西日本豪雨後、茶色に濁った水が、街を覆いつくしている映像は、
東日本大震災の津波に飲み込まれた街を思い出すが、
水の色は、違っている。濁流。
水が引いた後も、土の微粒子の舞い上がりが、呼吸器系の新たな健康障害をもたらすのでは?
生活用水を提供してくれた雨が、水不足に苦しむ状況をもたらしている。
医療者なので、水の供給途絶は、衛生環境の確保ができなくなり、
感染症の蔓延懸念。
かかりつけ医院での人工透析の途絶に伴い、
システムとして整っている近隣施設の透析施設への移送など、
緊急の命の確保後、次から次への行動により、新たな対応が迫られるが、
ライフラインの寸断は、常には可能なことが、実現不可能なことをいやっというほど思い知らされ、
疲労の上に疲労が覆いかぶさって来る。
宇宙規模の気象の出来事。
勝手の平年並みの気象に戻ることを祈り、
被災地の方々には、なんとか、無事に切り抜けていただきたいと祈りつつ、後方支援に手を尽くすのみ。
水による被害報道が連日続いています。
天上から降り注いだ豪雨が、
大地に凹凸をつけ、流れとなり、
土、岩を巻き込みながら、物理的力を加速させながら、山肌をえぐりながら、
遮る土手はなぎ倒し、平地に注ぎ、拡がった土ケった色の水。
2011年3月11日後の景色に酷似。海から向かってきたのと、山から襲ってきたという異なった表現にはなるが、水に沈んだ街の景色は同じ。嘆き、ライフラインの欠乏も同じ。
水に襲われながら、水不足に悩まされている、激烈な被害を受けた被災地。
水は、生きる上に必須ではあるが、適量、適在のときで!
”記録にない”豪雨と表現される今回の降雨。
ここ数年、局地的豪雨が増えてきて、
今回は、数日にわたり、豪雨地域が広い。
どうしてなんだろう?
質量不滅なので、 地球規模でのH2O 水は変化していないだろう。
気体であれば水蒸気、液体であれば水、固体であれば氷。
地球規模では、氷状態は、南極氷河、北極氷河、アルプス氷河など減少の一途と報道されている。
海面上昇による、国土の消失、消滅危機にある国も報道で聞く。
待機中の水蒸気は、変化して地上に降り注ぐ時がある。
今回。
記録にはない時、宇宙物理学的には記録される時期はあった。
創世記、ノアの箱舟以前の、人類誕生以前。
人体の60%は水でできている。
維持するために、のどが渇いたなどという自己の欲求に従って補充すれば、まあ過不足ない状態を保てる。
自己欲求発現が適切でなくなった高齢者、
自己欲求を実現する行動力不足な乳幼児は、周囲の気づきで対応してもらい、
過不足は、体内のシステムで調節。
自己調節を超えた力が加わった時の水の過剰、不足は命の危機。
水中生物も、穏やかな水が激変し、力を加えて動く時、打ち砕かれて、命を絶たれてしまうらしい現実もあるようで。
これから先の、水に対する備え、どうする!
