連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

福島原発

2011-03-30 10:28:40 | 東日本大震災

1999年、本橋成一監督の≪ナージャの村≫自主上映会に協力した。

写真集の帯には

「どこへ行けというのか。人間が汚した土地だろう」 とある。

本橋成一氏のサインの日付は199年3月17日  

いのちが遊ぶ の言葉をそえて

同じことがいま日本で。

福島原発に関して、医学会、リーダーとして活動している同級生同士の交換情報をかいつまんで。

水の基準値は安全域より10倍程度厳しい設定で少しぐらい基準値を超えても、大丈夫ですが、長期間は避けるべきです。

ヨード200300Bq/Lで小児が通常量を半年飲み続けても全く問題ない値です。
食品については輸入食品に対する規制値があって、日本ではセシウム370Bq/kgを基準にしています。フィンランドでは1,000Bq/kgです。

ヨードの半減期は8ですが、セシウムは30年です。
人体に入ってもセシウムは便などに排泄され110で半減するのですが、土壌中のセ
シウムはそのままです。汚染土壌に関する問題はこれからです。

チェルノブイリでは甲状腺がんだけが発がん率が高くなり、他のがんは従来の発がん率でした。ODAで活躍した同僚は、チェルノブイリ地区は、ヨード摂取が少ないために、放射性ヨードの取り込みがおこり、発がん率増加も考えられているようです。

 日本人のヨード―摂取は、適正から、過剰と考えられているようで、日本の場合は

放射性ヨードが大気中に出たときの甲状腺への取り込みは、これまで世界で知られているどの地域よりもリスクが低いのではと推測。

 被爆地広島の戦後調査で、推定被ばく量から考えられるより甲状腺がんの発症は少なかった。

甲状腺学会から;余程高い濃度の放射性ヨードが大気中に播かれない限り安全だと表明

http://www.japanthyroid.jp/

産婦人科学会から;妊婦が50mSV以上の内部被爆をした場合に限って、ヨー化カリウムを服用(予防投与)するようにする指針も明示していたのですが、これは1回の投与で、持続的に被爆する危険性があれば、当然その場所から避難することを最優先すべきであると述べています。

国立がんセンターhttp://www.ncc.go.jp/jp/のHPも参考になるかと思います。

いま最も危険なのは、東京電力の復旧に当たっている職員です。専門的技術力が要求されるので、簡単には代替要員の確保は困難で、

生命の危険が及ぶ被爆前に、自己造血幹細胞採取を提言し、実行段階に入っています。

沈着冷静に、情報に惑わされませんように。

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東北関東大震災後=東日本大震災後 3回目の月曜日(28日)

2011-03-28 15:32:23 | 東日本大震災

野戦病院から、震災前の体制に復帰。

重症患者1名の護送を含め、入院患者の移動は30分で完了。

外来のセットアップ、清掃は約1時間。

外来受診患者の採血開始、10時15分。

本日は、他の病院から2名の患者が入院となる。

入院中の母親は新潟に搬送された原発避難区域の南相馬の方が1名。

外来受診患者に家族の安否が次第に判明するにつれ、津波の猛威を実感。

家族もだけど、家畜も津波にのまれた。

津波が運んできたもので覆われて、

掘っても掘っても元の大地は出てこない。

暑くなる前に、死んだものは、土にかえるか?

疫病の源になるのではないか?

                   と不安そうな被災者。

死者、死せるものへの弔いは、

  震災前と同じにはいかない。

そのことの記憶は、今後どのような陰影を落とすのだろう?  

