連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

太極拳 C級指導員合格の先

2014-05-31 15:44:04 | スポーツ

2002年 健康を心配してくれた友人の勧めと,

練習時の夕食、送り迎えの強力なサポートで

継続した結果ですが、

今までは、24式の套路を間違えなければのレベルでしたので、攻略可能でした。

2段から先は、

運動器を巻き込む、全身結合組織の炎症後の後遺症、再燃中の身体条件で、

クリア出来るレベルまで、日々の矯正運動で回復可能か?

合格要件を眺めると前途遼遠。

右手は、3年前に相手がいる競技で指摘され気がついた、力を受け止められない状態がいまだに続いている。

左半身は、首、肩、胸部、腹腰、骨盤にかけ、がっちり硬い芯が通っている。

意識しないと反時計回り回旋の姿勢で立っている。

その結果、足の蹴り出しは、前方を向かない。

つま先、膝が一致せず、ジグザグで、膝を痛めやすいというか、

障害に一層拍車をかける状態が続いている。

2段合格要件を前向きにとらえ、

障害を進行させないために目標にする。

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ツバメの飛来

2014-05-17 22:00:29 | まち歩き

仙台市では、まだツバメの初飛来を確認出来ていないとのこと。
名取川沿い,田畑がひろがる私の家では、5月3日には確認。
今は,記憶にのみ存在している仙台血液疾患センターには、ツバメが頻繁に飛来。
去年までの巣を捜しているのかな?
今は、新経営陣となった富田病院はツバメの巣を撤去。
病院の近くにある,私の家に巣を営んでほしいのですが。
瑞鳥と言われるのも当然
ツバメは、容姿端麗、声も良く、仲間の連帯も良く、
眼も、心も洗い清めてくれる。
日本野鳥の会では、”消えゆくツバメをまもろう”活動を行っています。

寄付をするとツバメのピンバッジもいただけます(不要申告も可)

http://www.wbsj.org/nature/research/tsubame/

20140517_215327

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医療現場

2014-05-11 10:43:46 | 健康・病気

赤裸々な場面に満ちあふれてる医療現場。

排尿、排便について訪ねるのは当然。症状によっては,微に入り、細に入り。

手術後、怪我をして身動きが取れないときは,白日の監視の下に、

排泄行為を行わなければならない。

20年前に、術前検査として,血管造影後の父の言葉が印象的であった。

”自立的に、人目を避けての行為を、突然監視されながらスムーズに出るはずがない。

検査後数時間経っているので、是非トイレで排尿したい。お願い。”

最終決断者として家族の中に厳然として存在していた父の願いなので、

点滴台は父自らが押し、私は穿刺部位を必死に圧迫しながら、

歩行速度を二人で協調させながらひっそりと排尿を済ませて、

病室に戻る途中に、看護師にみつかり、こってりと叱責された。

幸いにも,穿刺部位の再出血はなくほっとした記憶がある。

衆人環視のベッドサイドで排便を命じられ、習慣となった若いクローン病患者が、

病状が安定し、共同トイレでの排便が許可となったにも関わらず、

かたづけたポータブルトイレを、自らベッドサイドに運び込んで、排便を行った。

患者は、一人での排便は不安でできなくなったていた。

高齢者とひとくくりにしてはいけない。

社会の一員として活動していた頃の知的活動能力を維持している高齢者は、

筋力低下で、自立的に排泄行為は困難となり初めは、

困惑、自信喪失、、その後はどうする?

