連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

愛着

2007-04-27 22:44:51 | 日記・エッセイ・コラム

ものの弾みで買うことになってしまったもの

何とか使いこなそうとか、着こなそうとしているうちに

なんとなく愛着が沸いてくる。

使い古してそろそろくたびれた頃になって、気に入り始めて捨てられなくなる。

母が残してくれた、気に入っていた日常着の和服。

和服とは縁遠い毎日をおくっている私にとって、

気になる存在で、たんすの肥やしにしておくと

いづれ、見ず知らずの人手に渡り、単なる古着と成り果てるだろうと

思い出を着るつもりで、リメイクしてもらいました。

11150001 11150002 いわゆる泥大島といわれている紬です。

祖母、母、私で100年。

手間隙かけて染め上げ、つむがれた方にも

申し訳立つかな。

母の羽織でした。授業参観日に着ていたのを思い出します。11150003

 スーツにするには羽尺で足りなかったので、襞の部分に共布を使ってもらった紺地のスカートも作りました。

ストレッチで、病気で曲がってた足が伸びやかになったら、再びスカートをはこうという気持ちも込めました。

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季節を感じる

2007-04-08 07:08:11 | 日記・エッセイ・コラム

P506ic0003932448 仙台は市民会館向かいにある黒塀にかこまれた”賣茶翁”の和菓子です。

桜の開花宣言前に、思いがけない到来物でした。

桜が待ちどしい気持ちかきたてるうす紅色の桜の花びらをちりばめられた品がまず、手にとられ口に入っていきました。春を彩った吹雪も次に他の口にということで、最後のひとつです。

賣茶翁には電話がありません。でも、商いは成り立っています。それだけの味、品格を備えた菓子を創り出しています。

くず桜のくずの味。むかしはこの味のくずを誰もが味わっていたのが、手軽にということで名前は”くず”でもくずからとったのではない澱粉のくずをそうだと思い込む意識のすり替えが行なわれている時代に生きていることを再確認、実感する一瞬をいつも持ちます。

しみじみとほのかな甘さ、味の奥行きをいただいたのです。

季節の先取りをいただいたあとで、しばし、桜の花の移ろいを楽しめます。

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赤ちゃんポスト;現実と建前論

2007-04-06 06:38:23 | 日記・エッセイ・コラム

熊本の慈恵病院から、熊本市に設置許可願いが提出されたと報道された2006年11月末以来、

安部首相、柳沢厚生労働大臣は不快感を示していた。

美しい日本とはかけ離れたをつきつけられた格好ですから、不快、あってはならないので否定されるのでしょうか?両人とも、言葉の端はしに、現実を解決出来ない、方策が後回しとなることへの責任感がにじみ出てこないのは、どういうことなのでしょうか?

医療現場では、人間として共通する変化と、個性あふれる変化が4,6時中起きるのが常識的な環境です。知識としてしっていも、標準偏差から大きくずれた病的変化は、想定内であって、すばやく対応しても追いつかない変化で、想定内でも対応できないことがおきます。

現実の厳しさ煮対応するための新し知識、手技を身につける取り組み準備をととのえるのですが、出番は来ないほうがいいが、いざ対応しなければいけないときに錆び付いて使いものにならないための努力はストレスそのものです。首相も、厚生労働大臣も現実に対応できていない責任というものを切実に考えていないので、建前のきれいごとばかりで不快感をしめせるのだろう。責任を感じたら、不快なんていっていられないような気がする。

医療保険の査定が、現実と建前論のせめぎあいそのもの。

病気は、重症になればなるほど、建前を公的機関からつきつけられて、”医の倫理”が”公的機関の経済論、手続き重視”の前で切り捨てられて、経済的ダメージを受けて、すこしづつ医の倫理、生命重視の気持ちを押しつぶされる。公的機関によるトラウマです。

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病気腎移植に対する権威筋の裁定について思う

2007-04-02 07:00:02 | 健康・病気

病気摘出腎臓を移植したことを初めて報道を介して知ったときは、従来の医学教育を踏襲下にある私の、思考倫理観を逸脱していて、一体これはどういうことという疑問と、興味と、否定とが複雑に混ざり合った感情が走りました。

その後、摘出腎臓移植を受けた人たちの前後の生活をTVで拝見させていただいて、画期的な出来事、衝撃的な事実でありました。

窮余の一策

捨てる神あれば拾う神有り

藁をもつかむ

生を謳歌するには程遠い肉体的毎日ま日を暮らしている患者の精神状況、

それを継続的にてをこまね供養な上京での診療しか出来ない医師の気持ち

 が一体となって、だめもとでの判断だったのでしょうか?

透析から開放された肉体映像を前にした私は、病気摘出腎移植を一概には否定するべきではないという立場になりました。

臓器移植では、移植片対宿主反応(GVHD)は、移植の成否を決める程の問題を引き起こしますが、よく作用することもあります。白血病では、ある程度は起きたほうが、残っている白血病細胞根絶に役立ち、白血病再発を抑止するといわれます。他人に入り込んだ臓器が、なじみよく復活するのもありなのかと、病気摘出腎臓を移植されて、浮腫も無く、排泄機能を持った腎臓で生活されている人たちも目の当たりにすると、ゴミはゴミと判定するからゴミになるというリサイクルの基本を思い出してしまいました。

検証しなければいけないのは、摘出された腎臓手術の妥当性ではないでしょうか。

摘出判定。

摘出された方の臓器提供意思確認。

提供腎のソース:健康人の不慮の死を期待した腎臓にするか、本来は廃棄されるであろう機能不良の腎臓にするか

次は、書類の整備ですか?

 

(今回の権威筋の見解は、書類の不備のみを問題視しているような印象を受けました。 私が学んだ時代の医学教育にはありませんでした。ギリギリの医療は信頼関係がなければ成立しないという不文律が存在していました。それに応えようと努力した時代でもありました。今は、医師に対する不信感を増強する行為、名誉欲の前で医の倫理を踏みにじる医師により、医師に対する信頼感を瀕死に追い込んでしまった医師を前提とした論議が権威筋では盛んだということですかね.早急に、権威筋で整備してほしいですね。整備の立ち遅れの責任も感じない権威筋。)

保身一辺倒に突き進み、書類の有無がまず第一のような感がする論議の意見書はさておいて

成功した例にならって発展へと結びつける基礎的検討は、世界は広いので衝撃を受けた誰かが一念で、道を開いてくれることに期待したいです。

突破口を開くのはありきたりの方策では開けないのですから。

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