聞いていない。
覚えていない。
素人に理解できる説明でなかった。
と、暗に医師を責め立てる、あてこすりの言葉を軽々と投げつける、患者家族の方がいます。予想より経過が悪かった場合で(医師の見立てより、良好な経過をとった場合は、まずないのです)、現状の医学レベルではやむ得ず、当然の経過なのにです。しかも、病状説明の際には、駆けつけもしない方が、言われることが多いです。医師と患者と医学を施す枠を超えた、家族内の問題だと思うのですが、いかがでしょうか?
聞いていない。
覚えていない。
素人に理解できる説明でなかった。
と、暗に医師を責め立てる、あてこすりの言葉を軽々と投げつける、患者家族の方がいます。予想より経過が悪かった場合で(医師の見立てより、良好な経過をとった場合は、まずないのです)、現状の医学レベルではやむ得ず、当然の経過なのにです。しかも、病状説明の際には、駆けつけもしない方が、言われることが多いです。医師と患者と医学を施す枠を超えた、家族内の問題だと思うのですが、いかがでしょうか?
初受診後、データが出始め、病状経過がある程度見通しがたってから説明をします。
大雑把なところの説明は、よほど見立て違いで無ければ変化しません。特に、【予後不良=いずれ死ぬ、現状では根治への方法が無い】と言うことは。(死という言葉は重く、衝撃的なことですから、責任を回避するために乱発はしません)かなり長期の経過でもです。
瀕死の方の家族に対しての、死ぬかもしれないと短期的近末来の死亡予測は、病状が軽快すれば回避できますが、現在の医学では、治療法が確立されていません。ですから、いずれ死ぬことは避けられません、という説明は撤回できません。深く心にとどめていただきたいことです。
内科を専門としているので、病状説明を理解できない患者さんは皆無に近いです。今後の治療を開始し、続行するために、また病状の変化が治療方針に影響してくるときには、患者の説明は当然のことと思っていますし、家族の同伴も求めていきます。「先生におまかせします。」と患者から告げられても、生死にかかわる重さを医師が1人で負う事は、出来ないし、してはいけないと考えて、行動します。
頻繁に説明を求める家族が増えてきて、診療の妨げにさえなってきています。しかも、患者との関係が不明で、説明を求められ辟易する機会が増えてきました。家族の前では、勤務する会社に対しては、患者のプライバシーは、無視しろと迫られている気がします。
”知りたいんだから、聴くのはは当然で、説明を求めるのは権利でしょう”と、患者に同伴してきたことも、説明したいからと連絡して来院したこともない親族の方がです。この方に、対して、貴重な時間を割いて説明する義務が医師にはあるのでしょうか?
初診で、緊急対応可能な計測結果から、入院不可避と、医師が判断し”入院必要です。”と告知した後の、反応ですが、精査の結果を待てずに、いろいろ説明を求められるのには当惑します。最近は、入院期間、入院費用はなどの説明を求められますが、かなり重体で受診され、緊急対応のために、まず入院し、一般状態改善をはかり、平行して診断確定のための検査を進めていく状態で、初診入院必要性の説明短時間後での対応を迫られても、応えられる”診療情報”がほとんど無いのに、説明を強要される辛さに、理解を求めるのは無理なのでしょうか。
24時間は、次の日の活力を回復するための睡眠時間、休息、食事、清潔維持のための時間、患者に接する時間、データを再考する時間、不明なことを追求する時間、新しいことを吸収する時間、
患者家族への説明は、このいずれにも該当しません。現在の制度では、まったく無報酬です。患者への説明と、家族への説明とは次元の違う問題であると認識してほしい。
患者自身への説明は、必要です。病気に向き合い、治ろうという意欲は、病状に好影響を及ぼします。
TVで健康に良いと報道された食材は、あっという間に店先から姿を消すほど売れる。健康に拘っているのでしょうか?
日常の運動への関心も高い。健康に拘っているのでしょうか?
