6日から、遅れた新学期が始まる準備のため大学に、SBDCの日直終了後なので夜に出かけ、
夜10時頃に自宅に戻ったところ、暗闇の中から子猫のけたたましい鳴き声が聞こえる。
声はすれども姿は見えずで、まず玄関を開け、明かりを確保すると、ダンボールが目についた。
声はその中から聞こえるので開けると、4匹いました。
一匹は、動きません。でも、かすかな鼓動は手に伝わってきました
ほかの3匹も泣いてはいますが冷え切っています。
緊急事態です(動物は積極的に飼うと言う意思は私にはないのです。
行き倒れ寸前のになっているとやむを得ず引き取っているだけなのです。)
まず、ホットカーペットの上に箱をしつらえ、元気な3匹は箱の中に置き
動かない一匹は暖めるためにボディーマッサージ。声が出てきました。
まだ目も開いていない子猫です。
お乳が必要な時期です。
排泄も、親が舐めることでの時期のはずです。
我が家には、大人の猫のえさしかありません。
やむを得ず、カロリー補給のため、砂糖水をスポイトで
口にゆっくり、吸い方にあわせて飲ませました。
大きめの茶虎2匹は、すいっぷりも力強いです。
黒白縞は、鳴き声は大きいのですが、気むずかしそう。それでも、飲んでくれました。
幽冥境で対面した白がち黒は、ほか3匹と比べて小さい。吸い込みも弱い。
卵の黄身を薄く水で伸ばしたのも与え、
牛乳は猫にはだめといわれていますが、自宅の猫は下痢もせず好物なので
親猫もいないので、牛乳も与えました。
ひとしきり、膝の上を動き回っていたのですが、
おなかもきつくなったのもあってまどろみ、眠りに入りました。
ホットカーペットの箱に戻して、
定住している迷い猫2匹の相手です。
名前は、ラダー(はしご);雌 黒、グレー、茶の縞だったので名付けたのですが、
栄養失調のための縞々だったようで、今は黒猫です。
ロスト(家なき子);牡 震災のある日、
大きなスパンコールのついた黒リボンをつけた猫が、
震災作業で解放してあった車に座っていて、
逃げる気配もないのでとりあえず引き取り、
目下元の飼い主捜しをしています)。
子猫の出現に、ラダーは敵意むき出し。ロストは驚いていますが見ているだけです。
私が寝床についたら、枕元に2匹がよってきて、
一晩中私の頭に左右からくっついてはなれずにいました。
かなりのショックで、いつもとは違って、私にぴったりとくっついていたかったのでしょう。
今朝は、首がいつも以上に固まっています。
離乳前の子猫を、死なせずに済ませるのは、
代理のいないので休めない仕事をしている私たち兄妹には、
厳しく、頭脳的に対応しないと無理そうです(人手を煩わせる価値はありやなしやと自問中)。
離乳前の子猫を育てたのは、親猫、愛しい”とら”とムーサの経験しかありません。
(親猫のいない子育ては初体験なのです)。
8匹の子猫を2回も生んだ、チンチラの捨て猫ムーサの経験だけです。
1997年、法事から戻ってみると、悄然とした雰囲気で”とら”が迎えてくれました。
たらぽんぽと母が呼んだムーサをさがしました。兄の部屋でえさを食べています。
何も変わったところはないかと思ったのですが、かぼそい子猫の声が聞こえました。
押し入れで産み落としていたのです。でもお乳をやる気配はありません。
右往左往しましたが、母猫は乳を与えず、我一匹えさを食い、子猫は餓死。
次は、まもなく愛しい”とら”と”ムーサ”の子猫が8匹うまれました。一匹は、圧死でした。
ムーサは、発育のよい3匹をつれ毎日引っ越しをするので、
行方不明の親猫を探して、均等に乳が行きわたるように、人手を加えました。
子猫が乳を飲んでいる間、”とら”は、子猫のおしりをなめていました。
ムーサは、7匹の子猫のお乳のために、たくさんたくさんたべていました。
”とら”は子猫のしつけをし続けました。
牡猫の、子煩悩な一面を”とら”はみせてくれました。
病院で、野良猫集団を見ていると、
猫の牡は、非特異的に子猫に対してしつけをしている様に思えます。
ロストは、生育した牡猫として活躍してくれることを期待しているところです。
子育ては、エネルギー、体力、と若干の経済力が必要。
大変です。
子猫用のミルクを購入し、とりあえず生き抜かせ、それからは……。
タローに会いに行ってきました。片ひげのない眠り猫。
長谷川潾二郎の絵画態度を物語る伝説の1枚。
気持良さそうに眠るタロー。
タローの履歴書から、凛とした、わが意向を曲げない、潾二郎その人かな?
今、宮城県美術館に展示されている猫の絵は?という質問がありました。
猫は何匹?この数字は一致しません。
佐藤忠良展の1枚の挿絵にはたくさんの猫が描かれていました。
タロー関連で、
わが愛猫の眠りスタイルの写真がたくさん貼られたパネルがありました。
自慢したい猫は、思い出の中にあるぞと心の中に呟いて美術館をあとにしました。
捨て猫だったけれど正真正銘のチンチラシルバーだった、我が家の一員であった猫の名前です。
1996年秋ごろから出没していた。
翌年の春になって、ピンクの地肌がむき出しになって、玉になった体毛をひきづっていたので、捨て猫だったんだということで、藤野犬猫病院に診察に連れて行った。季節ごとに毛が生え変わる現象で、皮膚病でないということで、丸刈りにされ、齋藤家の一員となった。
一日目は、母は、”たらぽんぽ”ちゃん、私は、”むさくるしや”と呼び、名前を考えた。
ギリシャ神話の女神(雌猫です)の名前をいただいて”ムーサ”と命名。
帰宅すると迎えに出てくれていた。
昨年秋ごろ、瞳孔が大きく開きっぱなしになるのに気がついた。
目の奥が赤く、眼底出血ということで、病院を受診したが、回復せず。
失明したが、記憶を頼りに注意深く、自宅の外を歩き回り、帰宅が遅いと探し回るのが、兄と私の日課となった。
高齢でもあり、次第に外出時間も少なくなり、
22日帰宅すると、右足が麻痺していた。歩こうとするとぐるぐる回るので、手で支えながら少し歩かせると、横になるのを繰り返し、翌火曜の23日は少し麻痺が軽快したようにも見え、水も、高齢猫用の缶詰も食べ、家の中を少し歩いた。
24日の朝、足に力なく、歩けない。スポイトで水を与えてもむせた。
天に向かって登って行くように足を動かし続け、到着して万歳したのかな?頭の力が抜け、呼吸が浅くなり、7時50分亡くなりました。
とりわけ、母と兄になつき、私には、縁が薄い猫と思っていました。
家族の一員がまた減ってしまったという寂寥感が強く襲って着た自分に驚いています。
パーティにでた、ステーキ、ケーキをお土産に持って帰って(これが、病を呼んだと後悔もしています)も、喜んでくれるものがいなくなった。