連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

弔辞:宇塚 善郎先生 に捧ぐ

2015-05-27 17:41:13 | 血液専門医宇塚善郎
日本血液学会功労会員、仙台富田病院院長
旧仙台疾患センター院長、
宇塚善郎先生が、平成27年5月23日 午後5時30分 永眠されました行年88歳でした。
自分の体調に合ったスタイルで診療を続け、生涯現役を貫いて急逝されました。

5月27日 午後1時から 仙台 斎苑で告別式が営まれました。
戒名は、宝寿院無量医光善照清居士 に捧げた弔辞です。


弔辞
先生の人となりを知る友人の多くの方はこの世を去りました。40有余年の間先生の近くで研究、診療をすごした齋藤淑子が、先生の御逝去に際し、謹んで弔辞を述べさせていただきます。

栃木県清洲村の旧家の跡取りとして生を受けた先生は、農林省の役人として全国に赴任して家を不在にする父の名代として幼き日から祖母“つや”様から古今の記憶に残ることわざによる薫陶を受け、19代当主として、母屋の新築、3層の池を備えた江戸時代に築ずかれた庭の整備、家周囲の壁、そして二層になっている長屋門の改築を成し遂げ、1200年代から続く家の維持への気概を示されました。

旧制栃木中学校時代は小高い丘から、通学のバスに間に合うように駆け下り、養った健脚で、旧制四高入学後は、陸上部に入部し、長距離のエースとして期待されましたが、病を得た休学中に医学部を志すようになり、病床に臥せっていた当時の気持を、親しみやすいウイットに富んだ患者との語らい、医師として治すという強い気持を持ち続けた診療に結実させたお心は、学ぶことの多いお姿でした。

インターンとして過ごされた竹田総合病院時代では、ほかの先生への苦情を訴えていた患者に “文句ばかり言う前に気持ちを表す礼でももっていけ”と諭した先輩外科の先生の貴賤をつけない自負を持った医師としての姿勢に感銘を受け、気仙沼病院時代の、往時の先生の真摯な診療姿勢を懐かしんで、数十年経ても、仙台血液疾患センターを訪問していただいた方々いらっしゃったことは、信頼を得る大事さを教えていただきました。
 
白血病の宇塚というイメージが定着していますが、東北大学第3内科に入局まもないころは、ミノファーゲンが肝臓の機能障害を改善するという報告、マイトマイシンにより胃がんは瘢痕まで縮小するなどの報告をされ、固形など多岐にわたる研究をされていたようで、広い知識が、血液疾患の診療に反映され好成績をえるには必要だということを教えていただきました。

1976年東北ジャーナル、山形教授退官記念号に掲載された英語論文が欧文誌で取り上げられ、さらには国立がんセンターの故木村禧代二先生の目に留まり、日本初の集学的研究の共通テーマに取り上げられ、名古屋大学の故山田一正先生によりDCMP2段治療と命名され、先生は時代の寵児となられ、担当医師による成績の違いに驚いた、私は、先生の門をたたきました。その後、多くの国際学会にともに参加させていただき、アメリカのゲール博士からライバル視される存在の先生、白血病の化学療法を治癒可能な成果を挙げた世界で最初の医師として1980年のモントリオール国際血液学会の教育講演で紹介された時は、日本から出席されていた先生方からどよめきが起き、先生は弟子一同の誇りでした。

患者の救命のため日常診療に費やさなければならない時間の多さゆえ、タイムリーな業績報告は勢い少なくならざるを得ず、多くの有益な方法、成績を死蔵して世を去ったことは憂慮すべきことであり、弟子の力不足ゆえに苦汁を味わせてしまったと、深い自戒の念を感じております。かならずや、投稿し上梓を目指して努力を続けることをここでお誓い申し上げます。

先生が退官した1990年当時は、血液専門医の不足は著しく、患者の不安にこたえるべく、日本初の血液専門病院、研究所を併設した仙台血液疾患センターの開設という大英断をされました。万巻の書を読み、研究に基づいた、あきらめ無い診療姿勢は、患者、家族の信頼を得て、重篤といえども希望を抱けることで、明るく、病院に見学に訪れた方に深い感銘を与える病院を運営されました。
旧式の光学顕微鏡による網膜焼灼による右眼失明に加え、2004年に罹病した脳幹部梗塞の影響は、弱視であった左眼も徐々に視力が低下し、東日本震災後ごろからは足元の確認もおぼつかない状態でありましたが、先生の名言“重症患者に助けられ”と周囲の援助の手を快くうけいれる態度へと変化し、日々の診療を自分の状態に合わせて続けていらっしゃられる姿は、かっての独立独歩でさっそうとしたスタイルが好きな先生を知るものとしては、変容のありようを学ばさせていただきました。

