連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

敬老の日

2015-09-21 19:21:47 | 日記・エッセイ・コラム
敬老の日は、個人的、家族的ではなく、社会的に本当に”老”を”敬”う日だろうか?
始まりは、としよりが、人口比では5%ぐらいと、まだまだ少なかった昭和22年に兵庫県の村で始まり、その後全国に。昭和55年に人口比で10%を超え、その後右肩上がりに急増し、人口減、若年者人口減となり、今や、65歳以上は25%を超えてしまった。この数字は、老人は、年金をあてにした生活だけではなく、稼ぎ続ける体力、介護不要な生活を維持してくれなければ、やっていけないぞ、日本!という声に満ち溢れ、情報提供される日、と言い換えられる日?

後期高齢者の体力、筋力の低下は、生物学的にはやむを得ない。
知力は、新規知識の導入期待は、放棄してしかるべきと思うが、既に獲得し、習熟した知識の活用のレベルの低下は、軽度でしょう。若者の職場を占拠せず、仕事の継続の仕組みづくり。過去にはなかったか?過去に高齢者は活用されていた。知識を有用として。過去と違うのは、数の増加!
「船頭多くして船山に登る」の例もあるので、筋力提供者としての体の提供者とならなければ、需要に対応不可でしょう、今後は。

88歳まで支えた恩師は、77歳で脳幹部梗塞。不思議な後遺症で、じわりじわりともともとの視力障害が進行。
左右の下肢の感覚、運動傷害。それ以外の部位も感覚、運動障害。
手助けが必要になったのは、85歳の、酷暑の夏。
片側で支えてみたが、他の人が支えている状態を観察すると、
倒れないというだけで、よく歩いているとは表現できない状態。
前に立ち、両肩に先生の手を置いてもらい、先生の歩くリズムを感じ合わせると、
体調の良い日は、速歩。
「速かった!」と叫ぶ私に、晴れやかなうれしそうな顔で「速かったね!」
高齢者のペースに合わせて、達成できた時の喜び。代えがたい幸せな時間を生み出します。
二人三脚で、若者だけであれば、1倍の仕事を、1.5倍になれば良しと考える仕組みができると、
高齢者、若年者双方が、豊かな幸せな時間が流れるのではないでしょうか。
高齢化の流れは、当分は進行するのですから。
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