2011年3月11日午後2時46分以後
天と地に抱かれて生きている人間は、
人智の浅いこと、過去からの伝承の有難さを知った年で、
新年を迎えられる、迎える準備の出来る有難さを噛みしめている年となりました。
門口に年神様をお持ちしているしるしをかざり
とこしえを願い花を生け
意味づけをされた沢山のおせち料理を作り
家を清め と
年末の、母の気合いを思い出しながら、
出来る範囲でと、病院仕事の傍ら、
身に染みた年末の行事を、大震災の後遺症のためもあり、ぎりぎりになって開始しました。
3月11日午後2時46分。突然の大揺れに襲われたときは、R病院で診察中であった。
患者は、たまたま1級建築士の方で、
長い揺れに、私も建築士も天上を眺め、
私は安全のために机の下に入ったほうがよいのでは、と勧めたところ
彼は、この程度ではと立ったままであった。
明かりが消え揺れが小さくなったところで、停電に伴うPC停止の復旧は見込み無いだろうし
本日の診療は中止し、無事に帰宅してと言って、診察室を開けたとたん、
外来部分は、先が見えないもうもうとしたほこりが漂った状態となっていた。
専従職員が、対応開始したのを見届け、帰路を急ぐことにしたが、
道路はゆがみ、水が噴き出し、さらに余震によるバウンドもあり、
信号機の停止による、大渋滞。
ラジオは、東京新宿の報道が主で、東北が震源地だとはそのときは思っていなかった。
進まない車の窓越しから、人の群れを驚きを持って見過ごしながら
安否確認を急ぐ人は?すでに両親は他界しているので、
SBDCに入院中の患者に対する責任以外は皆無という気楽さに孤独も感じましたが、
通信手段の途絶は、移動手段の制限は、在る場所で生き延びよ!
と言うことだと暗闇が広がり始めるとともに悟った。
稀にかかってくる遠方からの電話で、
自分の居る場所が被災地の広大な中心にあるという事情を悟った3月11日。
ろうそく、ラジオ、石油ストーブと、しまい込んであった非日常的な品の出番到来。
命の綱の血液を求めて、震災翌日の12日から、万里を経て外来患者が到着。
日赤は、通常より多大の時間を要しても、血液製剤を供給し続けてくれました。
血液の供給地は、北海道、九州からと遠方からでした。
入院患者の食糧確保は、米は治癒した白血病患者から快く分けていただき
野菜は、自家農園の患者家族から
遮断された道路が通行可能となってからは、
移動手段の命綱のガソリンを秋田県の知人が運び込んでくれ
遠方の知人から支援物資が届けられ、肉体にも心にも生きる糧となりました。
全壊、半壊などなど被災したにもかかわらず、病院の無事を心配してくれた患者からは
休み無く診療していく義務と責任を再認識しました。
過酷な状況は、高齢の恩師の意気軒昂さまでは奪いませんでしたが、
肉体はさいなんでいきました。
現状を維持すべく、気配りの良い職員に支えながらの病院運営
場所を共有してくれる人たちと慈し見ながら時を過ごしています。