白雲去来

蜷川正大の日々是口実

ブログやXが更新されずにいる。

2024-12-22 12:07:38 | 日記

12月21日(土)晴れ後曇り。冬至。

好きなブログやフェイスブック、Xがある。どこの誰だかは分からずに、単にその人たちがアップする内容が好きで開いているものもある。困ってしまうのは、何の事情かは分からないが、その人たちの書いているものが更新されずに、一月、二月もそのままになっている事だ。過去にも、横浜のB級グルメのお店を丁寧に紹介してくれる「酒場放浪記」の様なものがあり、毎日の更新を楽しみにしていた。その方のブログが、ある日、止まったままで更新がない。文脈から独身と言うことが感じられるので、突然亡くなられたのかもしない。最近でも、そういうブログがあった。ご主人を亡くされた方の「食日記」みたいなものだが、ファンだったが、もう一月ほど更新されていない。「余命宣告」を受けた知人のXもある日を境に止まったままだ。ご家族に連絡をして「亡くなったんですか」などと聞くわけにも行かず、後味の悪い思いをしている。思い出したのは、歌人の中條ふみ子のこと・・・。

歌集『乳房喪失』で知られている中條ふみ子は、死の一年前の昭和28年、三十一歳の時に乳がんのために左乳房を摘出、その過程や結果を歌集『乳房喪失』の中に大胆に歌った。以後、死に向かって進む日々の生を見つめ続け、その呼吸を透徹した諦念のごとき表現の中にうたった。その中の一首に「灯(ひ)を消してしのびやかに隣にくるものを快楽(けらく)の如くに今は狎(な)らしつ」。意は「灯りもつれずにこそりと隣に忍び寄ってくるもの・・・死の影を、私は今ではあたかも快楽ように狎れ親しんでいます」(『辞世の歌』松村雄二著・笠間書院)。恥ずかしながら、とても真似のできることではない。

冷ややかにメスが葬りゆく乳房とほく愛執のこゑが嘲(わら)へり
枯れ花の花輪を編みて胸にかけむ乳房還らざるわれのために
葉桜の清く悲しむうつぶせのわれの背中はまだ無傷なり

ふみ子の情念と諦念が伝わってくる歌である。

十勝生まれの中條ふみ子の波乱万丈な人生を描いたのが、渡辺淳一の『冬の花火』。読んだのは、随分前の事で、北海道時代の事だ。寒さに震えながら、読書三昧の修行をしたことが、とても懐かしい。

冬至と言うことで、「ゆず」を二個買った。ゆず湯にはいった家族は「ほとんど匂いがしなかった」。ケチるのではなかった。

 


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