連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

百か日とは卒哭忌か!

2015-08-30 11:38:14 | 血液専門医宇塚善郎
近年の8月は、毎日に変化を求める宇塚先生主催の誕生日を祝う月であったが、今年は、8月30日は先生の百か日。百か日は(そっこくき)とも呼ぶそうで、悲しみをリセットする意味もあるようで。
8月31日、先生の誕生日には、切羽詰まった仕事満載で、やり遂げたときの爽快感、かつがれてしまったときの喜びようなどを思い出し、生まれてきてありがとう、祝い花をささげたいと思います。
生前誕生祝の花を抱えて記念撮影でおどけている先生

縁無き人には、てっとり早くというのが、最近の風潮。
分れを心底悲しんでいる身には、卒哭忌と言われる、とり急いだ百か日の法要は、本末転倒ですね。



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遺徳を偲んで:宇塚先生へ送る言葉 仙台市医師会報8月後掲載

2015-08-28 10:18:33 | 血液専門医宇塚善郎
仙台市医師会報掲載のアップです

宇塚善郎先生は,平成27年5月23日午後5時半に息を引き取られました。
 通夜は、 5月26日 午後6時から
 告別式は、5月27日 午後1時から
仙台 斎苑で執り行われました。
通夜の儀後は、妻美恵子様の、夜を徹して、若き日に合唱されたというドイツ語の野バラの歌声を届け続けられました。
明けて、5月27日に、出棺に始まる葬儀一式が執り行われました。栃木県にある菩提寺、真言宗、無量寿院の住職様により執り行われ、戒名 宝寿院無量医光善照清居士を授けられました。


弔辞
先生の人となりを知る友人の多くの方はこの世を去りました。40有余年の間、先生の近くで研究、診療の時間をすごした齋藤淑子が、先生の御逝去に際し、謹んで弔辞を述べさせていただきます。

栃木県清洲村の旧家の跡取りとして生を受けた先生は、農林省の役人として全国に赴任して家を不在にする父の名代として幼き日から祖母“つや”様から古今の記憶に残ることわざによる薫陶を受け、19代当主として、母屋の新築、3層の池を備えた江戸時代に築ずかれた庭の整備、家周囲の壁、そして二層になっている長屋門の改築を成し遂げ、1200年代から続く家の維持への気概を示されました。

旧制栃木中学校時代は、小高い丘から、通学のバスに間に合うように駆け下り養った健脚で、旧制四高入学後は、陸上部アカシア会に入部し、長距離のエースとして期待されましたが、病を得た休学中に医学部を志すようになり、病床に臥せっていた当時の気持を、親しみやすいウイットに富んだ患者との語らい、医師として治すという強い気持を持ち続けた診療に結実させたお心は、学ぶことの多いお姿でした。

インターンとして過ごされた竹田総合病院時代では、ほかの先生への苦情を訴えていた患者に “文句ばかり言う前に気持ちを表す礼でももっていけ”と諭した指導の外科の先生の貴賤をつけない自負を持った医師としての姿勢に感銘を受け、気仙沼病院時代の、往時の先生の真摯な診療姿勢を懐かしんで、数十年経ても、仙台血液疾患センターを訪問していただいた方々がいらっしゃったことは、信頼を得る大事さを教えていただきました。
 
白血病の宇塚というイメージが定着していますが、東北大学第3内科に入局まもないころは、宇都宮徳馬氏が生存中は、季節の挨拶が欠かされなかったミノファーゲンが肝臓の機能障害を改善するという報告、学会号外がでたというマイトマイシンにより胃がんは瘢痕まで縮小するなどの報告をされ、固形がんをなど多岐にわたる研究をされていたようです。とことん突き詰める勉学の広い知識が、血液疾患の診療に反映され、好成績を得るには必要だということを教えていただきました。

昭和47年(1972年)に新潟で開催された日本血液学会総会の報告は、学会場では、さんざんクサされ、共同縁者と天を仰いで寝転んだ急性白血病の報告が、国立がんセンターの故木村禧代二先生の目に留まり、日本初の集学的研究の共通テーマに取り上げられ、名古屋大学の故山田一正先生によりDCMP2段治療と命名され、また、1976年東北ジャーナル、山形教授退官記念号に掲載された英語論文が欧文誌で取り上げられ、先生は時代の寵児となられ、担当医師による成績の違いに驚いた、私は、先生の門をたたきました。その後、多くの国内、国際学会にともに参加させていただき、アメリカのゲール博士からライバル視される存在の先生、白血病の化学療法を治癒可能な成果を挙げた世界で最初の医師として1980年のモントリオール国際血液学会の教育講演で紹介された時は、日本から出席されていた先生方からどよめきが起きる先生は弟子一同の誇りでした。

