基準は、つくられ提示される。
この”つくる”行為の基を何とするか、規模はどのくらいにするかなどで信頼に足るかの判断がなされる。信頼できるか否かを、統計処理で決定するのが近年は流行となってきている。
統計も絶対視するのは危険で、統計手法も学問で人が作り上げているということを忘れてはいけない。
自然現象は、宇宙の基準での確立がなされるので、誤差の幅は人間の時間で考えると、一生の時間より長かったり、地球の直径より長かったりすることが多いような気がする。
行政では、大都市を念頭に置いたというか、遠く離れて実感が消失して、自分たちしか見えない人による政策立案の実行で、東京一極集中を加速するようなことばかりがマスコミから流されている。大都市の政策の基準、大企業の基準は、経済効率=マネーのみ。真実を化かすための小手先のキャッチフレーズは流しているけれど。
1970年まで、列島改造という景気の高揚期の大都会の人間疎外をいやというほど実感して、東京近郊で成長したので、人口が集中した結果、広がる空は、高層ビルの屋上にでも行かないと手に入らなくなっている今の首都圏に住むための犠牲の大きさを実感できる。
医療の治療について、標準治療を確立するのが流行している。多くの時間を避けないときは、準治療に準拠して治療を行えば、可もなく不可もなくで、結果に対しては無責任になれるような気がする。マスプロダクション医療行為と呼んだら語弊をまねくだろうか。
生物としての人間の生存のための共通項と個性。個性的な人間が個性的条件で発病する=患者となる。
個性的な人間が、医師という職業を選択し、日々切磋琢磨して獲得した知識は、普遍化した事実を知識を、個性的な条件で学習し、医師という意見普遍化してそうであっても、個性的な視点で診断する。治療は十把一絡げ的な推奨されている標準治療を行う。
これでいいのか?テーラーメイド医療などと時折もてはやされていることと同じ方向なのか?
真正面から向かい合って一対一医療を行っている医師と、研究成果の発表がステイタスとなる医師による、目新しさをねらったメイクでなければよいのだが。
医療は、国による罰則を伴った規制。権威を握った医師による学問的規制。個人個人の多様な変化を認識しない患者からの攻撃。
今年も、人間同士の協調を旨とした、会話豊かな医療を、教育を、身の丈にあわせて、地味に毎日行っていこう。