書き出し、”死について”
≪死というものをそんなに恐ろしく思わなくなった。≫
≪身近な死を経験したから、死の瞬間には平和が来ることを目撃した。≫と続く。身近に感じる死を体験したことによる記述。
患者の死、恩師の死、両親の死、若かりし頃の自らの死に近接した経験から、
死は、受けいらざるを得ないもの。
特に自分の経験は、突然に、意識が無くなる状態に落ち入り、しばしの後に気が付く。
その後、心地よく直ぐに眠りにつく状態がかなりの期間続き、うつらうつらできた幸せな感じが懐かしい。
死と平安は紙一重かな。
≪自分の親しかったものとの死別………… もし私が彼らと再会することができる――これは私の最大の希望である―――私の死においてのほか不可能であろう。≫再開の希望のために、死に賭けると書いている。
死者と再会したい人はいるが、死に賭けて、死んでも、冥界での再開はどのような状況になるだろう。
こどものころの両親と暮らした懐かしい時間に存在した、”笛””お茶””習字”、父が希望した武術の心得を、身に着けて死の時を迎えたいと思っている。
健康の感じ方に対する言及も興味深かった。≪コンヴァレサンス(病気の快復)としてしか健康を感じることができないのではなかろうか。≫
近頃は、テレビで、健康であるための関連番組が放映されない日はない。
ということは、それだけ不調を感じながら生きている人が多いことの反映なのだと、改めて考えさせられた。
三木清氏は、終戦のわずかまえに、共産党の友人を保護したということで、獄につながれ、終戦後も釈放されず(進駐軍支配下で、赤狩りが始まる)、獄中で感染したダニによる、全身臓器の侵略で見守る人もなく、息絶えているところを発見された最期ということを、100分de名著で知った。
41歳での死。
会いたい人に会えるという希望をもって息絶えたのかな。