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東北関東大震災=東日本大震災後

2011-03-27 11:49:09 | 東日本大震災

被災後の厳しい環境に、さらに追い打ちをかける例年にない寒さが続く今年。

窓から注ぐ光は、明るく、暖かい。外の風は冷たく、昨日の雪の名残もある。

3月11日から17日が過ぎたが、それ以前の日常に戻る日のめどは全く無い。

福島原発に端を発した都民の反応は、異次元の世界。

電気の供給が途絶えた夜、星、月の明るさに行動のすべてを託し、

視覚障害者の日常に思いをはせた。

本間記念点字図書館に25年目の寄付金を振り込んだのは11日の昼。

12泊13日間の病院勤務を終えて帰宅した22日に、

点字の礼状に添えて、被災を気遣う文面が添えられていた。

自宅の室内の惨状を目の当たりにしたが、

明日からの診療のための体力を温存を優先し、僅かな場所に体を横たえた。

一人主治医で、骨髄移植をした大学病院勤務中と比べると

今回は楽だと思う。

食事を少なくとも提供してもらえる。

寝床は確保されている。

必要以上に睡眠を妨げるコールもない。

22日には休むと動けなくなる体力の限界に近づき、

全身の浮腫がジワリと押し寄せてきて

長円培ってきた、虫の息状態を断続的に挟み込み数日を過ごした。

今日は日曜日。

28日は、患者を通常の体制に戻す。

緊急状態から、回復期に向かう気の抜けた時期を迎える今週。

張り詰めた緊張感で、監視を続けないと。

医薬品の安定供給は、まだ先のことで、その日暮らしに近い。

生活の基本姿勢には何の変化もない。

連続日当直は、人手確保困難な状況ではやむを得ず。

買い置きの食糧の放出も、給食の食材不足を補うためには当然。

24日は秋田県から待望の石油が届けられ、職員の足が確保された。

25日は栃木県から生鮮食品が

26日は横浜市から菓子類がゆうパックで、短期日で届けられた。

 食品は、患者の給食と、職員にも均等に分けあった。

衣食足りて、礼節を知る。今回まざまざと体験せり。

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東北関東大震災=東日本大震災11日目;医療現場から

2011-03-21 15:28:07 | 東日本大震災

食糧供給も軌道に乗り出し、残食が出始めた。

飢えた子どもの食糧確保に時間が取れない医療スタッフ。

ガソリンは食糧確保にするか通勤の足にするか悩む医療スタッフ

残食を見つめる目は、複雑。

患者さん、医療スタッフも被災者であることを少しは慮ってください。

通常の勤務体制の確立に向けて、

食糧確保、ガソリン確保に躍起となっている院長がいます。

今日は、春分、彼岸の中日、祝日。

体調が悪いと駆け付けた患者は、単なる不安による不調。

貴重な検査試薬が奪われた!(このような感情になってしまう現状です)

気仙沼から、やっとガソリンを確保して輸血に駆け付けた患者には

家族、家の安否確認、食事は確保されているかなどいたわりあえるが、

日常的衣食が確保されている豊かな人は

非日常的、異常状態を全然実感していないことに対する

落胆、疲労、焦燥。

私を含め、疲労が蓄積してきた医療スタッフは

精神的安定を保つのに、多大な努力が必要であった。

このような場面が、増えてくるんだろうと胸苦しい圧迫感、やりきれなさ。

建物の損傷は軽微で、1階は外来、2階は病室に復帰は可能となったが、

ガソリン不足で、通勤困難な看護士が半数を占めている現在。

1階であれば、

検査部門、薬剤部門、事務部門の”目、手足”によるサポートができるが

2階に移れば、看護スタッフによる監視体制となり

疲労が蓄積した人手不足の現状では

患者の安全確保が出来ないという不安。

野戦病院並みの現状を継続するしかない不快感もある。

地震、生活の不安などで動揺している医療スタッフを支えるのは

ショック死寸前まで精神的にたたきのめされながらも

立ち直ってきたタフさで支えるしかないですかね。

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東北関東大震災ー東日本大震災7日目の夜に

2011-03-17 21:45:54 | 東日本大震災

不便は便利、不利は有利 を実感した 仙台血液疾患センター。

45床の、周辺は畑に囲まれた小病院。

交通は、地下鉄冨澤駅から徒歩だと50分ほど。車だと便利かな?

今回の地震では、停電で暖がとれない状況を、

職員宅の石油ストーブ2台で、夜間も20度ほどに保てた。

都市ガスは通っていないのでプロパンガスだったので、

1週間の間暖かい食事が提供された。

11日 夜は、足止めを食った職員分も含め、おにぎり、味噌汁の炊き出し。

    電話は不通。公衆電話は無料で通話可能となる。

    遠方からの電話は通じた(名古屋、東京)。仙台からは発信できず。

    懐中電灯、電池の用意。

    情報過疎。ラジオで被害情報を断片的に知るのみ。

    仙台市で死体200~300発見される。驚きと疑問。

12日 情報過疎。ラジオで被害状況を聴くたびに、

     家族、知人の安否で不安になるが、携帯、固定電話も使えない。

     沖縄、金沢からは電話が通じたが、こちらからは駄目。

     安否、連絡は、遠方を経由して再び被災地に知らせてもらった。

     公衆電話があるだけまし。

    血小板輸血予定の外来患者が受診。入手時間が不明だが供給してくれることが判明。翌日の来院とする。午後6時過ぎ供給される。電気が使えないので、手動で血小板製剤を振とう撹拌させ続ける。

     朝 パンと温かいスープ

     昼 おにぎり2個 味噌汁

     夜 カレーライス フルーツヨーグルト

   帰宅できない家族、職員にも。

   職員の大半は、帰宅できない状況のなかで、保育室を開放

13日 停電中。情報はラジオからのみ。死体発見情報が増える。

    診療は、出来るだけ通常に近付けたいと希望するが

    余震も多く、物資の補給など先行きが見えない不安に、

    職員はパニックとなっている。

   昨日供給された血小板製剤輸血のために患者来院。

     午後からは、医療スタッフの変則システム。

    通常診療体制に近づく。夜間は、疲労を考え、医師と通常職員体制。

    食事 朝 おにぎり2個 味噌汁

        昼 おにぎり1個となる 味噌汁 フルーツヨーグルト   

        夜 カレーライス(肉は少ない) 味噌汁

     水と少しのオレンジ配給

停電なので、貯水槽の水位が下がり蛇口からは出てこない!