教育者でさえも、生徒を傷つける言葉を発しつづけるという、痛ましさ。
福島原発は、経済優先の日本の体質から生まれたエネルギー供給施設。
建設前から、アメリカの原発事故と同じ型で、建設位置も危険は指摘されていたという事実。
専門家が、建設しない場合の経済最優先論理から、危険性を認識しつつも、まれな状況だからたぶん事故は起きないだろうで、建設された福島原発。
地域を維持する産業の乏しい地域に、危険を押し付けるという、”富裕者”のエゴ。
避難者を傷つける人の心理も、自分は違うという、エゴ”
大多数に属する側の言葉の暴力。暴力を認識できない鈍感な人の存在は、”人の深層はこれほどの他者に対する冷酷さをゆうしているのか”と心を重く暗く、憂鬱にする。
6年経過しても、2553人が不明のまま。
身元確認できない遺骨、遺体も被害各県に。
遺体は、病院、在宅で亡くなった方とは状況が違うということを当事者でない方々は想像していただいたことはあるでしょうか。
震災後の復旧作業に当たった方が遺体に遭遇し、安置所に運び、棺に。
安否確認の果てに、沢山、沢山並べられた棺ののぞき込む。一目で確認できる遺体、衣類などから識別しなければならない遺体もありました。
交わされ続けた会話は、”見つかっただけましだ。となりは、まだみつからないもの” など。そして今も不明のままという家族もいます。
確認できる一族郎党亡くなり、公的年金受給状況から職員が思い至り身元確認に至った方もいらっしゃるという、大規模大害後の現地です。
被災地も、現実に面しながら生きていかなければなりません。
心の闇は、闇があるからこそ、他者に向かうときは明るくふるまう。
信頼できない限り、心の闇は語らない。
365日、24時間、重苦しい記憶、闇は同伴者であり続ける。
エネルギーにあふれ、他からの需要がある能力を持った人は、震災の記憶を次への教訓として力強い人材となると期待できる。
しかし、既に高齢な人は、慣れ親しんだ環境は根こそぎ奪われ、
体が動き続く限りは、生産に携われ収入を得られた海、農地は奪われ、
所在なく、時間を過ごさなければならなくなり、虚しさを抱えたままとしか表現できないが、人生の終末、死へと向かわざるをえない現実がある
。
教育者でさえも、生徒を傷つける言葉を発しつづけるという、痛ましさ。
福島原発は、経済優先の日本の体質から生まれたエネルギー供給施設。
建設前から、アメリカの原発事故と同じ型で、建設位置も危険は指摘されていたという事実。
専門家が、建設しない場合の経済最優先論理から、危険性を認識しつつも、まれな状況だからたぶん事故は起きないだろうで、建設された福島原発。
地域を維持する産業の乏しい地域に、危険を押し付けるという、”富裕者”のエゴ。
避難者を傷つける人の心理も、自分は違うという、エゴ”
大多数に属する側の言葉の暴力。暴力を認識できない鈍感な人の存在は、”人の深層はこれほどの他者に対する冷酷さをゆうしているのか”と心を重く暗く、憂鬱にする。
6年経過しても、2553人が不明のまま。
身元確認できない遺骨、遺体も被害各県に。
遺体は、病院、在宅で亡くなった方とは状況が違うということを当事者でない方々は想像していただいたことはあるでしょうか。
震災後の復旧作業に当たった方が遺体に遭遇し、安置所に運び、棺に。
安否確認の果てに、沢山、沢山並べられた棺ののぞき込む。一目で確認できる遺体、衣類などから識別しなければならない遺体もありました。
交わされ続けた会話は、”見つかっただけましだ。となりは、まだみつからないもの” など。そして今も不明のままという家族もいます。
確認できる一族郎党亡くなり、公的年金受給状況から職員が思い至り身元確認に至った方もいらっしゃるという、大規模大害後の現地です。
被災地も、現実に面しながら生きていかなければなりません。
心の闇は、闇があるからこそ、他者に向かうときは明るくふるまう。
信頼できない限り、心の闇は語らない。
365日、24時間、重苦しい記憶、闇は同伴者であり続ける。
エネルギーにあふれ、他からの需要がある能力を持った人は、震災の記憶を次への教訓として力強い人材となると期待できる。