患者の救命のため日常診療に費やさなければならない時間の多さゆえ、タイムリーな業績報告は勢い少なくならざるを得ず、多くの有益な方法、成績を未発表のまま、この世を去ったことは憂慮すべきことであり、弟子の力不足ゆえに苦汁を味わせてしまったと、深い自戒の念を感じております。かならずや、投稿し上梓を目指して努力を続けることをここでお誓い申し上げます。

先生が退官した1990年当時は、血液専門医の不足は著しく、患者の不安、要請に応えるべく、日本初の血液専門病院、研究所を併設した仙台血液疾患センターの開設という大英断をされました。万巻の書を読み、研究に基づいた、あきらめ無い診療姿勢は、患者、家族の信頼を得て、重篤といえども希望を抱けることで、明るく、病院に見学に訪れた方に深い感銘を与える病院を運営されました。

旧式の光学顕微鏡による網膜焼灼による右眼失明に加え、2004年に罹病した脳幹部梗塞の影響は、弱視であった左眼も徐々に視力が低下し、東日本震災後ごろからは足元の確認もおぼつかない状態でありましたが、先生の名言“重症患者に助けられ”と周囲の援助の手を快くうけいれる態度へと変化し、日々の診療を自分の状態に合わせて続けていらっしゃられる姿は、かっての独立独歩でさっそうとしたスタイルが好きな先生を知るものとしては、変容のありようを学ばさせていただきました。

多くの訓戒のことばと長きにわたるご指導を感謝しつつ、今後は叱咤激励の励ましの声をいただけない静穏の時間のなかで、先生とのわかれに戸惑いと深い悲しみを覚えています。
安らかに冥府の世を楽しんでください。
再び永世のあの世で再開することを心から願いつつ、しばしのお別れを申し述べて弔辞とさせていただきます。

平成27年5月27日 齋藤淑子

目下、齋藤淑子は、書きかけの原稿のデーターを最新のものにするため、”患者”と向き合っています。
すでに冥界に旅立った患者と、先生はどのような出会いをされているのかしら?と、
一緒に患者データを繰り返し繰り返し掘り下げて検討しながら、

『助けられなかった患者は、どうやってむかえてくれるだろう?』まだまだ、活力があるときには『まだ来るな!と追い返されるかな。』など、白血病からの生還に寄与できなかったのは何故だと追求、研究、文献の読み漁りをしていました。最期の日まで、患者を助けたかったのだけれど、体力、気力も尽きてきて、『もういいかな』
患者に自分で食べて美味しかったのは、食べさせたくて。病棟、閉鎖まぎわの、毛ガニは大好評で、生きていて良かったとまでいってくれた患者もいましたっけ。
患者との談笑は、愉しそうだったので、再開しているでしょうね。


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思い出のナツスイセン

2015-08-16 22:14:08 | 血液専門医宇塚善郎

お盆の送り火前に
受理されるかどうかは不明ながらも、一つのテーマは投稿。
次にとりかかり始め、
宇塚先生の、保存タイトルが”長い長い旅”。
エッセイ風ですが、れっきとした学術論文です。
生涯のテーマ【白血病治療の化学療法の治癒的治療法の確立】の実践成績のまとめ。
東日本大震災前に投稿し、修正が来たのですが、混乱の中で、締切日前には再投稿できませんでした。
その後も、困難は続き、いつもいつも、ひっかかりを抱きながら過ごしてきました。

1970年代は、急性白血病化学療法の勃興期で、
宇塚先生は、乳剤の感光で手を黒くした(医師のくせに、手が不潔と思われて陰口をする人もいました)トリチウムチミジンを使用したDNA増殖解析でアプローチ
新人私齋藤と高橋先生は、白血病の増殖動態解明に、新手法の幹細胞の培養でせまり
真夏のセミナーの演者として選ばれ、会場の榛名湖にむかいました。
清貧著しく、エアコンのない、かろうじて走るという車で向かったのですが、
ラジオからは、気温37℃を超えたという声が流れてきました。