でも、継続的な毎日の生活に反映されていないように見えます。健康に良い特定食品に頼っていれば健康になれれば、医師は不要な社会で、医師不足どころか医師の失業が話題になるでしょう。バランスの良い食事こそが金科玉条といえましょうか。
喫煙は、悪性腫瘍との因果関係が、呼吸器疾患との因果関係がクローズアップされているのにやめない。でも、癌にはなりたくないようですね。
生活習慣病といわれているのは気になるし、なりたくはない。しかし、酒はうまいし、ついつまんでしまう。
などなど、人間は安きに流れてしまいがちで、責めはしませんが、心にちくりとした針を自ら刺してほしい人が、近頃増えてきたような気がします。
仙台血液疾患センターに、縁あって高村光太郎の手紙があるので、仙台文学館で”高村光太郎没後50年 智惠子生誕120年”を記念しての展示会が4月15日から開催されているという記事を、興味深く読みました。宮城学院から近いので、機会をつくり、アララギ派の歌人達との交流の一端が知ることが出来たらと思いました。
造血幹細胞分離、増殖を研究テーマとして20年間の細胞培養で培った無菌操作の手技が錆び付かないように、月1回程度、注射薬の調剤を手伝っている。
どこぞの大病院のように、高カロリー輸液のビタミン剤のみを薬剤部で混注するだけとは、仙台血液疾患センターの注射薬調剤は理念が異なります。医師は、治療に関する薬剤の指示は出し、患者に投与されている混合後の状態を確認はしますが、以外にもアンプルの形状、薬剤の状態について接する機会が少ないので、この手伝いは、医師である私にとって、認識を新たにする貴重な時間です。
今日は、以前改良してほしいと製造メーカーに注文をつけたイセパシンのアンプルが変更され、頭部に移動した薬剤が、本体に戻りやすくなり、調剤時間の短縮、振り回さなくて良いので、手への負担が減少しました。
抗生物質は、ケーキつくりで小麦粉がだまだまにならないコツはなんだっけと思い巡らすほどの、溶解に手間取り透明になるまで時間がかかるものが多いです。今日は、バンコマイシンの溶解で、一人分の準備に20分もかかってしまいました。(一般的な病棟調剤では、看護師が行うと思うのですが、準備時間は多忙を極める頃で、こんなに手間取るのでは、イライラしてくるだろうなと同情の念が沸き起こりました。)
ケイツーの、アンプル取り出し説明通りにやっても取り出せませんので、凝固専門の鈴木先生に伺って、”説明書通りでは取り出せないので、常識的に封の端を切ってアンプルを取り出している” と言うのを確認してからは、心平らかに準備できますが、今日も説明書の真意を理解し沿ってやってみようと努力しましたが出来ませんでした。
理念と指示と現実、実行のギャップは埋めなければならない。製造過程は、清潔安全でも、医療現場の調剤で、簡便、清潔、安全を確保できる薬剤形態を要望して、改善してもらわなければならないものがまだまだありそう。
14日NHK 夜7時半からの放送は、”医師不足への対応”座談会であった。私齋藤淑子は、1977年に東北大学第3内科に血液グループに所属するために入局した。当時、グループのリーダーの宇塚善郎先生は、学会の寵児であった。成人急性骨髄性白血病のDCMP2段治療法の極意を伝授していただきたいと、会員は先生を追っかけたし、報道でも度々取り上げられ、白血病が必ず死ぬ病気から、退院でき、しかも治るかもしれないとの希望を抱かしてくれた当時の反響のためでした(寛解された当時の患者との交流は診療を超えて今も続いています)。
しかし、先生は教授ではなかったからでしょうが、血液グループに属する医師は、1977年春には、居ず孤軍奮闘していらっしゃいました。白血病は、急激な病状変化ゆえ、四六時中拘束され、多忙が敬遠されるのがその第1の理由のようでした。その後も血液疾患のうち、白血病を専攻する医師は少なく、東北大学医学部付病院内の”血液を専攻する医師不足”そして、地域の血液を専攻した医師の供給不足へとつながります。血液疾患専門医不足に対する患者の危機感と先生への信頼が、退官後の宇塚善郎先生を仙台血液疾患センター設立へと動かした動機です。
医師の熱意を支えているのは患者です。最近、理不尽な物言いをされる患者家族の方が増えてきたので、医師が、重篤、変化が急な疾患をいとう風潮に、さらに拍車がかかり、さらには、利便性が無い地域への赴任は忌避されるだろうなと、わが身の近頃の経験から思いを巡らしました。
内科とは無関係との患者自身の判断で受診した歯科、眼科、皮膚科などで、小手術が必要になったときの患者が、電話で【大丈夫でしょうか】と問い合わせで言われたとき:;一見元気そうでも通院加療中の血液疾患患者。
日曜、祝祭日も入院患者の管理のために病院には来ていますが、外来通院中の、しかも症状が安定して変化が無い患者が、お話を伺いたいと急襲されたとき!