しかし、既に高齢な人は、慣れ親しんだ環境は根こそぎ奪われ、
体が動き続く限りは、生産に携われ収入を得られた海、農地は奪われ、
所在なく、時間を過ごさなければならなくなり、虚しさを抱えたままとしか表現できないが、人生の終末、死へと向かわざるをえない現実がある
。
福島原発に関する講演会に参加。
”事故が起きたら逃げられるのか?市民による女川原発の安全性を問うsymposiumpart2”
浪江町長、馬場有さんの、言葉のはしはしに、当事者ならではの表現は、胸に迫ってきました。流民。
国からの除染完了、帰還宣言が始まった後の、地方行政長のとしての立場としての発言、
会場からの発言、チェルノブリの被ばく実態から、若い者すべてを受け入れないという決意を迫られたときなど、
福島原発後の地元は、”突然の略奪”で、着の身着のままの退去と言えるでしょうから、
生涯にわたる、記憶、心の問題。解決策に、正解は無く、人間の知恵、判断で、その時出来る最高と信じて、決断を下し、でも、不都合あれば、変更を良しとする、試行錯誤で進むしかない現実。
講演会を聴いた、感想を和歌で、簡略化して表現してみました。
命じられ 着の身着のまま 逃避行 被ばくしながら 安全圏へ
原発時 安全圏は 遠かりし 被ばくしながら さまよい逃げる
極限時 国東電は あたふたで 情報出せず 身を守りしは 己の判断
復興へ 避難解除は 始まりで 残留放射 常に意識す
6月10日にも
”あれから5年 私たちの選択 ~福島原発の今をみつめて~”
岩沼市民会館中ホール で 18:30~ 開催されます。
鉄筋コンクリートの耐用年数は、50年ぐらいと記憶しているので、
保存を決定した建築遺構は、持っても50年程度だろうか。
戦後70年経過し、原爆ドームの劣化、保存も話題になった記憶がある。
記憶の風化を防ごうとしている年月は、
震災時、小学生であれば、年金世代になったときには、保存維持のための議論が交わされるだろう。
学童の親は、超高齢者世代になってるだろう。
被災地の住民の立場では、震災は忘れようがない。
近親者が津波で奪われなくても、
巡り巡って、生活の基盤が脆弱になり、失ったものは大きいから。
東日本大震災後も、全国各地で、天変地異の災害に襲われている。
東日本大震災に限らず、被災者は、忘れようがないと思う。
非被災者が、傍観者として眺めた映像が風化しても、
日常で、思い出さないのも、やむを得ない人のさが。
被災地は、生活基盤の再構築のために、自ら働き、訴え続ける。
震災遺構保存のための基金(税金から捻出)と、保存期間の兼ね合いで妥当額はどのような観点で決まるのだろう。
マスコミで騒がれなくても、忘れません。忘れられません。
2011年3月11日午後2時46分から始まった、生活の激変。
1か月ほど経過して、3月11日以前の日常に戻ろうと思っても、
生活の基盤が変わらざるを得ない変化の中では、表面は戻っても、戻すに戻せない部分の積み重ね。それが崩壊へと繋がっていった。
当事者以外の記憶は薄れ、忘れていくのはやむを得ないと思う。
福島原発で、高線量放射能で汚染されて、土地を奪われた住民は忘れてはいけない。
福島原子炉で生まれたエネルギーで潤った民は、福島原発で、豊かな生活を保障されていた民は、
生活を奪われ、土地を追われ、家族の離散にも追い込まれ、ほぼ永久に、死ぬまで戻れず、ほかの土地の住民として、生活し続けなければならなくなった、福島の住民を忘れていはいけない。忘れてはいけない。
患者は、1階の外来に移動し、帰宅困難となった職員も含めて、おにぎり、味噌汁の(都市ガスでない幸い)簡素な食事(その後、3週間程も続くとは夢想だにせず)。
停電で、まっくらやみのなか、ラジオ,携帯ネットの情報で、仙台蒲生海岸に数百人の遺体報道はにわかに信じられず。星が沢山見える空を窓から眺めた。
翌朝は、遠く、海沿いから火,煙が見え、
南部道路は、時折警報を鳴らしながら、海岸方面に向かう車が通るのみで、ひっそりとしていた。
病院として、緊急対応の食糧補給庫が、海岸沿いにあったため壊滅し、補給されないとわかり、
さらに、職員は家族の食糧確保のためパニックとなり、いやはや!
