夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

あれから3年

2014年03月11日 08時19分42秒 |  岬な日々


あれから今日で3年になります。
家族と連絡が取れなくなって、それでも道路も寸断されていて現地には入れない知人の苦しみ、嘆きをそばで見ていて言葉もなかった日々が続いていました。
妹さんと連絡が取れ、でもご両親の最後を知り、とにかくご両親の遺体を救い出さなければとじりじりしてやっと現地に向けて出発できたのはそれから9日も経っておりました。

習性でカメラを持参しましたが、とても平常心でカメラを向ける気持ちにもならなくって、とにかく何かの記録になればという義務感だけでほんの数枚だけシャッターを押しました
報道カメラマンなら心を鬼にして撮影できるのでしょうけど、普通の人間にはとても無理な状態でした。

原爆のとき、私はまだ2歳になる直前でまったく記憶にありませんが、父の遺体を捜しに被爆地に入った私の母、祖母の気持ちが想像できるような状態でした。あの時もとにかく身に着けていた腕時計だけが身元を確定するものだったのだそうです。

一月経ったときにヴィスワヴァ・シンボルスカの詩を捧げました。私に当ててもたくさんの友人たちからのお見舞いのメールを頂きました。



もう三年も経つのだから、自分の足で立ち直らなければって言う意見もあります。でも被災した人たちが、生活を取り戻そうとしても、自分の家があったところに戻れるのかどうかが分かったのでさえやっと去年のこと。
自治体が復興プランを立てようにも、国の指針、そしてそれからどれだけのお金を出してくれるのか、歳入の道がなくなり、人手もなくなったった地方の自治体には目の前の惨状を見ているわけですから、心苦しい毎日であったことなのだと思います。
家を建て直せるという素晴らしく幸運な人でさえ、その気があっても、上下水、電気、ガスなどの生活に必要なインフラがまだ追いついていない。復興の波に乗って、工事をやる人も集まらない。
まして高齢者、収入の道を閉ざされた人々にとってはそれがどんなに高いハードルなのか。
妹さんの会社、高台にあり、津波の被害からは逃れられましたが、クライアンも下請けもなくなってしまって、従業員の生活の道を閉ざさないと会社を閉鎖しなかった経営陣の努力ももう限界。妹さんは結局、東京に出てきることになりました。彼女は年齢的にも、経験もない仕事に応募したのですが、会社が、彼女の状況を勘案してくれて、幸運にも仕事につくことができました。、
今の経済状態の中では、被災地の会社の倒産は増えていくと思いますし、失職した人々の再就職などのケアがどれだけできるのか先は明るくありませんね。
まだまだ長い道のりなのですね。