呼吸器取り外しを指摘された外科医は、救命のために取り付けたので延命のためではなかったが、と報道されていた。入院期間はどのくらいなのだろうか?
医療保険では、入院医学管理料は、病院の規模で規制されているが、在院期間が長期化すると削減されるので、有形無形の圧力が、管理者、事務側からかかってくる。重篤な患者は、長期化するし、退院は困難で、在院期間短縮の圧力は、医師の良心さえもゆがませるほど強いもので、私の大学病院時代ははねのけるため疲労困憊した。今回の人工呼吸器は、救命のためから、延命措置に変化して、取り外さなければならないほどの状態の変化があるわけで、入院期間長期化による、圧力が引き金になったということはないのだろうか?
6日のNHKのクローズアップ現代と、毎日の重篤な患者を診療対象としている医師の立場からの要約が、本日のタイトルです。
TVの内容は、予防に努め、医療費は大幅に減少したが、自治体の財政が逼迫して、施策を中止せざるを得ない。健康で総支出は減額されても、出すところと、出さない末端組織は異なる矛盾の露呈。
医療現場の、医療保険にも予防投与ということはご法度です。保健請求をしても、支払ってくれず、病院側が泣きを見るの現実があります。
高度の好中球減少でも、感染症が発症したという事実が無いかぎり、2つの抗生物質のみが長い医療サイドの努力で認められただけです。好中球500以下になって、感染症が起きたら生死に関わる状態になりかねないし、白血病では急激に減少することは日常茶飯事で、しかも個人差が大きいのです。G-CSFという高額な好中球を増加させる薬剤があります。医療費抑制のために、末梢血検査を行って、使用期間を1日でも短くしようと、頻回な検査を行っても支払ってもらえません。血小板減少に伴う出血の可能性があっても、出血傾向がなければ認められません。そのために、医学的根拠のある出血傾向を示す検査をしても、回数が多いとそれだけで、支払ってくれない回数が増えます。治療に伴って、10万以上の血小板数が1万以下になることはざらにあるので、末梢血液検査を根拠にして高額の医療費がかかる血小板輸血を必要最小限に最大限の効果を挙げるよう努力の証としての末梢血液検査なのにです。
太極拳は身を守る武術として修行をするのだそうです。背筋を中心とした左右に偏らず、足は大地にへばりつき、攻撃を感じたらば、瞬時に正面で対峙できる可動性のある関節を目指して指導を受けながら練習に励んでいます。”自分の筋肉は自分で”、”血行を良く出来るのは自分”、”体を維持するのは自分”であると当然のことを、よく悟りました。
長期入院で、足腰の衰え著しい患者に、太極拳の姿勢を維持出来るようになるための基礎運動の一端を、談笑の傍ら行っていると、目覚しい回復が認められます。ベッド上で可能なので、転倒の危険が無く、他人の手も煩わしません。本人が、1分でも毎日繰り返せばよいのです。
まっすぐに寝て、”かかと”と突き出すのです。下肢の屈筋(大腿二頭筋、腓腹筋=ふくらはぎ)が辛いと感じたら正しい突き出し方です。
腰を深くいすにかけます。両手を大腿に、両の指を向かい合わせて、大腿に直角になるように、手のひらを軽く置いて、次いで胸を広げ、方を下ろしながら肘を伸ばし、上体を上に向かって伸ばすのです。腰を浮かしてはいけません。もちろん両足は、土踏まず以外は、床に張り付くようにつけていてください。
内科医である私が、人工呼吸器を取り付けなけらばならないと決意するときは、死をまったく予想していない状態の患者に、突然の呼吸停止状態が起きたときで、救命のためで、延命のためではないだろう。
造血器悪性腫瘍を専門としているので、すべての患者が元気で退院するわけではない。万策尽きて、死を予想しなければならない、いわゆる”終末期医療”に直面することもある。心拍もかすかになり、呼吸も最期のあえぎをしている患者を前に、家族の意向をはかりかね、とるべき対応に苦慮する。呼吸停止、心停止をしても、心臓マッサージをなほ要求される場合もある。医学根拠による判断を否定されたような、複雑な心境でうつろな行動をとることになる。、
絶対に避けられない”死”。
医学教育で、死は”どんな場合も医学の敗北”としての教育を受けてきたが、長期に病悩する患者の傍らにいた家族が、死を向かえほっとする家族の姿を見つめてきて、”救命”だけでなく”救死”ということについての医学教育があってもよいのではないか。