多くの訓戒のことばと長きにわたるご指導を感謝しつつ、今後は叱咤激励の励ましの声をいただけない、先生とこの世のわかれに戸惑いと深い悲しみを覚えています。
安らかな冥府の世を楽しんでください。
再び永世の世で再開することを心から願いつつ、しばしのお別れを申し述べて弔辞とさせていただきます。

                                      平成27年5月27日 齋藤淑子





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入院長期化と退院勧告

2015-05-21 12:12:16 | 健康・病気
入院で支払う,入院料は,施設により大きく異なります。
薬剤費、手技量、検査料は,実施量によるだけで、基本的にはどこでも同じです。

医学管理料は、

高度な医療を提供する,大学病院、公的機関の名のある病院など急性期医療をになっている病院は、高額です。
高額とはいえ、入院当初から、週,,月と入院期間が長引くと,急速に減額されます。1ヶ月後には,ほぼ半額。

さらに,入院期間長期化患者の割合が増えると、高額の医学管理料のシステムからの脱落になります。

ということで、急性期医療を担う病院では、28日以内に退院が経済の生命線を握っているので,情け容赦なく退院勧告!

入院長期化に伴う退院勧告はいつごろだろ。
始まりは、今の高齢者対応ではなく,治療をしても,病状は改善しない疾患、難病指定となる様な病気の患者、癌化学療法をしている患者などでした。

大学病院で、白血病の化学療法に、昼夜をわかたず精魂を傾けて、”全員死亡”の疾患から退院可能、治癒の希望をこじ開けようと奮闘していた30年程前から。

5月19日のブログで偲んだ再生不良性貧血の患者が、度重なる総回診の語りかけに耐えられず、軒並み退院したころから。

今の退院勧告は、高齢者の基本的な体力の低下に伴う、傍目には”良くなりました!”といって、闊歩して退院できる人ではなく、要介護障害高度患者の入院長期化により,急性期医療が行えないという趣旨で。
患者、家族は大変であるのは確かで、国にとしては、病院を区分して、
慢性期医療で、日常管理が主体の病院は、医学管理料は、急性期医療を担う病院の3分の1程度ですが、長期化しての減額は半分程度となっています。

退院勧告で、心ならずも退院して、病状が悪化しても、再入院もままならずの患者の転帰は、鬱屈とした記憶としてあります。
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偲ぶ歌

2015-05-19 23:01:06 | しのぶ
きばらしに 
帰路高森に
のぼりしが
下血始まり
命おとせし

ようしゃなく
乙女襲いし
月のもの
万策無効
待ち受けしは死

専門主治医として抗らうが、在院期間長期となり、ささやき続く嫌がらせの果てに退院、転院後の顛末
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無き患者を偲ぶ和歌を書き続けるこのへと義務化

2015-05-17 15:40:32 | しのぶ
日曜は,冨田病院の日直出勤日。映像よりは、音を楽しむ”しか”の環境にいるので、
ラジオでNHKFMをきいています。
本日17日の トーキンブウィズ松尾堂 は、五七五を楽しむでした。
林屋たい平さんが、義務として沢山俳句を作る。字余りは、そこで言葉捻出が終わるので好まない。などなどをきいて、私が所属していた,東北大学第3内科は、故山形敞一教授が、アララギ派の歌人であった縁で、和歌作りにいそしむ気風があります。好みにも沿うので、心ならずも死別した患者を、”忘れてはいないよ”という思いを込めて
、心ならぬ状況から、当直免除となり、眠れぬ朦朧とした状態の日から開放された,2013年3月から、
『亡き人を偲ぶ』とタイトルをつけて和歌をつくっているのですが、ひっそりと個人レベルなので、遠離りがちです。本日の、林屋たい平さんの、義務づけ、ブログ発信を聴いていて、公表して、自分に義務を負わせることの決意。

母児ともに 健やかなりと 試験後に 無菌室まで 駆けつけ安堵 
:児は、既に30台にの健常成人、その頃にベサノイドがあれば、今も母は健常であったろうに! 

豪放な 死ぬまで生きる 短冊字 あがらうこと無く たんたんと去る 
:骨髄形成症候群は、遺伝子変異がバラエティにとんでいる故に、今も確たる治療法が確立できぬ、
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