両親の兄弟姉妹で唯一生存していた104歳の伯父の告別式が執り行われました。
今年の1月までは、1人暮らしで家事全般を自分のペースで行っていました。昨今の宅急便の発達で、口に入れると骨まで溶けるほどこっくり煮込んだ氷下魚(こまい)の甘辛煮とか野菜の煮しめを仕事で忙しいだろうからとおくって来てくれていました。
今年の正月は、伯父の餅つき機製のもちで祝ったのでした。毎年家族総出でついたもちは父の死をもってやめてしまった後を100歳過ぎた伯父が気遣ってくれたのも、もう思い出の中でしか出会えなくなりました。
92歳まで、現役バリバリで日本中を駆け巡り、死の2ヶ月前までは自分の身の回りの一切をこなす体力を保持していた生活態度は、口が過ぎることも多々ありましたが、互いに助け合いながらも基本的には人様の世話にはならないという精神の裏づけがあったと思います。
6人の男子を設けた伯父ですが、104歳の長寿の子供は年齢相応に病を得たものもあって、頼りたい人は頼れずで、近くにいる子供の檄をとばしながらも、甥である私の兄の月1,2度の訪問を心待ちして、食事をつくってもてなしてくれました。
膝関節の変形は有っても昨年までは自転車に乗り、前立腺がんは治療で共存していましたが、昨年の秋の訪問時には食欲は普通で、つっ変える様子もありませんでしたが、風邪よう症状で病院受診し年齢も年齢ですので、公立病院ではあまり丁寧な検査は受けられず、一向に様子が良くならないので、個人病院を受診して診断が確定したのですが、すでに肺への直接浸潤で手の施しようがなく栄養輸液のみで疼痛を訴えもせず、死の直前まで口達者で旅立ってゆきました。九州からも来たし、大変な病気のようだななどといいつつ、年下でありながら永久の世に先に行っている私の父(三といっていました)が枕もとに来て護ってくれると言っていたから安心だ、あとはまかせたからよいように取り計らってくれと、心残りは無いという体で息をひきとりました。
長寿を全うしてくれてありがとう。
善三郎伯父さん
長寿の生き方そのものが贈り物でした。