排泄行為は、毎日、毎日、生きている限りは必然なのだから。

排泄物の残留に伴う臭いは、芳香族に属するが…………。

加齢臭を気に出来る段階から、さらに進んでしまった段階では、

受け入れ、開き直り、慣れる。

高齢者病棟の、医療従事者、介護者は、現実を直視、受け止め、慣れ、仕事と割り切る。

ある介護者は、患者様が不快にならないように、

心地よい香りを身につけて接するようにしていると。

患者自らが発する臭いに対する感受性と、

身近に接する人の臭いに対する感受性は別物。

少し前に、2060年には国民一人あたりの借金が1億円近くに達する年代では

増大する高齢者、介護を必要とする高齢者の増大も伴っている。

さてさて、どうなるのでしょう。

ネクローシス的生物の終焉ではない高齢者の死は、アポトーシス的死。

苦痛はなく、消え入るように生命の鼓動を止めるように映る。

CURE 治療して治すから、

CARE 見守る医療の転換点の見極めの時は

社会的容認に裏打ちされないと、

見逃し、医療放棄などとして医療訴訟の火種になる。

患者側、医療側双方にとって益のない事態。

家族にとって、喪失の悲しみはあっても、

十分に見守り、見送ったという充実感を感じる最期となるように。

死ぬ場所までも、社会というか、国の厚生労働方針で変えられてきたと実感させられた,何年か前から始まった内科学会総会での講演。

生前は、女学校で、家で死ぬ場合の教育が成されていた。

それが、社会保険の普及で,病院で死ぬのが、最も安くなった。

在宅で死なせろと言ったって、

金銭感覚から、労働力からいっても、

病院で最期を迎えさせル潮流を変えるのは容易ではない。

文化的背景を、国を挙げて壊しておきながら! 

という発言を記憶している。

人手、経済力の喪失を前にして、

死んでから後の,葬儀の有り様よりもっと議論が必要。

葬式前の、赤裸々な現実を直視して考えるか?

ケセラセラ、なるよういになるさ!

とでも思わないと、重苦しくなる

深刻な,高齢化社会、生産性低下の日本

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不安、失神に対しては本末転倒ではない解決策を!

2014-05-10 14:20:06 | 健康・病気

医療現場は,非日常的ですが、誰でも経験するかもしれない場面にみちています。
医療従事者の一人として、気に障ることが続きました。

AEDにより救命できるのでその知識の普及を!という報道の中で。
AEDは、救命すべき人を救ってくれる信頼できる素人も安心して扱える医療機器です。
たまたま通りがかりに,意識のない人に遭遇し、
AEDを操作し、救急(QQ)車に引き継いだ人が
”助かりました。ありがという”という連絡を受けるまで、不安で仕方がなかった。
という、コメントに対して、
AEDを操作した人の,その後の心のケアをどうするかを社会として考えていく必要があると、報道コメントがあった。
 私は、慣れないことを施行したときに不安感があり、行動の正誤を反芻する心の動きは当然で、”社会としてのケア”ではなく、AEDを通りすがりに必要なときに出来る行動訓練へという社会のあり方の構築を訴えるべきだと思う。

目下、教育機関の教師をしています。
講義中に、医療現場の人体の映像が出てくると失神する学生がいます。
医学生でさえ、失神するので仕方ないと思うのです。その後の教師の対応に疑問が。
人体映像が出てくる講義を避けるべきではないかという発言が出てくるのです。
医療現場に実習に出かけ、就職する可能性のある学部の教師からです。
一度の失神した学生には、避けるべきではなく、
衝撃度の少ない映像による反復経験を自習させるべきだと思うのです。

実習中に、マルク手技をみて気分不快となり、その場で倒れたと話す学生。
患者の試練に思いも至らず、耐えることもせず、検査の障害を与えた自分の動作に思い至りもせず、自分の感じた気持ち悪さにのみ関心があったことに衝撃を受けた。
その学生に、患者の検査中の痛みなどを話し,反省を促し、自分の気分にのみ忠実に行動せず、相手を思いやることをしなければ、養護教諭になる資格なしと言明した。

日常の未経験場面で、驚愕し、人手を煩わす学生が着実に増加。
現場逃避をさせず、現実を直視できるように経験を積ませるようにしてほしい。
さらに、失神する学生が感受性豊だかとの表現にも唖然とした。
目的意識なく、乏しい経験、感情だからこそ、自分の行動を示威的にできるのでは?
失神、気分不快などに妨げられることなく、反復経験、学習により、耐えられ,行動できる人物に育て上げることが教育の本質でしょう。

耐え、平静を装いながら、



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