「十三の砂山」と題した斎藤の絵 津軽じょんがら画集より
「十三の砂山」と題していくつかの作品があることをブログを見た方から教えていただいたので、池田敏章コレクション図録からの抜粋です。比べてみてください。ほとんど同じ構成、配置、人物となって入るが、表情と筆の力の違いがあるように見えると思います。
十三湖大橋の中州の公園には「十三の砂山」と題した歌碑がある
歌碑には十三民謡とある
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~青森県北津軽郡市浦村~ |
《十三の砂山》の歌われる市浦村十三(じゅうさん)は、津軽半島の西北部に位置し、東側にはシジミで有名な十三(じゅうさん)湖が広がります。十三とは、元禄13(1700)年に、津軽家5代藩主・津軽信寿が土佐守に任じられたことから、それをはばかって「十三」は「とさ」から「じゅうさん」に改めたといいます。ただし、十三湖は13の河川が流れ込んで出来た潟湖であって、どうも地名としては「じゅうさん」の方が古いようです。
この十三はかつて中世の港湾施設を持った湊町であったといい、鎌倉時代には十大貿易港として指定され、江戸時代には、三厩、深浦、鰺ヶ沢とともに「津軽四浦」の1つとして知られ、日本海を航行する北前船の「弁財衆」が集まって賑わったところといいます(弁財衆とは、船頭衆の責任頭のこと)。
この《十三の砂山》は盆踊り唄ですが、元々は《酒田節》と呼ばれる「舟唄」であったといいます。
○酒田興屋(こや)の浜 米ならよかろ 西の弁財衆に ただ積ましょ
という歌詞で歌われ、酒田から各地に伝えられたもののようです。この種の唄は、日本海沿岸では歌われており、新潟では「弁財衆」の転訛である《米大舟(べいだいしゅう)》という曲が伝承されています。
十三でもこの《酒田節》が伝えられて「舟唄」として歌われ、そして「返し」をつけて踊り唄にしました。それも独特で、第3句目を逆にしての後半4文字を繰り返していくスタイルをとります。
また元々は、太鼓だけの伴奏による素朴なものだったそうです。それを、津軽民謡の成田雲竹が、昭和26年の東京での「郷土芸能大会」へ出演する時に、高橋竹山による三味線の手付け、節回しを整えて、今日のような形になったそうです。
かつて繁栄した湊町・十三も大津波や洪水などによって、「砂山」が残るだけになってしまったイメージ、そして技巧的な節回しの津軽民謡の中で、大変美しく、哀愁に満ちたメロディは、人気があります。
上記「土佐砂山」の説明は線翔庵様 http://senshoan.main.jp/index.html からの参考資料です。