
私はなかなか寝付けなくて、眠ってもちょっとした音で目がさめたりする。
でも、岬にいると虫の声を聞きながら熟睡している。
風の音、虫の声、蛙の鳴き声などがかなり大きくても平気、というよりむしろそれで安心しているようなのだ。
おそらく川のせせらぎや、海の波の音でもそうなのかもしれない。一度慣れてしまえば、平気になるだろうと思う。
もちろん、それが危険を警告するような鳴き声や異常な波や風の音であれば、別だろうけど。
学者はf分の1の揺らぎとか、いろんな説明をしてくれるかもしれない。
でも私は、それが種として生きてきたなかで、DNAのなかに危険なものではないと言うことが刷り込まれているからじゃないかなって想像している。
普通の範囲の自然な音は、それがかなり大きな音であっても、人の本能に安心感を与えているのだと思う。
だからそれよりも小さな車の音とか、その他の人工的な音がするとふっと目がさめる。
ところが都会の中で育って、自然の中での音を知らない子供たちは、逆に車の音のほうが眠れる。虫の声が煩いから、怖いから眠れないってこぼす。
とすると、DNAに刷り込まれたというのはちょっとおかしいのかな。
この安心感というのは生得的に産まれるものだろうか?
作家が何かを表現するときに、自分が当たり前だと感じていること、そして自分の表現にその当たり前を使おうとするときに、それが自分だけの方言であるのか、本当にそれが共通概念として通用するのか、その辺はちょっと考えなければ、他の人に通じないものになってしまうかも。
そのくせ、とても見たかった映画を見ているのに、爆睡していたりする。
同じDNAを持っているはずの子供でも、良く眠る個体と、眠れない個体。
後天的な要素が大きいのでしょうね。
最近、眠れない時間が増えてます。
外はまだ暗いのに、進まない時計の針を見ている時間。
ただ、それだけで、おきだして何かする訳でもない。
眠れないと思いながらただ、時間を過ごす。
昼間、こころが 眠っているのかもしれませんね。
眠れなければ、眠るまで何かしている。
でも考えてみれば、昔も結構そうでした。
眠れなければ起きていました。でも逆に眠いけど2日も3日も仕事や、不眠で眠れないこともありました。
眠りたいときに、眠れないことはありましたけど、眠くないときには寝ませんでした。
昔はそれでも体力があり平気でした。
今は徹夜を一日すると、疲れが数日抜けません。
眠くなくても眠るように努力し始めました。