道沿いの宇塚先生の親戚の家で休息しながら、目的地に辿り着こうということで広大なお屋敷に。
門から玄関まで、すっきり伸びた桃色の花が続いていました。
奥さまが出ていらして、ここで先生を喜ばし、私が愕然とした発言、ご夫婦での来訪と勘違いされたのです。
その後も、異なる季節に訪れ、宇塚先生が好まれた広い応接間(百坪)を思い出します。
今自宅の、狭い庭に細々と咲き続けているナツスイセン。

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戦後70年

2015-08-15 22:01:59 | 日記・エッセイ・コラム
言論統制、相互監視網で疑心暗鬼が終了した70年前の8月15日、正午。
多数決の論理をふりまわせる大量議席を国民が与えた与党による、安全保障関連法案。
戦争放棄を明言してある、憲法9条には違反していないというが………。
包囲網で、9条が骨抜きにされ、庇を貸して、母屋を乗っ取られなければよいが。
有史以来、男性論理の社会で営々と続けられなくならないのが、
戦争、売春。
エジプトを治めた女王の時代(ハトシェプスト、クレオパトラ)は、戦争はなく、交易で国を富み、栄えさせたが、王の時代になると戦争が復活。

今日の報道で
【国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)が、売買春の合法化を支持する方針を決定した。】
には、唖然。
【シェティ事務局長は「性労働者は世界で最も軽視された職業集団であり、差別と暴力、虐待の危険に常にさらされている」とし、合法化を目指す意義を強調した。】合法化すると、虐待は避けられると考える心理が理解出来ない。




七昔 ラジオの前で 正座して 陛下の声で 敗戦を知る
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お盆;家族の有り様

2015-08-12 15:28:20 | 日記・エッセイ・コラム
お盆は、仏教行事。
お経にも、連綿と続く家族の大事さが唱えられているので、
住み込み奉公の時代から、家族のもとへの帰郷となる。
昨年は、まったく生らなかったハマナスの実、今年はお盆の数珠を蓮に供えられる実り、ミソハギで入口を浄め。

お盆の帰郷=先祖の墓参りではない時代に突入しているようで、
見捨てられる墓、共に過ごした大事な人をしのぶモニュメントとしての、独創的な墓などを報道されている。
日本という2000年ぐらいの民族の、葬られ方から、一族が一緒の墓の歴史はいつから?
名のある人は、一人、一人、墓碑銘で称えられ。とは言うものの、男尊女卑。
家族のしがらみから、婚家の墓に一緒に葬られたくないから、自分の墓を買ったので安心とか、嫁ぐ前の墓に入れてと願いしているとかの話を聞かされることが多い。
独身の身としては、結婚とは?と思い、
葬られる場所は、両親、先祖の墓にが、当然と思っていたが、
死後もともに過ごしたいのは?と考えると、すっきり。

一緒に過ごした時間を費やした仕事の成果を、残された私が、何とか受理してもらえるように、突き返されても、書き直し、投稿し続けるのみという結論に達し、
データー整理が完遂したのを、お盆期間中に投稿し、送り火とする。
まだまだ、次があるので、精神的糧があるという、ありがたさの中に生きさせていただきます。


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祭り 仙台七夕

2015-08-09 13:22:44 | 日記・エッセイ・コラム
祭り 観光色彩濃厚にみえるが、継続してきた担い手は、祈りを込めて実施していると思う。
仙台七夕は、沈黙、たたずんでいる祭りですが、自然の風により、人の流れによって、動き出す。
無関係そうに見える多くの人も、祭りに参加できる祭り
今年の、仙台七夕は、祈りの形が、意向が、静かに主張していた。
戦後翌年には、七夕祭りが開催。吹き流し、短冊の中に、70年前の映像が入り、

核廃絶を願った、世界から寄せられた折り鶴の吹き流し、メッセージ
東日本大震災からの復興の進みを込めた吹き流し
子供の健やかな成長をねがう紙衣裳
多くの老舗は、意匠を1年前にデザインし、手作りし(外注も増えたというけれど)、
折り紙、切り絵、和紙の絞り、手漉き和紙 と 
手作業の技。配色、家業をアピールしている。
多くの祭りは、たたずんで見守るが、七夕は、動きながら、触りながら、短冊を書いて寄せたりで参加できる、珍しい祭りと思う。

夏の祭り。記念日ではなく、一般的に祈りを込めて夏に開催されるのは、どうしてなんだろう?
”たましい”が、触れ合いやすい、エネルギーにあふれた、実りも約束される、季節だから?






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