ホワイトデー14日に配達される予定の長崎角煮まんじゅうを当てにして電話をして、
交通路が遮断されているので配達不可という、打撃的な情報を得ることに。
比較的早く,電気が復旧し,14日にテレビをみれるようになり、
職員の家が津波でさらわれている映像などなどを目の当たりにして
自らが、甚大な被害がでている現地住民だということを、おぼろげに悟り始め、
通常の給食、リネン交換、通勤体制が整うまでの長い道のりを予測することはできず、
日々の診療の、薬、血液、食糧の確保は自力で行う以外はたよれる、公的機関は存在しないと言うことを日々、強く強く実感していった。
日々生き抜き、切り抜くための知恵,協力で,ほっとしていた震災直後。
4年後の今、みとってくれる家族を失った被災住宅での孤独死
コミュニティのひとりとしての存在感を示せなければ生きていけない人間という事実を突きつけられている。
表面は、変哲のない日常の会話の世界に戻ってきています。
震災直後の,”内服薬が!薬をとる暇もなく逃げたので” ”食べ物あるの?” ”家族は無事?”などの会話は、
”今年は収穫できたんだ!”
”見つかった?” ”まだなんだ。ふんぎりがつかないけど、葬式はそろそろださなければいけないかな。”
”仮設から出られたんだけど!二重返済になるから大変” などと変化しながら
時間の経過につれ、復興が勧められる地域と、
放射能の影響があり停滞せざるを得ない地域との差は大きくなってきています。
放射線の影響下にある福島県で,農業、漁業に従事していた患者は、話をしていくと
やりきれなさがひしひしと伝わってきます。耐えるしかないのです。身体表現として,消化管潰瘍が発症などが起きています。
漁業の復活もまだまだ。収穫量が安定していないので、販路の確保がままならないという現実があります。地元で,個人的に消費するだけでは、産業としての復活には限界があるのを実感しています。
一切合切流され、トラック運転手として生計を立て、再起をうかがっているようですがもう少し時間がかかるのだなと、大病から生き延び、天災からも生き延びた患者にひっそりとエールをおくっています。
震災の影響もあり、仙台血液疾患センターは閉院となり、
当時大震災をともに乗り越えた人は散り散りになり、今は十指に満たない人と
名前の変わった、富田病院で仕事をしています。
(つい最近、1年に一回だけ健診をかねて受診する患者が,ネットにHPがなく、電話も不通で、驚いたんだ!先生元気でいてくれよ。)
震災直後、命の糧になっている病院の運命を案じて連絡をくれた患者も多かった。
いつもの日常であったら、
発病せず、死なないで済んだのでは?
手遅れになる前に、病院を受診していたならば、
家の事情がいつも通りだったら、死ななかったかもしれない!
震災がなかったら、まだ、まだ診療を続けられる状態だったろうな!
時間がたっても、忘れない、忘れられない、それぞれの患者。
記憶を生かして、ともに支えながら、
教訓を、天災の多い日本の未来に生かせるよう生き続けなければ。
3月11日という、特別な響きのある日が近づいてきて、
いろいろな当時の検証報道が多くなっている。
そのなかで、
仮埋葬の掘り起こし、火葬へ という作業
震災復興の現場から
http://www.doyukai.or.jp/publish/2013/pdf/2013_07_01.pdf
従事した人のその後の精神の摩耗からの回復は?
(予期される臨終を職業として見届けても、感情の変動は残るのを経験しているので、大丈夫かしらと思ってしまう。)
指令で動く現場に,指令が届かない(出せる状況ではなかったから)ために、
待機していた救難ヘリ。
指令が届かない状況に対して、もう一日早く、もう2日早く、いや当日に異常だと察知して、
ピンポイントでなく、とりあえず被災現場に飛んでいたならば、
海水につかったビルの屋上で低温死亡せずに、生き延びた人は確実にいた。
過去を分析し、非難するためではなく、次の予防のために。