夜間に街燈に灯がともる。停電解除の期待が高まる。

落胆!

病院は200Vで、1級の資格ををもった電気士?による点検連絡後でと。

今夜も、石油ストーブで暖、

情報はラジオ、電話も不自由

14日 朝は6時検温

午前中に停電解除

 テレビが見れた。震災のすさまじさを初めて眼にする。

予定受診日に来院してこなかったらと案じていた患者が来院。血小板輸血で外来受診日で、付き添った娘さんが一緒だった幸運で、着の身、着のまま逃げたので薬も何もなくてと、避難所からの受診。快活そうに話していたが、院長の顔を見て思わす涙を。乏しい食事であったが、暖かいのが取り柄と配給された食事を分かち合った。当初は遠慮していたが、3日ぶりと親子いたわりあいながら食べていた。

 機器類の点検 ほぼ故障なし。

    看護士、一晩の睡眠で英気を養い、非常事態体制を敷く。

    帰宅できない独身職員が主体となったシステムを組む。

    先行き物資補給が無い医薬品、検査試薬に対する、節約体制を敷く。

津波から辛うじて逃げ切った患者が薬も流されたと来院

転院騒動あり

朝食 食パン1枚(通常の半分中身は少し。) コーンスープ

昼食 アサリと牛肉佃煮入り(唯一の蛋白源)おにぎり1個 味噌汁 オレンジ

夕食 おにぎり(白米だけ)1個 差し入れの鶏肉たっぷりのホワイトシチュー

15日 採血開始 

検査試薬の不足を予測し本日は、治療方針を変更せざるを得ないと予測される患者のみ7人。

   予定の血小板が供給されて一安心。

朝食 食パン1枚のサンドイッチ と 配給があったのでブドウロール1個も

    コーンスープ

昼食 おにぎり(ミガキ鰊のほぐし入り)1個 味噌汁 オカラ

夕食 おにぎりトリ肉入り 1個 味噌汁 晒よし飴1個

16日 雪の朝 今年の春の雪はことさら非情と感じる。

貧血で具合が悪いと連絡があり。日赤からの濃赤の供給は夕方なので翌日来院してもらうことに。

自家成分採血血小板施行。ドナーの安全確保の目的から、終始傍らで

読書;声の力 河合隼雄、坂口寛文、池田直樹、谷川俊太郎対談  待機。

朝食 食パン1枚サンドイッチ(ハム) スープ

昼食 おにぎり1個 味噌汁

 患者から、空腹で身が覚めるとの声あり。

近隣からコメが届いたことと、職員宅の牛肉の差し入れもあったので

夕食は おにぎり2個 牛肉入りすき焼き風という豪華版 

さらに配給で沢山のでこぽんがきたので、1個づつ

物資供給が本格化してきたかと期待が高まる。

しかも、自家栽培の野菜も持ってきてもらったし。

悩みは、ガソリンが不足で、脚が奪われていることです。

17日  1日中 雪がちらつき、午後からは降り積もってきた。

昨日連絡があった患者が濃赤輸血のために来院。

     電気のあるありがたさと避難所の苦痛に心を寄せる。

朝食 サンドイッチ食パン1枚ハムエッグ 味噌汁

昼食 そば おにぎり バナナ

夕食 差し入れのひれかつ、海老フライ弁当 味噌汁 りんご

その後、ヨークベニマルからという配給があった。

納豆、豆腐、牛乳、ヨーグルト ロールケーキ

当院はシダックスに委託している。食糧庫が壊滅的打撃を受け、材料の補給が無い状態でやってきたので、タンパク質源が混じっていることに栄養士は感激して涙声になったので、他から比べればなんと良い食事といいつつも、おなかがすくとか、蛋白源が無いとか言っている声に深く心を痛めていた事実を改めて知ることとなった。明日の食事に期待が高まっています。

プロパンガスの供給は本日確立されたので、ライフラインは長期的に確保!

医薬品の安定供給と

ガソリンの補給 を切に切に願っています。

    今日は、山河との日々;竹西寛子著 読破

          いつものような読後感が拡がってこない。

          疲労困憊のせいかな?

