同門の小松真理先生が3月10日、4年の闘病の果て永眠され、葬儀に参加してきました。
告別式後に、繰上げの100日法要にも参加しましたので、身近な家族から闘病中の生活をうかがい知ることが出来ました。
"break through" "手をつくす” ”還元する” ”現状からの回避” ”後ろを振り返るのは前を向くため”など、恩師宇塚善郎先生の下で受けた薫陶を、闘病生活でも実践していた様子をうかがい知ることが出来ませんでした。御両親、御夫君の愛情を信じることができ、甘えず、甘えるという微妙なバランスで力尽きるまで、患者でありながら病を助ける医師として出来ることを模索しながら、戦い抜き、力果て、55歳の早すぎる死を安らかに迎えたことをうかっがてきました。
棺には、結婚の日のドレスと聴診器を入れてと遺書されていたそうです。
聴診器に託された仕事への情熱の一端を齋藤淑子は受け止めました。
『東北大学、ナンバー内科、外科で女性の助教授は初めてではないの!。とってもうれしい。』と、宮城学院女子大学の教授に就任した時も、心から喜び、誇りに思ってくれた人が、1人去りました。その思いを、抱いて、これからも研究、診療を続けていこうと法事の席で小松真理先生と結びついてきました。
『せっかちで、いつも忙しく席を暖めることなく仕事をしていた恩師宇塚善郎先生が、供養のために5時間も費やしてくれたことに愕いていない?あなたが先生を信頼し、一生懸命血液の診療を続けたからよ。』 と遺影に語りかけてきました。
宇塚善郎先生の弔辞を齋藤淑子が代読してきました。
ここに、小松真理先生の遺徳のために掲載します。
代読に当たって
テニス部の先輩後輩として、入局に当たっての相談で、先生は選ばなければとぱきぱきといっていたこと、公立刈田病院に着任後も東北大第3内科血液班の学会での発表をわがこととして喜び、良き1流の恩師を選んだ自分の力量も誇りにしたことも、先生より先に死ぬのは申し訳ないのでと闘病に励んでこられたことも過ぎ去ったことになってしまった小松真理先生。強い光源の顕微鏡観察を連日続け、視力低下した恩師の目となり杖となりこれからも活躍を続けてほしいと願っていた小松真理先生への恩師宇塚善郎先生からの弔辞を齋藤淑子が代読します。
弔辞
小松真理先生 3月10日突然の訃報に接し私達は深い衝撃と悲しみの中でただただ呆然とするばかりでした。
先生が病に倒れられて以来私達は先生が必ず病を克服し明るい笑顔を再び私達の前にみせてくれることを信じ一日も早い全快を祈っておりました。
それがなんという残酷な天の配剤でしょう。
こんなにも早く尊い貴女の命を奪い去るとは。
先生と死は今でも私の中では決して結びつくものではありません。
私の瞼に焼きつけられている貴女は数々の国際血液学会の桧舞台で自信に満ちた報告を行った先生。
そしてそのモダニズムと確固たる価値観を持ち、血液学会の華であった明るく自信にあふれる先生の姿です。
先生は、東京教育大学附属高校を卒業され、東北大学医学部卒業後、関東逓信病院のレジデントとして初期研修了するというエリートコースをあゆみ、昭和55年、結婚とともに仙台に移られ東北大学第3内科に入局、血液研究班に配属され、生涯の血液学の道を歩むことになったのです。
先生は昭和62年【正常ヒト骨髄多能性幹細胞の増殖分化の研究】で学位をとられ、大学での研究生活を終えられて、白石市の公立刈田病院に移られてから、県南の血液センターとして、多くの血液患者の診療に当たられ、患者の厚い信望を得られていました。
その、診療に対する真摯な姿勢は、同門のわれわれも、どれだけ力づけられたことかわかりません。
先生の血液診療は道半ばでさぞ無念なことでありましょう。しかし、先生の努力によって支えられた多くの尊い命があります。
先生の、血液学に対する情熱のともしびは同門のわれわれによって引き継がれています。先生いよいよお別れのときです。
貴女は持ち前の精神力と生命力で、
そして手厚い御主人、御家族の看護に支えられ、今日まで懸命にがんばってこられました。
どうかゆっくりおやすみください。
さようなら
平成 19年3月14日
仙台血液疾患センター
理事長 宇塚善郎
代読 仙台血液疾患センター、宮城学院女子大学教授 齋藤淑子