連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

まだまた生きなければ到達しない!

2019-06-27 22:23:29 | 日記・エッセイ・コラム

96歳になる患者の受診日。

挨拶をして、

診察とはいえ、30年来の付き合いですから、世間話が多くなり、

”長生きしすぎ”という言葉を、何回か発しますが、死にたいとは言いません。

お盆、そしてお彼岸までは生きられるかしらと言って、車いすを押されながら出てゆきます。

患者の年齢に達するまで、私は、大学卒業までの時間を生きて、生き続けてと想像することしばし。

外皮的属性なく、心を寄せて時間を過ごせる人はすでにこの世を去って、

はてさて、明日につなげるものは、

亡き人の法事、

同居している猫の寿命が尽きるまで

昨日、あと6年半は、生きていないと、望む形での法人解散に至らないことを知ったので。

体力、知力の減衰を伴いながら、でも、まだ、感情鈍麻には至っていない生存。

社会の一員として、最も研鑽を積んできた医療の分野で、父から贈られた言葉、慈療済世を心に抱いて。

 

 

 

 

 

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認知症 生理学的には

2019-06-22 12:22:15 | 健康・病気

人の脳についての、”定説”が覆され始めている。

脳頭蓋骨は、20歳ごろまでは大きくなるとの計測結果が示されている。

20歳ごろの脳重量は、1300g前後に。

脳の神経細胞の数は、大脳皮質で100億とも180億とばらついているし、

小脳の細胞の数は、1000億ともいわれて、脳全体としての神経細胞数は不明。

神経細胞は、誕生から死ぬまで分裂増殖しないのが定説になっていたが、そうではないという研究結果も示され始めている。

加齢とともに脳は萎縮すると言われるが、

脳の細胞、神経細胞も細胞。

細胞は、タンパク質、脂質を主成分としていて、傷ついた修復可能な細胞成分は修繕して細胞を維持しているはず。

脳がエネルギー源としているのは糖。

細胞が、生き生きとして、死なないための酸素供給は必須条件だろう。

脳の血管が動脈硬化で、細くなっていてはだめ。

脳の神経細胞も、日々新しくつくられているということの報告があるようになり、年を取ったからと言っても、減るだけではない!

細胞が、新しくつくられる最低条件を、日々満たす生活があってこそ。

 

 

 

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認知症

2019-06-15 10:34:03 | 日記・エッセイ・コラム

職業柄、高齢者介護、認知症介護、認知症当事者との接点がある。

認知症という言葉、知らない人はいないと言えるほどの日常語になったのはいつ頃だろう。

Dementiaに対応する言葉として”痴呆”が使用されていたが、言葉の持つイメージに配慮する形で、議論を重ね

2004年12月に名称提案がなされ、行政用語として使用されるようになったのだそうです。、

厚生労働省のHPには、詳しくしるされています。

【認知症とは「生後いったん正常に発達した種々の精神機能が慢性的に減退・消失することで、日常生活・社会生活を営めない状態」をいいます。

避けようのない加齢現象。以前は認めなかった、白毛、しわ、足がつるなどがあらわれると、

にわかに、”認知症”当事者としての自分が、そこはかとなく浮かび上がってくるが、

両親は、認知症にはならず、介護は、必要なく、薬石手を尽くしたが、疾病による死亡であったので、

ロコモティブシンドロームにならなければ、多分老衰死!をイメージしている。

学生時代に発病した膠原病関連で、歩行困難、車いす生活での生存を想定していたので、自宅はバリアフリー。

入り口はスロープ、手すり取り付け可能な耐久性を持った壁の自宅なので、住み慣れた家で、AIロボットを相棒として導入し、介護システムの支援を受けながら、自宅で死ぬまで過ごしたい。

心通わせた人はすでに他界しているので、葬式はせず、葬儀社に取り仕切ってもらい、遺骨は、両親、先祖が眠る寺院の墓地に。

仏教界の社会通念に従い、菩提寺で法要をしてもらい、死後50年を経過していない両親の法要もあることであり、近々には、永代供養のお願いについて聞いていただく。

奈良薬師寺食堂『千体阿弥陀仏』にて、宝寿院無量医光善照清居士、喜徳院悟山覚道居士、齋藤家の永代供養をしていただくことになり

先行き不安なし‼という安堵感がひろがりました。

生を得てから、唯一の変えられぬことは、死ぬことですから。

一期一会、日々に生き、死ぬ。

 

 

 

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ひきこもり

2019-06-13 09:23:30 | 日記・エッセイ・コラム

2018年12月末の、内閣府調査のの40歳から64歳のひきこもりは61万人超と推計。従来行われてきた、15歳から39歳のひきこもりは54万人推計より多いという。

引きこもりの人の生存を支えている人は、一人の引きこもりの人に一人以上はいるのだろうと推測される。

何百万人かは、関係者だということに。

引きこもりになっている人は、もともと引きこもりではなかったのでしょう。

引きこもりとなるきっかけが改善されず、むしろ繰り返されての果ての引きこもりとなったのだろうと思い、

”hikikomori"と記載される外国の報道から、日本の人間関係の心の底にひそむゆがみの蔓延、改善策の無い社会になってしまったのかと思う。

わが身を振り返り、引きこもりにならず、過ごしてこれたのはと、振り返ってみると、

最大の危機は、大学卒業まじかの、今でも残像が浮かび上がると体がこわばってしまう出来事と、それに付随するその後の中傷だったが、幸い、そこに留まらず、無関係な人間関係の場所で、時間の余裕がない仕事に就いたことで、外の世界につなぎ留められていたので、引きこもりにならずに済んだと思う。残像以外のことは、失神とともに、関連ある期間の記憶は喪くなって。ただ、恐怖を、思い起こす雰囲気に出会うと、その場にいたくは無くなるのですが。

嫌な場所から、切り離して生活ができること。取り巻く人間関係は重要。外に結び付けておく、義務的な毎日も重要。

厭世的にならずに、引きこもりになる危険がなくなるのには、

変化に気づき対応できる人が近くにいることで、繰り返し何気なく対応していくことで時間が過ぎていかなければ。

”引きこもり「”当事者になる危険がった人が、原因に立ち向かって解決しようと思い始めて、始めて危険が去ったと言えるのだと思う。

引きこもりの究極は、自殺ではないかと思うのです。

ひきこもり原因の近似に対することへの攻撃性を行動に移すまでの、用意周到な目的意識を、ある期間保ち続けられるのは、思いつめたらという人間は、いくらでもいて枚挙にいとまがない。ただ、防ぐこと可能な時間はあったのだと思う。

何をすればよいのだろう?何に気づけばよいのだろう?

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