病気摘出腎臓を移植したことを初めて報道を介して知ったときは、従来の医学教育を踏襲下にある私の、思考倫理観を逸脱していて、一体これはどういうことという疑問と、興味と、否定とが複雑に混ざり合った感情が走りました。
その後、摘出腎臓移植を受けた人たちの前後の生活をTVで拝見させていただいて、画期的な出来事、衝撃的な事実でありました。
窮余の一策
捨てる神あれば拾う神有り
藁をもつかむ
生を謳歌するには程遠い肉体的毎日ま日を暮らしている患者の精神状況、
それを継続的にてをこまね供養な上京での診療しか出来ない医師の気持ち
が一体となって、だめもとでの判断だったのでしょうか?
透析から開放された肉体映像を前にした私は、病気摘出腎移植を一概には否定するべきではないという立場になりました。
臓器移植では、移植片対宿主反応(GVHD)は、移植の成否を決める程の問題を引き起こしますが、よく作用することもあります。白血病では、ある程度は起きたほうが、残っている白血病細胞根絶に役立ち、白血病再発を抑止するといわれます。他人に入り込んだ臓器が、なじみよく復活するのもありなのかと、病気摘出腎臓を移植されて、浮腫も無く、排泄機能を持った腎臓で生活されている人たちも目の当たりにすると、ゴミはゴミと判定するからゴミになるというリサイクルの基本を思い出してしまいました。
検証しなければいけないのは、摘出された腎臓手術の妥当性ではないでしょうか。
摘出判定。
摘出された方の臓器提供意思確認。
提供腎のソース:健康人の不慮の死を期待した腎臓にするか、本来は廃棄されるであろう機能不良の腎臓にするか
次は、書類の整備ですか?
(今回の権威筋の見解は、書類の不備のみを問題視しているような印象を受けました。 私が学んだ時代の医学教育にはありませんでした。ギリギリの医療は信頼関係がなければ成立しないという不文律が存在していました。それに応えようと努力した時代でもありました。今は、医師に対する不信感を増強する行為、名誉欲の前で医の倫理を踏みにじる医師により、医師に対する信頼感を瀕死に追い込んでしまった医師を前提とした論議が権威筋では盛んだということですかね.早急に、権威筋で整備してほしいですね。整備の立ち遅れの責任も感じない権威筋。)
保身一辺倒に突き進み、書類の有無がまず第一のような感がする論議の意見書はさておいて
成功した例にならって発展へと結びつける基礎的検討は、世界は広いので衝撃を受けた誰かが一念で、道を開いてくれることに期待したいです。
突破口を開くのはありきたりの方策では開けないのですから。