          目を閉じて、笛を吹くほうが落ち着くかな?

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東北関東大震災=東日本大震災後5回目の朝

2011-03-16 13:41:21 | 東日本大震災

3月16日 薄明るくしらみはじめた外の景色は、うっすらと雪がつもっていた。

電気が復旧した第1日目の夜で暖をとれた後でよかったなという感慨が起きた。

空腹と寒さを、無期限に耐えなければならない状況にある被災者を思うと……

この難局を、慢性疾患になって身に付いた楽天的辛抱強さで切り抜ける!

人生の第1目標は、両親より先に死なない。  この大目標はクリアできた。

第2目標は、まだ達成途中にある研究、と成果の発表。

期待しながら先に逝った友には

毎日精いっぱいやった結果がこうなのと言わなければならない状況が続く。

第3目標は、知識と意志の継続を託された恩師より先には死なない。

第4目標は、今回の大震災で突如出来た。

身近な、患者、職員を飄々と守り抜くための最大限の努力

    =食糧確保(農村地区で、近隣からかき集めているが蛋白源は不足)。

     医薬品の確保(公平の観点から、抜け駆けは無理で、悩みが深い)。

     血液製剤の確保(被災地での献血者は激減するでしょうし)

      

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東北関東大震災=東日本大震災 (4月1日政府決定)

2011-03-15 19:02:28 | 東日本大震災

3月11日から4日が経過しました。

地震前は、梅が1輪咲き始めたと春の到来を喜んだ。

出来ることが少ない現状で、気の抜けた暇に、窓辺から外を眺めて

梅が満開に近くなっていて、時間は過ぎて行っているのを感じました。

平常は当直など応援してくれる大学病院の若手医師は、

救急活動にあたったりしているので来ないので

24時間連日の勤務が続いている。

医療スタッフも、連日病院に泊まりこみ、交代で仕事をしている。

疲労は極限に近い。

患者、患者家族の中には、日常の感覚が抜けない人、要求もある。

これは、つらいし、情けない。

当日入院してきた、患者だけというのが幸いであり、救いだ。

毎日の診療の中での努力を知っているので患者は協力的。

避難所の悲惨さもテレビで知っているし、変えるところが無い人も多い。

原発事故の報道で、見通しが無いという暗さが漂っているが

空の明るさで耐え忍んでいる。

医薬品もいつまでもつか?

血液製剤の確保はできるのか?

食料はいつまで持つか?

先は考えるのはやめよう!

今日が過ごせればと、スタッフとの雑談の最後はこの言葉となる。

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3月11日午後3時以後

2011-03-14 14:13:19 | 東日本大震災

電気が復旧し、絶え間ない被災報道を目にした。

被害地区のど真ん中なので、電話は制限されていて、

いまだ仙台市内との連絡は不便です。

名古屋、東京、金沢、栃木、沖縄からは災害当日から安否確認の電話を受け取れました。

患者の安全を保てたこと、職員にけが人がいなかったことは幸いでした。

非常事態の食事、炊き出しに近いのですが、

ご飯、またはサンドイッチの主食に、味噌汁またはスープと

温かい食事を三食提供できているのは、

家族の来訪で知る食料事情、居住環境からすると、

患者は、ベッドに寝、治療も続行できている

恵まれた環境を提供できていることに感謝しています。

災害発生後、3日経ち、食糧供給の目途が立たないので、

市街化調整区域は利点で、

近隣の農家に、米、野菜の提供をお願いし、少し確保できました。

その日の暮らしを、一日ごとに先延ばしする知恵で、

郎党を路頭に迷わせない以外は手がありません。

医薬品の供給、血液の供給の先行きの目途が立たないなか、

血液疾患、免疫不全の患者をまもるべく努力中。

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死亡診断書

2011-03-03 21:03:58 | 日記・エッセイ・コラム

3月3日ひな祭りの朝に、高齢の患者が、新紀元を迎えた。

骨髄形成症候群からの急性白血病転化で

染色体異常が、23対中15対にもおよんでいた。

治療によりDIC改善、白血病細胞も消失し、造血能は回復してきたが、

すべてを使いつくした老衰のような穏やかな最期であった。

死亡診断書をかきながら、私はどなたに書いてもらうのかなと

今までは考えたことが無い考えがわきあがった。

105歳で亡くなった伯父は、元気な時は、私の死亡診断書を望んでいたが、

約束を果たせない、急激な安らかな最期であった。

生を受けるときに見守ったまなざしの主

死せるときに見守るまなざしの主 

見守る主が異なるのは幸せな生を全うした証ではないかと思える。

ともに愛情深く見守るが、喜びと、悲しみの違いがある。

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