宇塚先生は、
最近は、体に重力を感じる。
今までほとんど感じたことがなかった、と言い出した。
80kgの体重が移動している実感がでてきた。
私は、動くたびに重力を感じて生きてきた。
重心が移動すると、痛みとして感じてきた。
硬い硬いといわれ続ける体になったのは、
体を固めて重心の移動を極力減らす
究極の選択だったと最近考えている。と申し上げた。
体の不調の時、古来から体が重いと表現する。
自分自身を感じないで、
動けるということは、健康ということなのですね。
宇塚先生は、
最近は、体に重力を感じる。
今までほとんど感じたことがなかった、と言い出した。
80kgの体重が移動している実感がでてきた。
私は、動くたびに重力を感じて生きてきた。
重心が移動すると、痛みとして感じてきた。
硬い硬いといわれ続ける体になったのは、
体を固めて重心の移動を極力減らす
究極の選択だったと最近考えている。と申し上げた。
体の不調の時、古来から体が重いと表現する。
自分自身を感じないで、
動けるということは、健康ということなのですね。
目の病気であるが、造血器悪性疾患を合併し、治療後であるので、22科を有する総合大病院であっても治療できないので、と返事がきた。
院長は、不治の病と認識、喧伝されていると、医師は安心して、治そうという努力をしなくなるからだ。 と非難と揶揄を込めて、総合病院を紹介して、眼科の病気を治療してもらおうと思ったのに、と釈然としない気持ちを、納める総括的解釈を述べた。
総合病院は、院内他科との連携なないのでしょうか?病診連携、病診連携と院外の連携は強化しているような気がするが、総合大病院は、院内は単科がたくさんあるだけで、院内連携はないのですかね?
どうせ治らない血液疾患に合併した疾患、骨折り損のくたびれ儲けということでしょうかね!
長い病歴で、不治と宣言され、”親類縁者のいる近くの病院へ”と、前の病院で宣告され、当院を受診してきた患者である。
なだめすかしながらと言える、気を長くしながら、治療ができる造血レベルに持ってきては、抗腫瘍化学療法を続け、ほぼ100%あった、骨髄腫細胞は5%以下となり、ガンマグロブリンも、骨痛で動くのが大変であった痛みもなくなり、1年以上経過して、無事退院の運びとなった。退院後、不調であった、歯、目の治療ということで紹介、受診した(当院は、血液内科の単科の病院)、総合大病院の眼科での、診断が確定後の顛末である。
普天間基地移設、5月決着は無理という結論になりそうな、当然と言えば当然の結末になりそうなくもいきだ。ある意味当然のような、火種をいじくり、発火っていう感がする。
最近明らかになった、知らぬ存ぜぬを通し続けた自民党政権時代の米国との密約。シャンシャンと手打ちで丸く収め続け、甘い味を知っている米国が、突然戦後50年の沖縄県民の苦難に心を寄せて、実行に移す総理が出てこようとは、お釈迦様でもご存じあるめー、ってとこで、全く耳を貸さない米国という構図がいまでしょうか?。
鳩山総理は、ドンキホーテ。
ロシナンテは、言わずもがな。
サンチョパンサは?岡田外務大臣ではないな。だーれだ?
沖縄は琉球王国という独立した国であった。
日本国に併合される始めは、薩摩の税徴収そして日本国の一部となったのかな。
そして、敗戦後、米国による侵略というか駐留継続。その意味は、日本国民のために継続。
敗戦後、米国でなくソビエトによる駐留だったらどうなったか?
いろいろ思考しても、今しか存在していませんからねー。
日本国民にとって、沖縄の苦難は、沖縄の苦難で、同情したとしても、肩代わりする自治体住民は、わが身に火の粉が降りかからないような活動が活発化している。
鳩山総理は、議論が活発化し、日本と米国の敗戦後の図式を日本国民が認識すればよいと思って、問題提起した、ドンキホーテなのか?
敗戦後の状態が続いているのを再認識させられる今回の普天間移設問題。日本国民は安寧をむさぼり、変化なしが無難、興味本位の無関心に近い関心。
支持率急落は、決着しないからというより、やっぱりだめなのに、もっと指導力あるかと思ったのに、指導力発揮しすぎると、日米関係は決裂しかねなないと、内心は思っているけれど、目をそむけ続けたい現実を突き付けられているからという心理も一因ではないか。
マスコミは、興味本位の善悪、真実から目をそらしてしまいかねない偏重報道をしているのではないだろうか。解決できた、できないという二者択一的な報道は、問題の本質から目をそむけさせ、安直なものの言いようではないでしょうか?
日本国土防衛のための、米国軍隊駐留、米軍基地
敵はどこの国か?
絶対に米国は日本国にとって、友好的であるのか?
独立国であり続けることは、大変なことである!
と、ここまで書き連ねて実感した。
白血病細胞の痕跡の追及ができなくなる、
発病、治療開始から1年半前後で化学療法は中止する。
後は、神の思し召しの領域。
医師として、治癒のためにやれることだけはやってあげた。
あとは無事に、自己の生体能力の限りを尽くして生き延び、
社会の礎になってほしいと願うのみしかできない。
宇塚善郎先生が、急性骨髄性白血病の治療を始めたのは、
抗がん剤が、少しづつ開発され使用できるようになった1960年代後半
死なないで退院して、1年も経過すると
再発入院してくる1970年代半ばに私は白血病と向き合い始めた。
白血病細胞動態を解明する実験を繰り返し、営々と治療を続けてきて
60歳以下の患者も、60歳以上の患者も、化学療法だけで、
5年生存が70%以上を達成できるようになった。
骨髄移植も、トーマス(ノーベル賞受賞)が再生不良性貧血で成功した文献を読んですぐに、画期的治療ということで1970年代後半には導入を試みたが、ありとあらゆる機材、設備を手に入れるための試行錯誤は大変なものであった。
1例目は、1987年(昭和62年)で、現在も元気で社会に貢献している。
現在は、幹細胞移植(骨髄移植)の成績は化学療法を超えるものではないと確認され、絶対予後不良、死以外の選択がない症例に行うべき治療との位置づけが確認されているので、末梢幹細胞移植のノウハウ、機材は備えているが、仙台血液疾患センターでは、過去的治療となっている。