなどが見える。それらが、鰻の味を余計に引き立てている。肝焼き、白焼きにうな重。日本酒の熱燗。至福の時である。

鰻好きで知られているのが歌人の斉藤茂吉。その記念館の運営に尽力した、林谷廣氏の著書『文献 茂吉と鰻』という本に、「ゆふぐれし机の前にひとり居りて鰻を食ふは楽しかりけり」と詠んだ昭和三年には、実に六十八回も鰻を食べている。何と五日に一回の割合で食べているのだ。自宅他、銀座の「竹葉亭」、青山「佐阿徳」、浅草「前川」など都内のあちこちの店に行く。とある。

退院したら、その足で東神奈川の「菊屋」か吉田町の「八十八」にでも行くか。懲りねぇな―。※前川から見た墨田川。

 

 


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